第 2 章 欧米における生物多様性をめぐる動向
1 生物多様性の概要 - 生物多様性とは何か
2010年は、国連が定める国際生物多様性年686(International Year of Biodiversity)であり、名古屋で開 催される生物多様性条約第 10 回締約国会議(CBD COP10)を始め、世界各地で生物多様性に関する 様々なイベントや取り組み、催しが実施される。生物多様性(Biodiversity)あるいは生物学的多様性
(Biological Diversity)という言葉は、地球上すべての生命体の多様性を意味し、以下の 3つを含む包括 的な概念である687。
1)生態系の多様性: 食物連鎖などの生物間の相互関係と、それを取り巻く土壌や水などの相互関係 を総合的に捉えた生物社会のまとまりにおける多様性
2)生物種の多様性: さまざまな種類の生き物が存在する多様性 3)種内の遺伝的な多様性: 遺伝子レベルにおける多様性
生物多様性条約が起草される以前から、絶滅の危機に瀕する野生生物の取引を規制するワシントン条約
688、湿地の保全を目標とするラムサール条約689などが存在したが、生物多様性条約は、個々の絶滅危 惧種や、特定の保護地域を保全するアプローチではなく、生物の多様さという包括的な概念に着目し、生 態系システム全体を守ろうという意図から生まれたものである。
1-1-1 生物多様性がもたらす恩恵(サービス)とそれを喪失することによる弊害
① 概要
生物多様性がもたらす恩恵(サービス)とは
生物多様性が人間にもたらしている恩恵は、既にあって当然のものとして受け止められているが、そうし た恩恵(これらは一般に「サービス」と呼ばれる)は以下表 22にまとめることができる。
686 UN resolution 61/203。 1992年リオサミットで定められた生物多様性「2010年目標」の期限に合わせ、2010年が国 際生物多様性年と定められた。 http://www.un.org/Docs/journal/asp/ws.asp?m=A/RES/61/203
687 CBD Article 2, http://www.cbd.int/convention/articles.shtml?a=cbd-02
688ワシントン条約(Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora), 1973年採 択。http://www.cites.org/
689ラムサール条約(Convention on Wetlands of International Importance Especially as Waterfowl Habitat), 1975年 発効。http://www.ramsar.org/
表 22 生物多様性が提供する様々なサービス
サービス分類 内容 例
供給サービス 生態系から得られる財や製品 食糧、繊維、バイオマス燃料、医薬品など 調整サービス 生態系が自然のプロセスを制御
することによる恵み
気候や土壌浸食の調節、疫病の予防や花 粉媒介、自然災害からの防護など 文化的サービス 生態系から得られる非物質的な
恵み
レクリエーションの場、霊的・宗教的な価 値、審美的な喜びなど
基盤サービス 他のサービスを維持するための自 然のプロセス
栄養塩循環、一次生産など
出典: World Resources Institute. The Corproate Ecosystem Services Review (2008)690.
生態系システムの保全は、人類の生活、福祉に深く結びついている。食糧や水、エネルギーといった財、
あるいは洪水や土壌の浸食の予防や、そうした災害に対する緩衝として、人類は自然から大きな恩恵を 受けている。特に、生態系の恵みに依存する住民の数が多い途上国では、生物多様性は住民の生活の 基盤となっている。低所得国では、天然資源はその国の富全体の約 26%を占めるという研究691もあり、
生物多様性の保全は、貧困削減の重要な手段といえる692。
また、自然生態系の中から発見される物質が、難病の薬を開発する鍵となったり、低コストでそうした薬を 量産する助けになることもある693。現在使用されている抗がん剤の7割以上は、生態系に由来するもの、
あるいは自然の化合物を元に作られている694。例えば、キナの木の皮からマラリア治療薬であるキニー ネが作られるなど、生物多様性豊かなアマゾンの熱帯雨林は、これまでも新薬発見・開発の場となってき たが、未発見の植物種や自然物質が、エイズや糖尿病、アルツハイマーといった難病の治療に道を開く のではないか、という期待から、100 以上の企業が、アマゾンの生態系および伝統的な知識体系の調査 に助成金を出している695。最近では、タミフルの成分として欠かせないシキミ酸を含む木が数種類、インド 西部の生物多様性豊かな森林で発見されている696。
生物多様性の恩恵を受けているのは先進国も同様であり、例えば、米国の食糧生産のおよそ三分の一 は、蜜蜂を媒介した授粉によって成り立っており、その経済価値は年間15億ドルと見積もられている697。 生物多様性による恩恵(サービス)の喪失が引き起こす損失
そうした生物多様性の喪失による被害は、既に出始めている。例えば前述の蜜蜂の例で言えば、蜜蜂の コロニーが崩壊する「コロニー崩壊異常(Colony Collapse Disorder)」と呼ばれる現象がここ数年目立っ
690健全な生態系は、多くの場合複数のサービスを同時に提供する。例えば森林は、近隣地域の住民に野生の食物、繊維、
薪などを提供する(供給サービス)。さらに、地滑りを防ぎ、水をろ過し、二酸化炭素を吸収することで大気中の温室効果ガ ス濃度を調節する(調整サービス)。また、レクリエーションの場、あるいは文化的、宗教的な聖地として利用される場合もあ る(文化的サービス)。
691この数字は、産油国などを資源輸出がGDPに占める割合が20%を超える国を除外した数字である。 The World Bank. Where is the Wealth of Nations? Measuring Capital for the 21st Century. 2006.
692生物多様性と貧困削減については、例えばUNEP-WCMC. Biodiversity and Poverty Reduction. Biodiversity and Poverty Reduction: The importance of biodiversity for ecosystem services. 2007. などを参照。
693 John A. Beutler. "Natural Products as a Foundation for Drug Discovery." Current Protocols in Pharmacology.
September 2009. http://www.currentprotocols.com/protocol/ph0911
694 TEEB/ In Amazon, a frustrated search for cancer cures, November 17, 2009, http://www.reuters.com/article/idUSTRE5AG00V20091117
695 Wealth of the Rainforest, http://www.rain-tree.com/
696 現在のところ、この木を利用したタミフル量産の目途はたっていないが、こうした発見が、医薬品をより低価格で量産す
るきっかけになることが期待されている。SciDev.net. "India's trees are potential Tamiflu source." April 1, 2009.
http://www.scidev.net/en/health/bird-flu/news/india-s-trees-are-potential-tamiflu-source.html
697 Renée Johnson. "Honey Bee Colony Collapse Disorder." Congressional Research Service (January 2010).
http://www.fas.org/sgp/crs/misc/RL33938.pdf
ており、例えば2006~2007年にかけた冬には、米国の蜜蜂コロニーの31.8%、翌2007~2008年の冬
には 35.8%が崩壊している。コロニー崩壊現象の原因は不明だが、殺虫剤の使用や棲息地の減少、寄
生虫など様々な要因が指摘されており、特定の何かではなく、生態系全体の健全さを維持することの重要 性が改めて指摘されている。コロニー崩壊異常の結果、カリフォルニア州ではアーモンドに授粉させるた めのコロニー価格が急騰しており、2004 年には 54 ドルだったコロニー価格が、2006年には 154 ドルと なっている698。
また、作物種の遺伝的多様性の喪失も、食糧の安全保障の観点からみた懸念材料である。過去 20年間 の農法の変化や遺伝子操作の結果、人間が食用とする農作物や畜産物のほとんどが、ごく少数の品目 から生産されている。30種の作物が、人間が消費するカロリーの90%を占めており、また畜産物の90%
は、わずか 14 種の動物から生産されている699。こうした選択と集中は、生産量の向上や農作業の効率 化といった利益をもたらす一方で、病原菌や気候変動など、農作物や家禽に被害を与えるような外的要 因に対する脆弱性を増すことになる。このように特定の作物のみに食糧生産を依存するのは危険であり、
生物多様性を保全することは、そうしたショックに対する緩衝材としての役割を果たす代替作物を保全す ることになり、食糧の安全保障につながることになる700。
また移入種によって自然の生態系が乱されることにる被害も深刻化している。米国国内だけでも、その被
害は年間1,200億ドルに達し、世界全体ではGDPの5%に達すると見積もられているが701、移入種と在
来生物種の間の相互作用の結果として、在来生物種が駆逐され、時には絶滅に追いやられることもある。
移入種が世界中に蔓延していくことで、長期間の生物進化の歴史産物であり、同時に次の生物進化の重 要なシードでもある生物相や遺伝子の地理的独自性は失われ、生物多様性は崩壊しつつある。さらに近 年では、遺伝子組み替え技術により、病害虫抵抗性遺伝子や日持ち性向上遺伝子を組み込んだ組み替 え作物に代表される組み替え体といった「新生物」あるいは「新遺伝子」が誕生し、その一部は商品として 流通が始まっている。この生物進化のプロセスを無視して生み出された「新生物」が世界中に拡散し、ど のような振る舞いを見せるのか、データが不足している現段階では予測も難しい702。
② 生物多様性のサービスの金銭的価値
こうしたサービスの価格を総合的に計算しようとした1997年の研究では、生態系がもたらす価値は約33 兆ドル(当時のレートで約 3300 兆円)に相当する703と試算されたが、当時の世界全体の GDP は約 18 兆ドルだった。つまり生態系は、世界全体の経済活動の 2 倍近い価値を無償で提供していることになる。
しかし、無償であるがために、その損失に注意が払われることはほとんどなく、人口増や生活水準の上昇 といった様々な要因から、地球環境および生物多様性は大きな影響を受けている。
698 Sumner and Boriss. “Bee-economics and the leap in pollination fees.” ARE update, Giannini Found. Agric. Econ.
9 (2006), pp. 9–12. アーモンドの生産には、6週間の開花期間に平均2.5コロニーが必要とされる。カリフォルニアは、世
界のアーモンド供給のおよそ80%を生産しており、同州のアーモンド策地面積は、2012年までに80万エーカーに拡大す ると予想されている。
699 UNEP. Global Environment Outlook 4. 2007. http://www.unep.org/geo/geo4/media/
700 菌類や藻類などを除く高等植物27万種のうち、食用となるのは1万から15,000種。そのうち栽培されているのは約
7,000種である。
701 Nature Conservancy. Impact of Invasive Species. http://www.nature.org/initiatives/invasivespecies/about/
702国立環境研究所. 侵入生物 - Invasive Species. http://www.nies.go.jp/kanko/news/20/20-4/20-4-05.html
703 これは、地球上の生態系を、海洋、河口域、サンゴ礁、熱帯林、農地、砂漠などおおまかに16種類に分け、また生態系
サービスを上記種類に整理したうえで推定された推定値。 この結果は、一方ではあまりにも高すぎると批判されたが、他 方では「無限なものに対する著しい過小評価」(Toman 1998)であるとされた。 著者らは、この数字は「最低ライン」の数字 と捉えられるべきと主張している。Costanza R. et al. “The value of the world's ecosystem services and natural capital”.
Nature. 1997. 387: 253-260. http://www.nature.com/nature/journal/v387/n6630/abs/387253a0.html