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初期のフォイエルバッハ思想を見ていく上で、『理性論――一にして、普遍、無限なる理性に ついてDe ratione, una, universali, infinita, 1828』(以下、『理性論』と略)と『死と不死に関す る思想Gedanken über Tod und Unsterblichkeit, 1830』(以下、『死と不死』と略)は、きわめて 重要な著作である。一般的に概括するなら、前者は汎理性主義を、後者は神秘的愛を説く汎神論 を基調とする著作と言えるであろう。両著作をまずは分けて問題にする必要があろう。この第1章で は前者を、次の第2章では後者を中心に論じることにする。

ただ、この章で扱われる『理性論』については、先のヤノウスキーのまとめにあったように、〈人 間主義VS反人間主義〉、感性と思惟の〈二元論VS非二元論〉、〈神的理性VS人間的理性〉、〈ヘ ーゲル主義 VS 非ヘーゲル主義〉といった解釈の混迷や対立があり、今もそうした状況は存続して いるという難点を抱えている107。論者によって視点の置き所が異なるのはもちろんだが、論争の激 しさに輪をかけているのは、資料的混乱とイデオロギー的な読み込みにあると思われる。混乱を解 消するには、先入見を振り払い、原典に即してフォイエルバッハの問題関心の所在を突き止める作 業が不可欠であろう。

ただし、あまたある『理性論』解釈のなかで、ウィルソンが与えた「否定神学的」108という特性描写 は、多くのフォイエルバッハ研究者がとらわれている人間解釈――思弁的著作であるにもかかわら ず、後年の人間学的因子を無理に読み込もうとする傾向――から抜け出す意味で、一考に値する。

「否定神学的」という特性は、「非人間的」「反人間的」な要素が初期の思弁に含まれていることを意 味し、安易な人間学的読解に対する警鐘となるばかりでなく、半田の言う〈「絶対的一性」の突出〉

を吟味する上でも有効なまなざしであろうからである。筆者は、半田と同様、『理性論』を「汎理性主 義」の著作と特徴づけたいのだが、しかし、「否定神学的」という先のウィルソンの指摘は、『理性論』

の主軸となる理性が――おそらくはフォイエルバッハの意図に反して――「内在的」というより「超越 的」であるかのような印象を与え、半田の指摘する「現世志向」「反彼岸主義」に抵触するかのように も見える。しかし、この外見上の齟齬を筆者は若きフォイエルバッハの拙さゆえの矛盾というより、む しろ彼の問題意識のもたらす特有の緊張関係と解したい。この緊張が初期フォイエルバッハ哲学 にあればこそ、後に彼が唯物論的・人間学的転回を遂行するに至るという、その十分な根拠がある と考えるからである。この点に同意していただけるなら、おそらく旧解釈が分岐していった事情や、

30年代のフォイエルバッハが哲学的思索を深める途上でロック(John Locke, 1632-1704)などの経 験論に与しないわけなどについても、首肯しやすくなると思うのである。

この章では『理性論』に焦点を合わせ、若きフォイエルバッハの執筆動機を踏まえながら、ヘー

107 半田は『理性論』を「人間学的」に読み込んだ論客として、ボーリン、ホメス(Ulrich Hommes)、

H.-J. ブラウン、ウォートフスキ、ライテマイアー(Ursula Reitemeyer)の名を、また、「思弁哲学的」に 読み込んだ論客として、ラヴィドヴィッツ、ガーゲルン、ボックミュール(Klaus E. Bockmühl)、アスケ リ、コルネール、ウィルソン、ニュートリングの名をあげており、それぞれの解釈の問題点を考察して いる。半田秀男、前掲書、上巻、683頁以下参照。

108 Ch. A. Wilson, Feuerbach and the Search for Otherness, New York 1989, pp. 44-45.

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ゲルの見方との異同(特に宗教観についてのそれ)を確認しつつ、28年のフォイエルバッハがいか なる意味での「ヘーゲル主義者」だったのか、その輪郭を明らかにしてゆくことにする。まず、第 1 節では、フォイエルバッハが神学から哲学の領域に進み、ヘーゲル哲学に潜む無神論的傾向(人 格批判)に感化されて『理性論』を執筆するに至る経緯を明らかにする。第 2 節では、ヘーゲル哲 学の人格批判を『理性論』でどのように継承し、展開しているかを見る。第3節では、「感覚」が自然 の制約を表わす否定的傾向の強い『理性論』のなかで、唯一ヤコービの「共感」概念だけが肯定的 に評価されている点に着目し、その意味を探る。第4節では、このヤコービの「共感」概念と連動す る重要な概念「何かあるものaliquid」の両義性について考察する。そして、第5節では、第3節、第 4 節で指摘された「感覚」概念の両義性が思惟の飛翔力を強めている事情を分析し、『理性論』の なかにある神秘性の由来を明らかにする。これらの考察を経て、『理性論』が汎理性主義の著作で あることを論証し、かつ、『死と不死』と全く異なる傾向の著作なのではなく、むしろ相補的関係にあ る著作であることを第 2 章で確認し、初期フォイエルバッハの思弁の特性をより明確に提示する予 定である。

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第1節 『理性論』執筆の動機――ヘーゲルへの接近

大学生時代のフォイエルバッハが父親の反対を押し切って神学部から哲学部へ移籍した ことはよく知られているが、ヘーゲルの講義を聴講するのは、1824年から26年のベルリン 滞在期である。フォイエルバッハは、46 年「自伝的断片」で「神は私の第一の思想、理性 Vernunft が 私 の 第 二 の 思 想 、 人 間 Mensch が 私 の 第 三 に し て 最 後 の 思 想 で あ っ た 」

(FGW10-178,『F全集』②266頁)と回顧している109が、この告白通りに彼が自らの思索を 深めていったとすると、ヘーゲルを聴講している頃はすでに第二の「理性」期にあったこ とになる。23 年秋の父宛書簡では、ハイデルベルク大学のプロテスタント神学者パウルス

(Heinrich Eberhard Gottlob Paulus, 1761-1851)の講義に不満を覚えてその聴講を止めたこと

(Vgl. FGW17, S.33, an Paul Johann Anselm von Feuerbach, Herbst 1823,『F全集』⑱15頁)、24 年1月には、思弁的神学者ダウプ(Karl Daub, 1765-1836)の講義を聞いてハイデルベルク からベルリンへの転学を希望していること(Vgl. FGW17, S.39, an denselben, 8. Jan. 1824,『F 全集』⑱25頁)、24年 5 月には、ベルリンで実際にヘーゲルを聴講し、ダウプを聞いた際 に不明瞭だったものが明快になったことなどが伝えられている(Vgl. FGW17, S.45, an denselben, 24. Mai 1824,『F全集』⑱35頁)。「自伝的断片」では「1826年」という見出しの 後、「今、僕はヘーゲルを片づけた。美学を除き彼の講義をすべて聞いた。論理学は二度も 聞いた」(FGW10-155,『F全集』②225頁)と述べられている。フォイエルバッハがヘーゲ ルの講義にいかに魅了されていたかは、以下の父宛書簡にも認められる。

ヘーゲルの講義は著作とは大きく異なり不明瞭ではありません、それどころか、明 晰で理解しやすいと言いたいところです。なぜなら、彼は、大抵の聴衆が好む考えや 理解力の程度に実に多くの配慮をしておられるからです。そのうえ――ここが彼の講 義の素晴らしいところなのですが――事象・概念・理念を事象そのものなかで展開せ ず、ただただ、あるいは、ひたすら事象固有のエレメントのなかで展開するわけでな

109 この「神は第一の……」の前に「1843-44年/『哲学の根本命題』」と2行にわたる表題 が付されている。この「自伝的断片」に関しては、前節で触れたように書かれた年代が事 実かどうかが常に問われるが、筆者は第三の「人間」の立場が43年『将来の哲学の根本命 題』の頃には成立していたという判断でよいと思う。ただし、これを「最後の思想」とし てよいかについては若干、疑問を感じる。というのも、フォイエルバッハは自ら編集した 全集(SW)第1巻への「序言Vorwort」において「抽象的な理性本質、哲学の本質」が「自 然および人類の現実的感性的本質」との矛盾として41年の『キリスト教の本質Das Wesen des

Christentums, 1841』に残っていたこと、44年の「ルターの本質」で「初めてこの矛盾は真

に克服され」、「哲学者を完全に人間のなかで消滅させた」と述べているからである(Vgl.

FGW10, S.188, 『F全集』②188頁)。41年の『キリスト教の本質』では否定的であった、

宗教の実践としての「エゴイズム」が人間の「幸福衝動」と合わせて肯定的に受容される のが46年の「宗教の本質」以降であることを考慮すると、43年の『根本命題』において、

人間学の基本的な立場が据えられ、その後、自然宗教や古代宗教へのアプローチによって、

宗教理解、身体理解を深めていったというのが妥当な見方ではないかと思われる。

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いときも、たえず厳格に事象の核心にとどまっておられ、たとえばふさわしいイメー ジを得るために何マイルも離れたところから糧をもってきたりせずに、思想をそれが 現れる他の形態や仕方においてのみ提示し、思想を人間の最初の最も直接的な意識と 日常生活において実証していらっしゃいます。……こうして彼のもとで人々は、概念 のなかに直観を、直観のなかに概念を獲得するようになるのです。

(FGW17, S.46, an denselben, 24. Mai 1824,『F全集』⑱36~37頁。)

興味深いことにこの翌年のダウプ宛書簡では、ヘーゲルを意識して「概念」を「絶対に 聖なる正義die absolut heilige Gerechtigkeit」と呼び、「私にとっては、神学でさえ、あらゆる 真理態と実在性をそれ自身の身につけている概念Begriff, der an ihm selbst alle Wahrheit und Realität ist、その概念の学の前で消失しました」と言ってヘーゲルへの賛辞が送られる。と ころがそのすぐあと、「シェリング哲学は、定量Quantumの内在的に跳躍する区別ではなく、

足を引きずった痛風的区別der hinkende und podagristische Unterschiedにしか至らず、そのた めに概念的に規定された諸体系のなかで順次配列される国へ〔定量を〕分析することがで きませんでした」と、シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling, 1775-1854)に対し てはいささか手厳しい風刺的批評が付記されている(Vgl. FGW17, S.60, an K. Daub, 29. Jan.

1825, 『F全集』⑱45頁、〔〕は引用者の補足)。『理性論』はヘーゲルのほか、エアランゲ

ン大学での教授資格論文審査の際に様々な厚意や尽力を受けていたハール教授(Johann Paul

Harl, 1772-1842)と、『理性論』原註でわずかに参照が記されているシェリング110の三者に

献呈されているが、ヘーゲルやハールの添え状に比べるとシェリングのそれは分量が短い うえ、取り立てて込み入った内容には立ち入らない、いわゆる通りいっぺんの挨拶にとど まっている。シェリング自身は1820年から27年の間、エアランゲン大学で「神話の哲学」

や「近世哲学史」などの講義をしており、26~27年の2年間は同じ大学にフォイエルバッ ハもいたわけだからシェリングの講義を聞くこともできたはずだが、その痕跡を示すよう な資料は今のところ見当たらない111。先に、『理性論』には「感覚」に関して「ヘーゲルほ ど真実に、同時にまた明瞭に展開した人もいない」(FGW1, S.136, I §7, Anm.24, 『F全集』

① 24頁、半田訳 29頁)という原註があると指摘したが、ヘーゲルの諸著作への参照の多 さも加味すると、やはりフォイエルバッハがベルリンへ移った24年からエアランゲンで教 授資格取得論文『理性論』を出版するに至る28年までの期間は、ヘーゲルの圧倒的影響下 にあったと考えられる112

110 Vgl. FGW17, S.113ff., an Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling, 18. Dez. 1828, 半田訳、358

~359頁。

111 半田は、シェリングへの献呈された『理性論』の添え状に、彼の講義についての話題が ないことから、実際にはシェリングを聴講しなかったのではないかと推測している。半田 秀男、前掲書、下巻、357頁参照。

112 筆者はフォイエルバッハに対するシェリングの影響が全くなかったと主張しているわ けではない。多くの論者が指摘しているように『死と不死に関する思想Gedanken über Tod

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