前章では、教授資格取得論文『理性論――一にして、普遍、無限なる理性についてDe ratione, una, universali, infinita, 1828』(以下、『理性論』と略)がヘーゲルの人格批判を継承・発展さ せた汎理性主義の書であることを論じてきた。ヘーゲルの思弁的理性の影響を強く受けて いた事情については、思弁的理性の全体論的視野に立って論じるという姿勢が一貫してい ること、また、この書の〈理論哲学+実践哲学〉のベースとなる人間論が、ヘーゲル『エ ンツュクロペディーEnzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse』の「対自 存在」をモデルとして構想されている可能性があること、がまず挙げられよう。たとえば、
第Ⅰ章「純粋思惟」における「我思惟す、ゆえに我万人なりCogito, ergo omnes sum homines」
の 規 定 は 、『 エ ン ツ ュ ク ロ ペ デ ィ ーEnzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse, 1827』第2版「小論理学」における „Ich ist Jeder“ (内容的に「対自存在Fürsichsein」)
の定式および内容と酷似していた。また、原註24でフォイエルバッハが参照指示を出して いる『エンツュクロペディーEnzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse,
1817』初版「主観的精神』論(§370註解、§390)には、「感覚」から「理性的なもの」への
連続的移行を可能にする「対自存在」を扱った箇所があり、ヘーゲルの「感覚」理解に対 してフォイエルバッハが高い評価を与えていることも確認した。「実践的感情」がたとえ「主 観的なもの」として「個別的」「偶然的」だったとしても「決定する bestimmen」作用に真 理が含まれているように、フォイエルバッハが肯定的な意味で使う「措定する作用ponere」
に無限者の認識へ到達するための真なる否定作用が含まれている点が、議論として重なっ ている。真理が「総体的なもの」であり、そこに至る道を「断絶」ではなく「連続」とし てとらえた点は、「全体論的holistisch」世界観として、忠実なヘーゲルの徒の側面が出てい る。
そして「何かあるものaliquid」の判断または「共感consensus, Mitgefühl」には、〈自然的 制約(否定)〉と、〈思惟作用の誘発(肯定)〉という二重の意味があった。両側面の緊張の なかで、意識は「何かあるもの」ないし「モノres」に隠されている〈不在の内在〉の意味 を探ろうとする。すなわち、その本質が判然としない「モノ」は「姿species」・「像imago」・
「影 umbra」という、言わば〈普遍者の痕跡〉であり、〈在るべきものがない〉という「欠
乏penuria」の感覚を抱かせるものである。この感覚から発せられる「隠れた力obscura vis」
に導かれ、ひとは理論的には無限者を「熱求studium」する「衝動Trieb」に駆られ、実践的 には他者愛へと向かい、自らの現実的「人格」を実現しようと努めるようになる。「純粋思 惟」の定式「我思惟す、ゆえに我万人なり」が「道徳学説の最高命題」(FGW1, S.94, IV §17,
『F全集』①66頁、半田訳68頁)と見なされたのは、こうした文脈においてであった。
しかし『理性論』において、人間に「現実的な人格」の形成へと駆り立てる真の主体は
「理性そのもの」であり、他者愛へと向かう「現実的人格」が生成するのは「無限者の認 識」と同時に生起する「自然死よりも神聖な死divinior morte naturali」(FGW1, S.30, I §6,『F
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全集』①20頁、半田訳23頁)においてある、と考えられていた。ここにザス、イェシュケ、
ウィルソンらに指摘された『理性論』の「全体論的holistisch-神秘的mystisch」性格がある。
前者の「全体論的」性格はヘーゲル哲学と共有しうる思弁哲学の基本的立場であるが、し かし後者の「神秘的」性格はヘーゲル哲学との相違点であるに違いない。ただ、問題なの は、後者の性格をどう評価するかである。フォイエルバッハがヘーゲル弁証法を忠実に体 系的に叙述していないことは確かだが、彼なら弁証法の展開をヘーゲル的にやろうと思え ばできたはずなのに、あえて独自の方法を――神秘的なものも含めて――採用したのは何 故なのか、この問題を見定めなければ、有意義なフォイエルバッハ像を獲得することはで きないであろうからである。
第 1 章第5 節で、われわれはシェリング的な「直観」がフォイエルバッハの「思惟」論 に現れている、という半田の指摘に触れた。人間の思惟における普遍者の直観によって、
具体的な人間愛に目覚め倫理的にかかわることが、あたかも〈絶対的一性〉実現であるか のような叙述は、たしかに『理性論』後半部に行くにしたがって散見される。この直観が 弁証法的記述(論証)を妨げていると評価した論客が、ウィルソンやコルネールであった。
しかし、すでに指摘したように、「直観」が思惟の直観であるかぎりで「知的」と言われる にせよ、「思惟する」あるいは「措定する」活動の知的上昇の動因となったのは「共感」で あり、その背景には個別性に制約された(つまり、感覚に縛られ、おのおのの個体に分断 された)自然がある。たしかにフォイエルバッハは、理性のなかにある神秘的なものに引 きつけられているのではあるが、論理的に説明しきれない意味が「何かあるもの」や不可 解な「モノ」のなかにあると感じられるがゆえに、他方で自然にも引き寄せられ、結果、
両者の間の緊張を高めるという構造があるように思われる。
この章では、『死と不死に関する思想Gedanken über Tod und Unsterblichkeit, 1830』(以下、
『死と不死』と略)における「自然」の問題を扱う。『理性論』と対照しながら、28年の書 において十分な説明を与えられていなかった「自然」の意義が『死と不死』で明確になる ことを明らかにしたい。新たに注目すべき用語は「魂Seele」である。『理性論』でも „Seele“ に 相当する “anima” は5箇所ほど語られているが、どちらかというと「心」――〈自然に制 限された感覚〉との関連で述べられるにせよ、無限者の「ことがら自体res ipsa」が内在し ている〈場所〉を意味するにせよ――を意味していて、自己意識・理性に生成する「魂」
という意味が必ずしも明確ではない。『死と不死』では、自然と精神とをつなぐ媒辞という 生命ある「魂」の役割が、より鮮明に描かれるのである。ただし、この「魂」の媒介的役 割は30年初版においてのみで、47年の改版(SW)では削除される(この点を主題的に扱 った研究は見あたらない)。この „Seele“ という用語は、十字架のイエスという人格を媒介 にせずに、汎神論的思弁をつらぬこうとする 30 年の立場を象徴するものであると同時に、
この媒概念が後の人間学的立場から見ると、人間の具体的現実をとらえるのにふさわしく ない概念と化して放擲される――そのように解釈するとき、非常に重要な意味を帯びてく るように思うのである。以上の問題を念頭に置きつつ、『死と不死』における、1)「神」の
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「人格」と「場」、2)三位一体論の潜在化と神秘的汎神論、3)魂の「目的」性と自然の「先 在」性、の順に考察し、『死と不死』の汎神論的性格と「神」、「精神」、「自然」の3者関係 における「自然」の位置価を見定めたい。
95 第1節 神のなかの「人格」と「場」
28年の『理性論』と比べて、30年に公刊される『死と不死』で、まず目立つのが神秘的
な「愛Liebe」の高揚である。「思惟」「理性」を基調とする『理性論』とは大きな相違であ
る。『死と不死』の「愛」は「感情Gefühl」、「感覚Empfindung」も含めた広い意味での〈感 性的なもの〉である。たしかに、『理性論』でも「愛」について述べられていた。しかし、
「共感」「共苦」を含め、自然の制約としての感覚に制約された愛は、思惟に至らないもの として否定的に扱われることが主だった。この書で肯定的に述べられたのは、理性の「隠 れた力」に駆り立てられた他の人間への「愛」であり、内容的に実践哲学の立論として大 きなウエイトが置かれている割には、最終章でわずかに述べられたにすぎない。また、ヤ コービやノヴァーリスなどのロマン主義的感情の愛は、「主観性の哲学」批判の視角で見ら れる場合は間違いなく退けられ、ヤコービの「共感」が評価されるのは、思惟や措定する 作用に上昇力を与えるかぎりにおいてであった。28年でやや影の薄かった「感覚」や「愛」
は、30 年の『死と不死』では、より積極的かつより神秘的に述べられるようになる。前章 で問題視していたのは、神秘的な思惟の飛翔を強める感覚の意味であった。『理性論』では、
判然としない「モノ」に走る予感や両義的な「感覚」に「神秘性」が含まれていることを 確認したが、その「神秘性」はいったいどこからやってくるのだろうか。「理性そのもの」
のとらえがたき神秘なのか。ならば、ヤコービの「共感」概念を「見事に言っている」と までほめたたえたのはなぜか。『理性論』の神秘性は、普遍者と個別者、理性と感性的自然 との間に走る緊張として現れるのが特徴だが、前章で「共感」「感覚」の背景にある自然の 意味を探ろうとした動機は、そのような疑問からであった。
残念ながら、『理性論』では自然に関するフォイエルバッハの肯定的言及が少ないため、
「感覚」「自然」への評価はわずかに垣間見られたにすぎない。しかし、このテーマは『死 と不死』では主題化されている。思弁哲学の「全体論的」なまなざしは維持されたままで はあるにせよ、『理性論』であまり論及されなかった〈自然の肯定的意味〉および〈思想全 体のなかでの自然の位置価〉が論及されているのである。執筆時期が『理性論』より前だ ったかもしれないという問題はあるが、その後のフォイエルバッハの哲学史的著作にも影 響を及ぼす要素として、『死と不死』の自然理解は見過ごせない論点と言えよう。
ただ、解読の際に厄介なのは、28年の『理性論』では〈理性VS自然〉、〈思惟とVS感覚〉
などの二者関係で論じられることが多いのに対し、30年の『死と不死』では、a.神、b.理性
(精神、自己意識)と愛、c.自然の 3 者関係が考察されているという点である。『理性論』
では「理性そのもの」が実体であることが明らかだが、『死と不死』では、a とbのどちら が実体なのかが明確には論じられていない(半田が『死と不死』のほうが先に書かれたの ではないかと推測する理由の一つでもある)。また、b の「理性」と「愛」は『理性論』の 思惟と感覚との対立するのではなく並立ないし融合している。キリスト教の神を汎神論的 に読み込もうと模索する態度と体系的整合性にとらわれない姿勢に由来するのであろうが、