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.現代日本語の行為者ニヨッテ標示受動文

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.本章の内容

本章では,現代日本語の行為者ニヨッテ標示受動文について論じる。行為者ニヨッテ 標示受動文においては,視点の関与/共感度階層の規則が基本的に認められない。書き 言葉で,排他的な焦点をはっきり指し示すというのは「ニヨッテ」の主な使用動機であ り,受動文であるというのは,二次的なものである。行為者ニヨッテ標示の受動文の典 型的なものは,行為者が受動文主格に物理的な力を加え,主格に状態変化が生じること を含意する。この特徴は共起する動詞の種類にも反映する。

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.はじめに

「ニヨッテ」で行為者をマークする受動文は「ニ」と異なり,比較的に均質的42であ る。そのまま「ニヨッテ受身文」と称する場合もあれば,受動化の動機から名付けて「降 格受動文」とも呼ばれている。さらに,その意味特徴から「ニヨッテ」で行為者をマー クする受動文を「中立受動文」43とも呼ばれる。久野暲(1986:79)はニヨッテ受身文が 視点表現ではないとしており,共感度階層が適用しないと指摘している。その指摘の有 力な証拠として,「X(非情物)ガY(有情者)ニヨッテVラレル」という受動文が自由に作 れることが挙げられる。

本章では,行為者ニヨッテ標示受動文は①視点が理由で受動になっているのではなく て,②ニヨッテというところで,原因というものを排他的に表すために使っている。③ その典型的なものは,行為者が受動文主格に物理的な力を加え,主格に状態変化が生じ ることを含意するという立場である。その特徴から,ニヨッテと共起する動詞には傾向 が見られる。

42 ここで言う均質は絶対的ではないことをことわっておきたい。久野暲(1983:199)は「ニヨッテ」受動文 のうち, 対応する単文能動文がないものが, 数多くあると指摘している。川村大(2012:59,60)も似た現象 についてふれている。具体例は以下のようである。

・その大手術は,山田第二外科部長によって,執刀を開始された。(久野暲1983:199)

・太郎は係官によって名前を呼ばれた。(川村大2012: 60)

確かに,上記のようなニヨッテ受動文には対応する能動文は存在しないが,意味上中立的であるという 点に変わりがないことに基づいて,本研究では行為者ニヨッテ標示の受動文は均質的であると認める。

43 益岡隆志(2015)は受動文を「受影受動文(直接受影受動文vs.間接受影受動文)vs.中立受動文」という23タイプに分けている。行為者ニヨッテ標示の受動文は「中立受動文」である。

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.一人称行為者のニヨッテ標示の受動文

行為者ニヨッテ標示の受動文は視点ではないため,発話行為の視点階層(話し手は,

自分より自分以外の誰か寄りの視点を取ることができない:E(話し手)>E(話し手以外)) や,有生性の視点階層(話し手は,人間より人間以外の有生物寄りの視点を取ることが 困難であり,有生物より無生物寄りの視点を取ることが困難である:E(人間)>E(非人間 有生物) >E(無生物))などは適用しない。主格と行為者はほぼいかなる組み合わせでも可 能である。「X(非情物)ガY(有情者)ニヨッテVラレル」の形式をしている受動文は現代 日本語ではごく普通に用いられている。その事実は行為者ニヨッテ標示の受動文におい ては,有生性の視点階層が適用しないことを裏付けている。さらに,一人称行為者のニ ヨッテ標示の受動文が成立すれば,発話行為の視点階層も適用しないと言える。

「Xガ私44ニヨッテVラレル」(一人称行為者をニヨッテでマークする)受動文の実際 の状況を見れば,「Xガ私ニヨッテVラレル」の用例は非常にまれである。ただし,「私 ニヨッテ」というのが非常に言いにくいのは,発話行為の視点階層が適用するからので はなく,「私」自身が「ニヨッテ」の文には出てきにくいことによるのである。例えば,

「私はおじ夫婦によって育てられた」という例文も,普通あまり言わない。言いかえれ ば,「ニヨッテ」があらわれる文章というのは,一人称自身が出つらい。「私ニヨッテ」

が出にくいだけではなくて,主語であっても何であってもそうである。どうしても言い たいのであれば,「筆者」というふうに三人称化して言ったほうが自然と思われる。「X ガ私ニヨッテ V ラレル」がほとんどの場合では現れないが,文脈があれば言えなくは ない。コーパスから集めたほんのわずかの例は,いずれも以下のような,普通ではない 用例に限られる。

(1) 私は,私によって生かされています。(『四季』)

(2) この人間像は以下の章で私によって主張される人間像にきわめて近い。(『自 然との和解への道』)

(3) 人(知)の(半語判読不能)はるかに及ばない今のような時点において,カナダと,

外務省における私の仕事とを心から愛するが故に,もしもそんなものが存在す るのなら,私によって行なわれた国家安全保障に対する違反,あるいは私がそ れについて知っているその種のことについて,私は自由に語るでしょう。(『外

交官E・H・ノーマン』)

(4) 「蟻巣川さんが,なんでお前のこと恨むんだい」「あのひとはおれによって学 内二枚目ナンバー・ワンの地位を奪われた」(『文学部唯野教授』)

44 「私/僕/俺」は全部一人称であるが,ここは便宜のため,「私」と省略して書くこととする。また,「筆

者によって」という表現も可能であるが,一人称ではなく,三人称扱いになっている。

例(1)は主格も行為者も「私」であり,かなり特殊なケースである。例(2)(3)は従属節 にあらわれる例であり,上下文脈の影響が大きいから,主節にあらわれる場合の振る舞 いと一致するとは限らない。例(4)は単文の例で,「X(有情者)ガ私ニヨッテ V ラレル」

という構造をなし,検討していきたい。

例(4)において,「私ニヨッテVラレル」という文が成立するのは,話者が傍観者とし て話しているからである。この文脈では,話者自身の視点を離れて,傍観者の立場で何 かを描きたいという動機付けがある。「蟻巣川さんが,なんでお前のこと恨むんだい」

という問いに対して,「おれがあのひとの学内二枚目ナンバー・ワンの地位を奪ったか ら」と答えても間違いではない。しかし,「蟻巣川さんが」の話から,いきなり「おれ が」の話になるのは座りが悪い。話の流れで話者はやむを得ず自分自身の視点から離れ て,他者である「蟻巣川さん」から見てどのようなことが起こったかを述べる必要があ る。繰り返しになるが,このような文が非常に少ない。学者風の特異な話し方を表現し たものと考えられる。「?おれによって」という句が通常は不自然である。「おれ」と「によって」

の文体が合わない。かなり強い動機づけがなければ,「X ガ私ニヨッテ V ラレル」とい う受動文が使えない。

『枕草子』の有名な例で,「着物の裾などが御簾の外に押し出されている」という表 現がある。「私ニヨッテ」の部分こそ直接出ていないが,貴重なヒントが中に含まれて いる。以下の原文と現代語訳を見られたい。

(5) 原文:

衣の裾,裳などは,御簾の外にみなおし出だされたれば,殿,端のかたより御 覧じ出だして,「あれは誰そや。彼の御簾の間より見ゆるは」ととがめさせ給(ふ) に,「少納言が,物ゆかしがりて侍(る)ならん」と申させ給へば,「あな恥づか し。彼は故き得意を。いとにくさげなる女ども持たりともこそ見侍れ」などの たま(ふ)御けしき,いとしたり顔なり。

上坂信男・神作光一ほか(2001:38)『枕草子 中巻 全訳注』

現代語訳:

私の着衣の裾や裳などは御簾の外に押し出されているので,殿が端の方からお 気づきになって,(道)「あれは誰だ。あそこの御簾の間から見えるのは」と,

お気にかけられるので,中宮様が(宮)「少納言が何かと見たがっておりますの でしょう」と(関白殿に)おっしゃいますと,殿は(道)「ああ恥ずかしい。少納 言は昔馴染みだよ。あの人に,大変可愛げのない娘たちを持ったものだと思わ れるといけない」などとおっしゃる御様子は,いかにも得意満面である。

上坂信男・神作光一ほか(2001:40)『枕草子 中巻 全訳注』

現代語訳には「私の着衣の裾や裳などは御簾の外に押し出されている」というふうに

「私の」が付け加えられている。しかし,押し出したのは誰かというと,話者自身(こ こでは作者自身)の清少納言である。自分で自分の着衣の裾や裳を外に押し出している にもかかわらず,受動文が使われている。それはなぜかというと,あの時に,屋敷をた ずねてきた人の視点で書いているからである。「私」が御簾の中にいて,着物の裾が御 簾の外に押し出している,その時にたずねてきたあの人から見ると,「着物の裾が御簾 の外に押し出されている」になるので,中にいるのは「私」だということは彼から見え ない。昔の貴族たちは,御簾の中にいて顔を見せないが,誰がいるかというのを示すた めに着物の裾をわざわざ御簾の外に出しているわけである。それで着物の裾であそこに 誰がいるのかをアピールできた。話者自身が,訪ねてきた人が分かるように着物の裾な どを御簾の外に出している。押し出したのは話者自身であり,これ以上共感を寄せられ る人はいないが,その時来た人からは見れば中にいる人が誰か分からない。向こうから 見れば着物の裾だけが御簾の外に押し出されているので,中にいるのは誰なのかという のを彼は思うはずである。彼から見ると,着物の裾が押し出されているが,誰なのかは 見えない,不明な人である。結果として,行為者を補えば,「私の着衣の裾や裳などは 私によって御簾の外に押し出されている」ということになる。

例(4)(5)はいずれも話者自身の視点を離れて,傍観者の立場で何かを描いている。こ れはまさに池上嘉彦(2011:52)のいわゆる客観的把握45にあたる。話者が事態の中に身 を置いても,どうしても自分自身の視点から離れて,他者の目に事態がどういうふうに 映ったかを述べる必要がある場合は,「Xガ(私ニヨッテ)Vラレル」という受動文が成り 立つ。

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.ニヨッテの諸用法と焦点

第2節で述べたように,行為者ニヨッテ標示の受動文は,視点表現ではない。本節は 能動文にも用いられるニヨッテの諸用法を回顧したうえで,ニヨッテは焦点をマークす る表現と考える。「視点」というのは「事の描き方」の問題であり,「焦点」というのは 情報のやり取り,どこを知りたいかの問題である。

ニヨッテそのものが受動文の行為者を標示できるようになったのは 19世紀のオラン ダ語直訳書であった(金水敏 1991,1992a)。そのため,行為者ニヨッテ標示の受動文は 非固有の受動文とも呼ばれている。ニヨッテはもともと格助詞「ニ」と動詞「ヨル」が 複合して作り出された複合格助詞であり,行為者以外に原因(例6),手段(例7),よりど

ころ(例8),または場合をあらわす(例9)機能がある(日本語文型辞典:456)。下記の例は

各用法の具体例である。なお,原因(例 6),手段(例 7),よりどころ(例 8)の用法はニュ

45 客観的把握:話者は問題の事態の外にあって,傍観者ないし観察者として客観的に事態把握をする―実 際には問題の事態の中に身を置いている場合であっても,話者は(自分の分身をその事態の中に残したまま) 自らはその事態から抜け出し,事態の外から,傍観者ないし観察者として客観的に(自分の分身を含む)事態 を把握する。(池上嘉彦2011:52)