いる。済州も昔と違ってずいぶん物騒になったと 口々に言いながら、いまだにそうなのである。こ ういう体験や見聞によって、筆者などは「それと 知らないままに、日本の大阪で済州の伝統に則っ て暮らしていたのだなあ!」などと文化的連続性 の感慨にふけり、そのあげくには、済州の村落の 共同体的牧歌性の言挙げに同調したりすることに なる。
しかし、その済州の門がない、泥棒がいないを 含めた「三無」の実態は本当のところ、どうだっ たのだろうか。
2 − 2 乞食がいない?
まずは「乞食がいない」という話から入ろう。
必ずしもその「乞食」とは重ならないのだが、現 在のソウルなどではホームレスの人たちが大量に 見受けられるのに、済州では目にすることがない。
そんな印象を済州の人に話すと、昔は今以上に、
「乞食」がいなかった、という返事が戻ってくる。
ただし、その昔とは、実は解放つまり 1945 年くらいまでのことらしく、それ以後は次のよう な事情で「乞食」があふれることになったという。
まずは①外地(島外)からの帰還者の波(人口の 3 割にあたる人々が一挙に日本その他の外地から 帰還した)、次いで②解放直後の凶年やコレラ騒 動、しかも③「陸地」と済州との間の往来は厳し く制限がなされていたから、食糧事情はどんどん 深刻さを増したうえに、4・3 事件の勃発である。
④政府は「北半部からの難民」青年組織である「西 北青年団」という右翼の「ごろつき集団」を大量 に導入し、政治的に投入・利用した。さらには⑤ 朝鮮戦争の際に、陸地から大量の避難民が済州に 押し寄せた。こうして済州は済州人だけのもので はなくなり、乞食も泥棒も一挙に増えた。以上が 済州の人々の体験談だし、学問的にもそれにお墨 付きが付いている模様である。
しかし、甚だ杓子定規な言い方になるが、「増 えた」というのは、それ以前にもいなかったわけ ではないということなのだろうし、しかも、「韓
もある。したがって、三無の一つとしての「乞食 がいない」というのは、あくまで、事態を単純化 したキャッチコピーのようなものではと想像する に至るのだが、その種の統計資料がありそうにも なく、即断するわけにはいかない。
2 − 3 泥棒がいない?
しかし、その一方で、「乞食がいない」とセッ トになっている「泥棒がいない」については、少 なくとも解放後に関しては、明確な反証材料を見 つけた。済州にも泥棒がいたというのである。
済州の代表的な民俗学者・神話学者である玄
ヒョン
容
ヨ ン
駿
ヂュン
さんは済州の民俗、特に巫俗に焦点をあてた フィールドワークの際に自ら数多くの写真を撮っ ており、それに短文を添えて、『靈』という写真 集を刊行されている。(注 2)
それを読んでいると、「순ス ン막マ ク(巡幕)」なるもの の写真数点に遭遇した。それは村の夜回り詰め所 のことである。玄容駿さんは、その写真に関して いかにも民俗学者的「常識」の知恵を発揮して、
次のように記しておられる。
「三無のひとつとしての泥棒がないという済州 にも泥棒がいる。その泥棒はもちろん、その村の 人ではない。冬が深まり、食料がなくなると、食 料がなくなったほかの村の人が夜にこっそりと麦 や粟をくすねていくということがなかったわけで はない。そうした泥棒が隣村で起こると、その噂 が周辺の村に伝わる。そんな噂を聞くと、村では 会議を開き、防犯活動を始めることを決議し、村 の最長老である郷長の指示に従って、「순ス ン돌ト ル기ギ(夜 回り)」をするようになる。
先ずは、各家から木と綱を出し合って、村の入 り口の道路わきに、共同作業で穴倉をつくる。こ の穴倉を「순ス ン막マ ク(巡幕)」と呼んだ。そして村の 青壮年 3、4 名で組をつくり、順番を決める。そ の順番にあたった「순ス ン꾼ク ン(当番)」たちは、夜に なると、「巡
ス ン マ ク
幕」に集まり、火をおこし、寒さを 堪えながら、夜も深まると、各家を巡回する。各 家に行くたびに、「お休みなっていますか、巡回
在日一世女性の祈りの場所・ 龍王宮をめぐる歴史
で叫び、住民を起こし、警戒心を起こさせた。こ れを「夜
ス ン ト ル ギ
回り」という。この「夜
ス ン ト ル ギ
回り」を一晩に 3 回繰り返さなくてならない。済州の民家は門が ないので「当
ス ン ク ン
番」たちが自由に出入りできた。こ うした「夜
ス ン ト ル ギ
回り」は、麦が食べられるような生活 水準になると、終息した。」
この写真集に収められている写真は 1960 年代 末から 70 年代にかけてのもので、その「巡
ス ン マ ク
幕」
も既に不要になって壊れかけているものばかりで ある。だから、1960 年代後半にはその種の泥棒 はいなくなった、つまり深刻な飢餓は既に昔の話 になっていたということになりそうである。
要するに泥棒は特定の村の人々にとっての「外 部の者」であり、「村内」には泥棒はいなかった、
ということらしい。ただし、その直線上で、牧歌 的な済州の村落といったものを思い描くのは慎む べきであろう。自分の村の他人の家に盗みに入る ような者は、その村にはいられないし、その一族 郎党も、その共同体にはいられなくなるような厳 しい規制があったのではといった風に、想像力を 働かせてみる必要があるだろう。現に例えば、漁 村契の徹底した相互扶助を称賛する文章の中にさ え、相互扶助と裏表になった厳しい排除のシステ ムがあったことが窺われるのである。たとえば、
こういう記述である。組合員は海女証を発給され ると病院で無料治療も受けることができる。組合 を脱退したとたんに、海産物を一切取れなくなる。
(注 3)
2 − 4 「門がない」起源としての済州神話
では、「現に泥棒がいたのに何故に門がなかっ たのか」といったように三無の三番目にたどり着 くのだが、これについても玄容駿さんは、さすが に足で現場を歩く民俗・神話研究者らしく、生活 者の健全な常識と、神話学者としての本領を発揮 して、済州神話に起源を求めるという仮説をたて ておられる。
「済州島では道から家に入っていく路地を「얼オ ル 레レ」という。「オルレ」が長ければ金持ちになる、
という俗言も伝わる。この「オルレ」の入り口に
は両側に木や石でできた幅広の柱が立てられて いる。そこには丸い穴が二つ、三つ、さらには 4 つも開けてある。おそらく元は木で作られていた のだが、長期間もたないので、石で作られるよう になったようである。その穴が穿たれた柱を「チョン정 주
ヂ ュ
목
モ ク
(亭主木)」と言う。最近では木でできたも のと石でできたものを区分して、前者を「亭
チョンヂュ
主木
モ ク
」、
後者を「정チョン주ヂ ュ석ソ ク(亭主石)」と呼んで区分けして いる。
その「亭
チョンヂュ
主木
モ ク
」の穴には長い木がかけられてい る。それを「チョン정낭ナ ン(亭木、낭ナ ンは標準語나ナ무ムの済州 方言)」、或いは「チョン정살サ ル」(語源不明)という。そ の本来の目的は、放牧している牛馬がうろつきま わって家に入ってくるのを防ぐためだったことは 間違いない。それが門の代わりとされて、門がな いので、済州島の三無のひとつと見なすように なった。
ところで、「亭
チョン
木
ナ ン
」を数本横にわたしておけば、
牛馬の出入りを禁じるだけでなく、村の人は、主 人が家にいないことが分かるから訪ねてこず、盗 人も入ってこないという。だから美風良俗のひと つとして自慢するようになった。ところが考えて みれば、木が数本かけられているからといって 入ってこない善良な盗人などいるはずもなく、お かしな話である。そこで、「문ム ン전ヂョン(門前)본ポ ン풀プ이リ
(本解、つまり神話)」という巫俗神話を思い起こ す必要がある。その神話によれば、ある人物の後 妻は、先妻が生んだ 7 人兄弟を殺す計略が露見 すると、逃げようとしたが便所で死んで神にな り、父は面目がなく「オルレ」に飛び出そうとし て「亭
チョンヂュ
主木
モ ク
」にぶつかって死んで「チョン정주ヂ ュ신シ ン(牧神)」
になり、先母は台所の「조チ ョ왕ワ ン신シ ン(竈王神)」になり、
息子達 6 人は後門神と五方土神になり、賢い末 息子は前門の「문ム ンヂョン전신シ ン(門前神)」になったとい う。その神話によれば、「亭
チョンヂュ
主木
モ ク
」は単純な実用 物ではなく神の存在の象徴である。だから、「亭
チョン
木
ナ ン
」がかけられていると、神が通行禁止を命じて いることになり、「亭
チョン
木
ナ ン
」が下りていると出入り が許可されていることになる。だから盗人もこの 神の懲罰を恐れて出入りしないと言うことではな いだろうか。