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然  る  が

ドキュメント内 『宗教研究』223号(48巻4輯) (ページ 44-47)

カントのに形而上学討議』 

のみによって代表せしめられている場合も見られ る ︵の・ お︐お ︶︒そこで要するに︑こうした思料 惟 や 意欲などの働きな 

いしその主体としての心霊︑すなむち自我が ︑こ こで内官の対象と見られているといえる︒だか ら ﹁思惟する主体 円 

﹁われわれの小手一皿﹂︵ め ・ お ︶︑﹁思惟する自我﹂ お ︶︑﹁思惟 し 意志する存在者﹂︵の ︐お ︶などと 呼 ばれるものは︑ こ 

  こでは﹁内官の対象しの別名にすぎないのである         ではかかる内官の対象としての自我は︑一体どの ようにして得られるのであろうか︒それについ て カントは︑さき 

    の ﹁予備的諸概念﹂においてこう言っている︒﹁ 根底に存して︑内官の意識を表わす基体の ヴの ︵Ⅱ 笘 口ヨ は 自我という 

おける 自 

ト ㏄ 9  づ㏄︶ ︐の ・ づの︑トト N, トめ ㏄Ⅱ・ 頭 年メ づ目 ︐ 億 けの 0. 炭斗 ポ づ ︵︵︵・のものの・㌍ 簗 u. の・ も し︒もっともこの思惟 と 意欲との外に﹁感情 

のの 田申王 ﹂あるいは﹁ 快 ・不快の能力﹂が挙げら れていることもあれば︵の・ ざ ・お七二 H. ㌍ 

芭︑そ 

れらが単に﹁思惟﹂ 

曲論 

学巾すせ の ごこ げ ﹂と呼ばれる︒ところがわれわ れには﹁二種の感官兵つまり﹁外官﹂と﹁内官 ﹂とが与えられてい 

る ︒それゆえ自然学は︑﹁外官の対象の自然学﹂ と﹁内官の対象のそれ﹂とに︑すなわち物理学 と 心理学とに区分さ 

れる︒だが︑これらの学は︑その認識の根拠の 点からそれぞれ経験的と合理的とに分けられる それで心理学は ︑ 

  ﹁経験的心理学﹂と﹁合理的心理学﹂という二つ 部門をもつことになる︑前者は﹁経験から 汲 み とられる限りでの ︵ ︶   内官の対象についての認識しであるに対して︑ 後 者は﹁純粋理性から得られる限りでの内官の対 象の認識﹂である︒ 

したがって合理的心理学は︑合理的物理学と同 様に︑その原理が純粋理性に求められる限り︑﹁ 形而上学に属するだ 

ろう﹂が︑経験的心理学は経験的物理学と同様︑ ﹁形而上学には属さない﹂と見なされる︒ 

さてこの論述によってみれば︑心理学とは︑ 要 するに﹁内官の対象の自然学しである︒ではその ﹁内官の対象﹂と 

は ︑どのようなものであろうか︒カントによれ ば ︑内官の対象の﹁働き 笛笘コ臼且俺 的の一般的 規 定 

﹂は︑外宮の 

対象のそれが﹁運動け臼き 

笘品 

﹂であるに対し て ﹁思惟しのロガの コ ﹂と﹁意欲圭三す コ ﹂と である︵の・ お ・ ト ㌶・ 

概念である︒これは単に経験的心理学の概念で あるにすぎない︒﹂︵ 9 ま ︶と︒ここで﹁根底に存 

  

たものは︑この前後の関連から見て ︑ 明らかに ﹁われわれのあらゆる経験の根底に存して⁝⁝﹂ という意味であると      思われる︒そうだとすれば︑自我という概念は ︑ もともとわれわれの経験を介して︑あるいは 経 験 において意識され ぴ 

るものとして︑一種の﹁経験概念﹂②・ P さ ︶ とい えるであろう︒ 

ところで﹁私は在る﹂という命題は ︑ デカルト によって﹁明証的である︑最初の経験命題﹂と 考 えられた︒しかし  カントによれば︑この場合の﹁私﹂は︑﹁人間と しての 私 ﹂と﹁叡知者 H 三回︶〜㏄ 省 いとしての 私 ﹂という﹁二重の意  味 ﹂に解され得る︒前者は﹁内官と外官との 対 象 ﹂であるに対して︑後者は﹁内官のみの対象﹂ である︒そしてこの  ような﹁叡知としての 私 ﹂が︑外官の対象とし ての身体と結びついて人間を形成する場合には︑ ﹁心霊﹂と呼ばれる 

︵の・ ま ︶︒だから﹁心霊としての 私 ﹂は﹁身体に よって決定され︑これと交互作用 no 目ヨ ero ぎ日 を行なっている︒﹂ 

︵の・ お ︶そこで心霊としての私は﹁世界における 私の場所 0 ユ ﹂を身体によって決定するが︑﹁ 身体の中での私の場  が ﹂を決定することはできない︒︵ 5 ︶そうでなけれ ば ︑﹁心霊としての 私 ﹂が︑﹁外的関係において﹂ 直観し得ることにな  ろ う からである︒たとえば︑身体を引裂かれた 人は︑自分の身体の内部を﹁見る﹂ことができる ︒しかしこのように  見られるものは︑あくまで身体的存在者であっ て ︑﹁思惟する存在者﹂とは区別され得る︒だか ら ︑たとえ四肢の大 

人間が﹁身体とは区別される心霊﹂をもって い  部分を失っても︑彼はなお一人の人間であり︑﹁ 

トは ︑こう言っている︒身体の状態の変化にも  によっても分かるのである︒﹂︵の・ づ 

ではかかる﹁心霊としての 私 ﹂︑自我は︑一休︑  ること︑﹁心霊としての 私 ﹂が存在することは︑﹁ 

かかわらず︑﹁変化しない私という単なる概念は  私はある﹂︑﹁これは私の脚である﹂と言い得る 

実体とはどのような関係を有するのだろうか︒  のである︒それゆえ 誰にも容易に︑常識 

他の多くの 概  これについて カン 

  

  

  

  

    ﹁その実存在が単に自存性の岸 汀円の ︵の コ いなるもの ﹂であるに対して︑偶有性とは﹁述語としての み︑あるいは事物の 

ント  の 珪 形而上学 

講講 

田における自由論  る  い  提  三  の  い  ま  し 

ドキュメント内 『宗教研究』223号(48巻4輯) (ページ 44-47)

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