﹁その実存在が単に自存性の岸 汀円の ︵の コ いなるもの ﹂であるに対して︑偶有性とは﹁述語としての み︑あるいは事物の
ント の 珪 形而上学
講講
田における自由論 る い 提 三 の い ま し限定としてのみ実存在するもの﹂︑﹁その実存在 が 内属であるもの﹂である︵の・ お ︶︒したがって 実体の本質は ︑デヵ ルトや ス ピ ノザが考えたように﹁独立体 ぎ宙 e Ⅰの
寺已
﹂にあるのではなくて︑﹁持続性いの 宙 pq ︵︶ ざ甘ガ 文ニ に 存する︒なぜなら︑あらゆる変化は ︑ ﹁そこから諸述語が 結果してくる主体﹂を︑すなわち﹁実体の持続 性 ﹂を前提するから である︵の ︑びか ︶︒遺稿においてもこう書かれてい る ︒﹁あらゆる茂在的なものは︑他のものの限定 としてのみ実存する か ︑あるいはまた︑単に主語としてのみ実存す るかである︒前者の実存在は内属であり︑ 後者は自存性であ る ︒﹂︵ パづ ︵ HH ㌫ コ 8 ﹁端的に⁝・・・主語であるもの ︑すなわち究極の主語 宙 ㏄の ‑ の ︵ ヰ のぎ庄の ガ * は 実体である︒﹂︵Ⅹ せ ︵Ⅰ︵
のおさ﹁実体が永続的七の日目の す 匹であることは 実体に属する︒実体が中絶すると想定するなら ぱ ︑この中絶はいか なる実体も存在しないことを証明する ピ ︵ パセ ︵ HH 総 りづ︶と︒このように見てくるならば︑さきの 第一の命題において︑
﹁実体とは内属するすべての偶有性の第一の主語 であるしといわれた意味は︑十分に了解され 得 るであろう︒第二の 命題においては︑自我こそは︑そのような第一 の 主語としての﹁絶対的主語﹂︑つまり究極の主 体であることが主張 されている︒それでこうした二つの命題を結び つけて︑第三命題では﹁自我は実体的なものを 表 わしている︒﹂と 結
諭 されているのである︒
こうした間接推理の形式をとって自我の実体性を 論証している箇所は ︑ 他にもある︒カントは﹁ 合理的心理学﹂に おいて︑心霊を﹁他の事物との比較において﹂︵ 第二章︶︑また﹁他の事物との結合に関して﹂︵ 第三章︶考察する 前 に ︑心霊を﹁絶対的に︑すなわち端的にそれ 自 休 において﹂考察しょうとする︒その際彼は ︑存 在 論の超越論的概念 を心霊に適用してこう言っている︒﹁山心霊は実 体である︒㈲心霊は単純である︒㈹心霊は個別 的 実体である︒㈲ 心
霊は無条件的に自発的に行為する存在者四ヨ づ
︶ ぃ の円 te ︵ので o 耳 P 口の a a ㏄の コ のである︒﹂ 公ツ トトの︶と︒ そしてこの第一の 命 頴は ついて︑こう説いている︒ 目 2u 自我とは 他の事物のいかなる述語にもならない限りでの 主 語を意味する︒ハー 口
(59*) 48
Hn ゴ ・・・⁝しといわれたものは︑自我以外のものは すべて述語によって考えられ得るが︑ただ自我 のみは述語を介さず 4
憶ァ
形 0% ト切ノj 土芋講義』におけ る 自由論
他の事物のいかなる述語にもならないものは 実 体である︒ハツ u 自我はあらゆる述語︑あらゆる 思惟︑あらゆる行為︑
および思惟する存在者としてのわれわれによって 下し得るあらゆる可能的判断の普遍的主語であ る ︒ ハアし 私は在る ︑
私は思惟する︑私は行為する︑とのみ私は言い 得る︒それゆえ︑自我が他の或るものの述語であ るなどとは全然言い
得ない︒⁝・・・ n3u したがって自我︑あるいは 自 我 によって表わされる心霊は実体である︒﹂︵の PP の ア ︶と︒ここで
は ︑ Tu の大前提よりも n2U の小前提がさ き に 置かれている︒けれども全体の趣旨は︑さき の 説明にあける ハ 3U
までの部分のそれと︑まったたく同様であると いえる︒ただここで注目されるのは︑ ハ 2 口の小 前提に当 6 部分が
億グしハグ U の補足丈によって︑一層詳細に ︑ま た 具体的に述べられていることである︒
ところが︑さきの説明文の ハ 4 口の部分では︑ ハ 3 口までの三段論法によって表わされた部分を 指して︑﹁これは︑
われわれが実体を直接に直観し得る唯一の場合 である︒⁝⁝私は私のうちに実体を直接に直観す る ︒﹂と述べられて
いる︒つまり ハ 3U までの部分において︑理性の 間接推理によって自我の実体性が論証されたか に見える︑その直後
において︑﹁これは︑⁝・・・実体を直接に直観し得 る 唯一の場合﹂だといわれているのである︒ こ れは矛盾に思われる
だろう︒ところがカントは﹁宇宙論﹂において も ︑こう言っている︒﹁内官の信頼性は確実であ る ︒私は存在し︑ こ
のことを私は感じ 宙ゴ ︵の コ ︑また私は私を直接 に 直観する︒﹂︵ s. お ︶と︒﹁合理的心理学﹂にお いて︑心霊と身体と
の 交互作用を論ずる場合にも︑﹁心霊は内官によ ってのみ自己を直観する︒だから或る場所にお い て自己を直観する
一 とはできないし︑また場所を意識することもで きない︒⁝⁝しかし私は内官によって私自身を 直観する︒﹁︵の・︶の か ︶
‑ 述べられている︒また遺稿においても︑﹁心性 知日まは実体を直観する︒﹂︵おせ HH ︵・の 遷 S ﹁ 自 我を例外として︑ 一
@ 述語によってのみ考えられ得る︒﹂︵おせⅠ︵︵・の 遷コと 述べられている︒ここに﹁自我を例外と して曲目の内の口 0 日ヨ ㊦ ヰ
(595)
とも︑内官によって直接に直観し得るというこ と 暗示している︒この﹁自我を例外として⁝⁝﹂ という語は ︑ 明らか
ほ さきの ハ 4 口の命題における︑﹁われわれが実体 を 直接に直観し得る唯一の場合﹂を指している と 思われる︒
しかしながら︑今の遺稿からも明らかなように︑ 自我以外の﹁一切は︑述語によってのみ考え ろ れ 得る︒﹂なぜな
︐ら︑ ﹁われわれはただ偶有性によって実体を知
も ︑このように﹁実体を直接に直観する﹂とい︐ るに 士ソぷヒ ない﹂︵の・ ひ ㏄しか 二レで 七のる︒そして﹁ ムり
っ 表現は︑﹁批判﹂の立場からいえば︑もとより れわれは事物をただ 述
不当であり︑独断論 語 によってのみ知るのであるから︑われわれはそ の 主語ハ基体口を︑ただそれだけでは知り得ない のである︒﹂︵ おゼ HMH.
鮒 のむ︶したがってただ自我のみを例外として︑ 実 体 的なものは︑﹁われわれはには不可知 けコヴ の ガ がココ日 ﹂ ハの ・の㏄︶ ねめ である︒このことを遺稿は︑﹁実体的なものは 物 自体であって︑不可知である︒﹂︵お七︵Ⅱ︵・の 燵じ と表わしている︒ だ からカントは︑さきの ハ 4U においても︑﹁われ われはいかなる事物に関しても︑その基体と第 一の主語とを直観し 得ない︒けれども私は ︑ 私のうちに実体を直接 に 直観する︒﹂と言ったのであろう︒彼は遺稿に おいてこうも言って いる︒﹁われわれはただ心霊に関してのみ実体の 概念をもつのであって︑われわれはそれに則っ て 身体の概念を形成 9 ヰ るので の キ る ︒﹂︵ ポせ HHH. いおか︶ L し ︒このよ 二ノに 見てくるなら ぱ︑ 彼がさきの ハ 5U において︑﹁ わ れわれが一般にあら ゆる実体に関してもっている概念を︑われわれ はこの自我から借りたのである︒この自我が実体 の 根源的概念であ る ︒﹂と述べた意味も︑十分了解され得るであろ スノ ︒ さて以上の考察によれば︑さきの二つの説明文 における Tu から n3U までの部分は︑いずれも 理性の間接推理の 形式をとっているにもかかわらず︑はじめの 謎 明文における ハ 4 口の命題には︑われわれが自我 において﹁実体を直 接 に直観する﹂ということに対する︑カントの 独特な強い主張が含蓄されているよ う に思われる ︒しかしそれにして
的 だという非難を免れ得ないであろう︒なぜな
︐ b
︑﹁批判﹂においては︑実体ないし実体性は ︑
﹁ 純粋悟性概念﹂とし
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カントの 戸 形而上学講義』 における 自 曲輪
私は他のものの認識を ︑ 後の場合には︑私は私 的 諸概念﹂においては︑こういわれている︒﹁私 な 意味における私について語っている︒われわ からである︒内官のこの対象︑この主体︑厳密な し ︑だからこそわれわれは︑﹁批判しには通用し てのみ得る︒というのは︑私は私のあらゆる思惟 て 内官の対象と見られている限り︑この直観が外 のうちに︑この﹁講義﹂の思想的特色を見出すの のであろうか︒その点に関連して︑﹁合理的心理 ことは︑今さらいうまでもないであろう︒ではこ ではその場合の﹁直観﹂とはどのようなものであ
れは心霊の概念を自我によってのみ︑それゆえ 内
の 主体を意識している︒⁝⁝客体的意識︑あるい 学 ﹂ではこういわれている︒﹁私が心霊について 得ないかかる表現︑すな ね ち︑﹁実体を直接に直
0 表象は対象か︑あるいは私自身に向けられて 意味における意識が心霊である︒﹂︵の・ PPo ︶と︒ 官 による外的直観ではなくて︑内官による内的
を 自らに意識し︑したがって私について内宮の である︒ の 内的直観は・主語ないし主体の意識とはどの ろ うか ︒すでに心霊︑すなわち自我が︑外宮の
いる︒前の場合には︑ 状態として語り得る
は 意識を伴 う 対象の 官の内的直観によっ 直観を意味している 観 する﹂という表現
語る場合には︑厳密 ような関係を有する
またさきの﹁予備 対象とは区別され
認識は︑あらゆる対象についての認識をもった めの必然的制約である︒しかし主体的意識は無理 な状態である︒それ
は 自己自身へと遣帰された観察であり︑比量的 色田の ガロ〜の守ではなくて直覚的山巨田︵〜 づ である︒ し ︵の・さか︶また遺稿 においては︑﹁︵内官︶意識とは自己自身を直観す ることである ピ ︵
ヨ
ミミ・の 0 お ︶とも述べられて いる︒このように 見 てくるならば︑心霊すなわち 自 よの概念が ︑内 官の内的直観によって得られる︑と見られている ことは明らるかであが ︑その内的直観と主体の意識︑あるいは自己 自身の直観︵直覚︶と自己自身の意識との区別が ︑きわめて不分明で
あると言い得る︒
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