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ドキュメント内 『宗教研究』223号(48巻4輯) (ページ 47-53)

  

  

    ﹁その実存在が単に自存性の岸 汀円の ︵の コ いなるもの ﹂であるに対して︑偶有性とは﹁述語としての み︑あるいは事物の 

ント  の 珪 形而上学 

講講 

田における自由論  る  い  提  三  の  い  ま  し 

限定としてのみ実存在するもの﹂︑﹁その実存在 が 内属であるもの﹂である︵の・ お ︶︒したがって 実体の本質は ︑デヵ  ルトや ス ピ ノザが考えたように﹁独立体 ぎ宙 e Ⅰの 

寺已 

﹂にあるのではなくて︑﹁持続性いの 宙 pq ︵︶ ざ甘ガ 文ニ に 存する︒ 

なぜなら︑あらゆる変化は ︑ ﹁そこから諸述語が 結果してくる主体﹂を︑すなわち﹁実体の持続 性 ﹂を前提するから  である︵の ︑びか ︶︒遺稿においてもこう書かれてい る ︒﹁あらゆる茂在的なものは︑他のものの限定 としてのみ実存する  か ︑あるいはまた︑単に主語としてのみ実存す るかである︒前者の実存在は内属であり︑ 後者は自存性であ  る ︒﹂︵ パづ ︵ HH ㌫ コ 8  ﹁端的に⁝・・・主語であるもの ︑すなわち究極の主語 宙 ㏄の ‑ の ︵ ヰ のぎ庄の ガ * は 実体である︒﹂︵Ⅹ せ ︵Ⅰ︵ 

のおさ﹁実体が永続的七の日目の す 匹であることは 実体に属する︒実体が中絶すると想定するなら ぱ ︑この中絶はいか  なる実体も存在しないことを証明する ピ ︵ パセ ︵ HH 総 りづ︶と︒このように見てくるならば︑さきの 第一の命題において︑ 

﹁実体とは内属するすべての偶有性の第一の主語 であるしといわれた意味は︑十分に了解され 得 るであろう︒第二の  命題においては︑自我こそは︑そのような第一 の 主語としての﹁絶対的主語﹂︑つまり究極の主 体であることが主張  されている︒それでこうした二つの命題を結び つけて︑第三命題では﹁自我は実体的なものを 表 わしている︒﹂と 結 

諭 されているのである︒ 

こうした間接推理の形式をとって自我の実体性を 論証している箇所は ︑ 他にもある︒カントは﹁ 合理的心理学﹂に  おいて︑心霊を﹁他の事物との比較において﹂︵ 第二章︶︑また﹁他の事物との結合に関して﹂︵ 第三章︶考察する 前  に ︑心霊を﹁絶対的に︑すなわち端的にそれ 自 休 において﹂考察しょうとする︒その際彼は ︑存 在 論の超越論的概念  を心霊に適用してこう言っている︒﹁山心霊は実 体である︒㈲心霊は単純である︒㈹心霊は個別 的 実体である︒㈲ 心 

霊は無条件的に自発的に行為する存在者四ヨ づ 

︶ ぃ  の円  te ︵ので o 耳 P 口の a a ㏄の コ のである︒﹂ 公ツ トトの︶と︒ そしてこの第一の 命  頴は ついて︑こう説いている︒ 目 2u 自我とは 他の事物のいかなる述語にもならない限りでの 主 語を意味する︒ハー 口 

(59*)  48 

  Hn ゴ ・・・⁝しといわれたものは︑自我以外のものは すべて述語によって考えられ得るが︑ただ自我 のみは述語を介さず 4 

憶ァ 

形   0% ト切ノ 

j 土芋講義』におけ   る  自由論 

他の事物のいかなる述語にもならないものは 実 体である︒ハツ 自我はあらゆる述語︑あらゆる 思惟︑あらゆる行為︑ 

および思惟する存在者としてのわれわれによって 下し得るあらゆる可能的判断の普遍的主語であ る ︒ ハアし 私は在る ︑ 

私は思惟する︑私は行為する︑とのみ私は言い 得る︒それゆえ︑自我が他の或るものの述語であ るなどとは全然言い 

得ない︒⁝・・・ n3u したがって自我︑あるいは 自 我 によって表わされる心霊は実体である︒﹂︵の PP の ア ︶と︒ここで 

は ︑ Tu の大前提よりも n2U の小前提がさ き に 置かれている︒けれども全体の趣旨は︑さき の 説明にあける ハ 3U 

までの部分のそれと︑まったたく同様であると いえる︒ただここで注目されるのは︑ ハ 口の小 前提に当 部分が 

億グしハグ の補足丈によって︑一層詳細に ︑ま た 具体的に述べられていることである︒ 

ところが︑さきの説明文の ハ 口の部分では︑ ハ 口までの三段論法によって表わされた部分を 指して︑﹁これは︑ 

われわれが実体を直接に直観し得る唯一の場合 である︒⁝⁝私は私のうちに実体を直接に直観す る ︒﹂と述べられて 

いる︒つまり ハ 3U までの部分において︑理性の 間接推理によって自我の実体性が論証されたか に見える︑その直後 

において︑﹁これは︑⁝・・・実体を直接に直観し得 る 唯一の場合﹂だといわれているのである︒ こ れは矛盾に思われる 

だろう︒ところがカントは﹁宇宙論﹂において も ︑こう言っている︒﹁内官の信頼性は確実であ る ︒私は存在し︑ こ 

  のことを私は感じ 宙ゴ ︵の コ ︑また私は私を直接 に 直観する︒﹂︵ s. お ︶と︒﹁合理的心理学﹂にお いて︑心霊と身体と 

の 交互作用を論ずる場合にも︑﹁心霊は内官によ ってのみ自己を直観する︒だから或る場所にお い て自己を直観する 

  一 とはできないし︑また場所を意識することもで きない︒⁝⁝しかし私は内官によって私自身を 直観する︒﹁︵の・︶の か ︶ 

    ‑ 述べられている︒また遺稿においても︑﹁心性 知日まは実体を直観する︒﹂︵おせ HH ︵・の 遷 ﹁ 自 我を例外として︑ 一 

述語によってのみ考えられ得る︒﹂︵おせⅠ︵︵・の 遷コと 述べられている︒ここに﹁自我を例外と して曲目の内の口 日ヨ ㊦ ヰ 

(595) 

とも︑内官によって直接に直観し得るというこ と 暗示している︒この﹁自我を例外として⁝⁝﹂ という語は ︑ 明らか 

  ほ さきの ハ 4 口の命題における︑﹁われわれが実体 を 直接に直観し得る唯一の場合﹂を指している と 思われる︒ 

しかしながら︑今の遺稿からも明らかなように︑ 自我以外の﹁一切は︑述語によってのみ考え ろ れ 得る︒﹂なぜな 

︐ら︑ ﹁われわれはただ偶有性によって実体を知 

も ︑このように﹁実体を直接に直観する﹂とい︐  るに 士ソぷヒ ない﹂︵の・ ひ ㏄しか 二レで 七のる︒そして﹁ ムり 

っ 表現は︑﹁批判﹂の立場からいえば︑もとより  れわれは事物をただ 述 

不当であり︑独断論  語 によってのみ知るのであるから︑われわれはそ の 主語ハ基体口を︑ただそれだけでは知り得ない のである︒﹂︵ おゼ HMH. 

鮒 のむ︶したがってただ自我のみを例外として︑ 実 体 的なものは︑﹁われわれはには不可知 けコヴ の ガ がココ日 ﹂ ハの ・の㏄︶ ねめ  である︒このことを遺稿は︑﹁実体的なものは 物 自体であって︑不可知である︒﹂︵お七︵Ⅱ︵・の 燵じ と表わしている︒ だ  からカントは︑さきの ハ 4U においても︑﹁われ われはいかなる事物に関しても︑その基体と第 一の主語とを直観し  得ない︒けれども私は ︑ 私のうちに実体を直接 に 直観する︒﹂と言ったのであろう︒彼は遺稿に おいてこうも言って  いる︒﹁われわれはただ心霊に関してのみ実体の 概念をもつのであって︑われわれはそれに則っ て 身体の概念を形成  ヰ るので の キ る ︒﹂︵ ポせ HHH. いおか︶ し ︒このよ 二ノに 見てくるなら ぱ︑ 彼がさきの ハ 5U において︑﹁ わ れわれが一般にあら  ゆる実体に関してもっている概念を︑われわれ はこの自我から借りたのである︒この自我が実体 の 根源的概念であ  る ︒﹂と述べた意味も︑十分了解され得るであろ スノ ︒  さて以上の考察によれば︑さきの二つの説明文 における Tu から n3U までの部分は︑いずれも 理性の間接推理の  形式をとっているにもかかわらず︑はじめの 謎 明文における ハ 4 口の命題には︑われわれが自我 において﹁実体を直  接 に直観する﹂ということに対する︑カントの 独特な強い主張が含蓄されているよ う に思われる ︒しかしそれにして 

的 だという非難を免れ得ないであろう︒なぜな 

︐  b 

︑﹁批判﹂においては︑実体ないし実体性は ︑ 

﹁  純粋悟性概念﹂とし 

Ⅰ 5961  50 

カントの 戸 形而上学講義』 における 自 曲輪 

私は他のものの認識を ︑ 後の場合には︑私は私  的 諸概念﹂においては︑こういわれている︒﹁私  な 意味における私について語っている︒われわ からである︒内官のこの対象︑この主体︑厳密な  し ︑だからこそわれわれは︑﹁批判しには通用し てのみ得る︒というのは︑私は私のあらゆる思惟  て 内官の対象と見られている限り︑この直観が外  のうちに︑この﹁講義﹂の思想的特色を見出すの のであろうか︒その点に関連して︑﹁合理的心理  ことは︑今さらいうまでもないであろう︒ではこ  ではその場合の﹁直観﹂とはどのようなものであ 

れは心霊の概念を自我によってのみ︑それゆえ 内 

の 主体を意識している︒⁝⁝客体的意識︑あるい  学 ﹂ではこういわれている︒﹁私が心霊について  得ないかかる表現︑すな ね ち︑﹁実体を直接に直 

表象は対象か︑あるいは私自身に向けられて  意味における意識が心霊である︒﹂︵の・ PPo ︶と︒  官 による外的直観ではなくて︑内官による内的 

を 自らに意識し︑したがって私について内宮の  である︒ の 内的直観は・主語ないし主体の意識とはどの  ろ うか ︒すでに心霊︑すなわち自我が︑外宮の 

いる︒前の場合には︑  状態として語り得る 

は 意識を伴 う 対象の  官の内的直観によっ  直観を意味している  観 する﹂という表現 

語る場合には︑厳密  ような関係を有する 

またさきの﹁予備  対象とは区別され 

  認識は︑あらゆる対象についての認識をもった めの必然的制約である︒しかし主体的意識は無理 な状態である︒それ 

    は 自己自身へと遣帰された観察であり︑比量的 色田の ガロ〜の守ではなくて直覚的山巨田︵〜 づ である︒ し ︵の・さか︶また遺稿      においては︑﹁︵内官︶意識とは自己自身を直観す ることである ピ ︵ 

ヨ 

ミミ・の お ︶とも述べられて いる︒このように 見  てくるならば︑心霊すなわち 自 よの概念が ︑内 官の内的直観によって得られる︑と見られている ことは明らるかであ 

  が ︑その内的直観と主体の意識︑あるいは自己 自身の直観︵直覚︶と自己自身の意識との区別が ︑きわめて不分明で 

あると言い得る︒ 

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ドキュメント内 『宗教研究』223号(48巻4輯) (ページ 47-53)

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