懸田 弘訓 KAKETA Hironori
て、4 か月後の 7 月初旬に役場が移転している二本松市にある県の施設で練習を始め、8 月 21 日にはいわ き市小名浜のアクアマリン ( 水族館 ) で披露した。その後は各地から招かれた。被災翌年の 2 月から祭日 に合わせて浪江町の住民が避難している仮設住宅を巡っているが、平成 26 年は舞庭に祭壇を設け、苕く さ の野 神社の神霊を招いてその前で、神楽とともに披露した。この田植踊は由来から苕野神社に奉納することを 主体としてきたことらか、末永く継続するためには単なる披露だけでなく、できるだけ本来の姿に近づけ ことが必要と考えたためである。
室原の神楽と田植踊の用具や衣装も汚染されたが、これらも文化庁と県の補助で整え、田植踊はすでに 再興して「ふるさとの祭り 2012」で披露した。
市街地の「本城の神楽」も放射能による汚染が心配されたが、これも衣装などを文化庁の補助で新調し、
平成 24 年 10 月に福島市で公開した(写真 3)。
津島の獅子舞の一同も全員避難しているが、平成 24 年 1 月に福島駅前での催しで演じ、同年 9 月には 福島市松川町の仮設住宅で披露した。平成 26 年にも公開を予定している。
これ以外の芸能につても保護団体では再興に向けて努力を重ねているが、なんとっても避難先では課題 も多く、一日も早く郷里に帰ることができるよう切望している。
1、葛尾村の無形民俗文化財
葛尾村には、東日本大震災以前は以下の民俗芸能が行われていた。
葛尾の三匹獅子舞 岩角の神楽 野行の宝財踊
2、被災状況
葛尾村は、内陸部にあるため津波の被害はない。かわらは破損したが、倒壊した家はない。民俗芸能の 継承に影響を与える被害は、原発事故の放射線の高さによるものである。
葛尾村は、現在、帰還困難・居住制限・避難指示解除準備の 3 区域に再編されている。したがって、ほ とんどの人が避難先に居住したままである。
頭と装束は、下葛尾の集会所の押入れの中の箱に保管してある。湿気が 多少心配ではある。平成 23 年 9 月に仮設住宅で舞った時は、計画的避難 区域(当時)の中にある集会所から頭と装束を一旦出して、子どもたちに 着けさせた。その後、仮設住宅の一室を借りて、そこに保管することにな った。
平成 24 年の夏か秋に上下の経験者に集まってもらう。獅子舞等のため の総会をひらき保存会を作る予定である。
以下の民俗芸能を調査した。
・葛尾の三匹獅子舞
・岩角の神楽
・野行宝財踊
写真 三春町の春祭りで演じる葛尾の三匹獅子
3、復興状況
平成 26 年 3 月現在、「神楽保存会」「三匹獅子祭り保存会」「野行宝財踊り保存会」の 3 つの保存会があ るが、実質活動していない。
震災後の復興状況は以下のとおりである。
平成 23 年 10 月 8 日 三匹獅子舞が上演された。於:過足応急仮設住宅広場
平成 24 年 5 月 5 日 「三春春祭り」の際に、三春町「長獅子競演」、富岡町「麓山神社御神楽舞」ととも に葛尾村「三匹獅子舞」が上演された。於:三春町大町四ツ角
「三春春祭り」のために 2 回集まって練習した。平成 24 年 10 月下旬に会津で行われる予定の民俗芸能 全国大会から依頼があったが、相談した結果、避難先が分散しているため、集まれないという理由から、
断念した。頭、装束の保管場所についても、それぞれの保存団体で対処方法が相違する。
1、被災状況
新地町は福島県でも浜通りの最北部に位置する町で、北は宮城県亘理郡山元町、南は相馬市に隣接して いる。東部は太平洋に面し、西部は阿武隈高地の鹿狼山や五社壇を境にして宮城県伊具郡丸森町と接する。
震度 6 強の地震が襲い、15 時 40 分頃東部沿岸部には、高さ 9 メートル前後の津波が押し寄せ、JR 常 磐線を越えて国道 6 号にまで至った。新地町企画振興課復興対策室 平成 23 年作成の「浸水区域図」(『第 一次新地町復興計画』所収)によれば、10 メートルの等高線と津波の浸水区域がほぼ重なり、今回の津波 は、場所によって国道を越えて山際まで海水が迫ったところもある。新地町では JR 常磐線が海側を通って おり、津波をまともに被った。たまたま新地駅に停車していた電車には多数の乗客が乗っていたが、JR 職 員と警察官の機転で新地町役場に誘導され難を逃れた。避難
したあと大津波が襲い駅舎と電車を飲み込んだ。駅舎は土台 と跨線橋だけが残り、停車中の電車は線路と一緒に飴のよう にねじ曲げられた。
2011 年 3 月の新地町の人口は 8387 人、2654 世帯であ った。大震災による人的被害は平成 26 年 3 月時点で死者 118 名にのぼり、なかでも新地町唯一の漁港を有する釣師地 区は 34 名、大戸浜地区は 30 名の犠牲者を出している。
家屋の被災は、全壊 476 世帯、大規模半壊 42、半壊 81 を数える。全壊した家屋のうち津波によるものは 468 で、
津波による被害がいかに大きいかが分かる。
津波被災者は保健センター、尚英中学校、新地小学校、福田小 学校、駒ヶ嶺公民館に設けた避難所に避難している。その後の東 京電力福島第一原子力発電所原子炉容器の水素爆発事故によって 引き起こされた放射性物質の拡散は、原発から新地町も 60 キロ メートルちかく離れてはいても大きな被害を与えた。住民の避難 はなかったものの、漁業や農業に与えた風況被害は大きい。コウ ナゴ漁などがさかんであった新 地町の漁業もいまだ再開されて おらず、震災の痛みはいまだに癒されることはない。
図1 新地町の浸水区域図。赤い線は標高 10 メートル 『広報新地』
2011 年7月号
写真1 津波で流された JR 常磐線新地駅とくの字に曲がっ た電車 20110407
新地町ではいち早く応急仮設住宅の建設に取りかかり、2011 年 6 月には入居を始めており、集団移転な どの取り組みも進んでいる。
2、新地町の概要と、調査から見えてきたもの
新地町では平成 5 年に『新地町史 自然・民俗編』が刊行され、当町の無形民俗文化財の概要が分かる。『福 島県の祭り・行事』(福島県教育委員会 平成 17 年)によれば、新地町の祭り・行事は 8 か所の記載があるが、
このうち直接津波を被って流失してしまったものはない。
民俗芸能としては福田の十二神楽のほか、埒浜の神楽、今泉の神楽、高田の神楽、杉目の神楽、釣師の神楽、
駒ヶ嶺の十二神楽、木崎の神楽があるが、この多くが震災前に休止ないしは廃絶してしまい、活動してい る民俗芸能は、福島県指定の福田の十二神楽のほかに駒ヶ嶺高田集落の高田神楽くらいである。駒ヶ嶺の 十二神楽は秋葉神社で毎年行う「おさがり」の行列に従ってはいるものの演じてはいないという。福田の 十二神楽、高田神楽は震災の影響は直接受けてはいないが、津波の被害を受けた埒浜、木崎、今泉、釣師では、
すでに廃絶休止してはいたが、公会堂などで大切に道具類を保管していた。しかしそれらが建物と一緒に 流されて失われてしまったり、見つかっても傷んでいるという地区もある。
3、復興の状況
福田の十二神楽は、今回この事業のなかで古くなった衣装を新調することができた。釣師神楽は舞手が 高齢で限界だからというので、震災が起こる前年の暮に解散した。道具類は区長が保管を依頼されていた が津波でう失われている。ただ太鼓だけが見つかり、その発見に発奮し、流された神社が再建されること があれば、芸能を再興できないかと提案する人もいる。また今泉神楽も 20 年ほど前に解散したが、道具 類は地区の公会堂の押入れで大切に保管していた。舞うことができる人がいるうちにということで、再興 の話が持ち上がっていた矢先に大震災に遭遇した。津波で公会堂が破壊された。幸い道具類は泥をかぶっ たが流されないですんだ。区長は、一段落すればもう一度再興の話を持ちかけてみたいという。
震災を機に地域の活力を取り戻すために民俗芸能を再興させる話が持ち上がる例がある。休止し、休眠 している民俗文化財に着目して、地域の再建の援けにしようとするものである。時間の経過とともに日常 生活を送るためのインフラが整備されつつある中で、精神的なインフラの復旧が必要とされる時期が必ず やってくる。村落を活性化させ、持続させる原動力として無形
民俗文化財に注目する動きが出てくることは間違いない。新た な拠り所を設けるよりも、既存の文化に着目するのが自然だか らである。
現行の無形民俗文化財の保護や維持のために手を差し伸べるだ けではなく、こうした動きを後押しするような発想も準備して おく必要があろう。無形民俗文化財の保護という観点を堅持す るだけではなく、無形民俗文化財に新たな意味を付与する活動 も考えられてよい。
とくに民俗芸能では祭礼などで演じる機会もさることながら、
練習の場を持つことに意味がある。かつては、青年団や青年会 といった狭い幅の年齢層で構成される年齢集団の中で社会性を 身に着ける教育の場であるといわれてきたが、各世代が混在す る今日の団体では、経験者が技術を教育だけではなく、世代間 の交流を促し意思疎通をはかることによって、地域社会の紐帯 を強める働きをする。練習だけではなく、その後の懇親の時間
を楽しみにするという発言は、練習時間が宿泊の伴わない合宿 写真 3 毎月第 2 金曜日夜に集まって稽古する高田神楽 写真 2 福田十二神楽の状況調査 新地町役場 20130722