― ハルとナンクルミーのはざまを巡る旅 ―
伊藤 徹
<目次>
はじめに
1. 歴史を掘り起こす 2. 「人類史上最悪な誤り」
3. エコの深層 4. 15 年後の世界
5. アグロエコロジーとは?
6. 沖縄のアグロエコロジーに注目する理由 おわりに
はじめに
南国で、農と自然はどう折り合いをつけていくことがふさわしいのか?そして「ふさわしい 農」に対応した経済・社会・文化のあり方やライフ・スタイルとは?
沖縄の土や水、草木に触れながらそんなことを考えてみようと思い、2014 年の 2 月から約 3 カ月に一度の頻度で沖縄諸島を訪ねて、各地のハルサー(沖縄本島の言葉で「農家の人」や
「畑で働く人」を意味する)から色々な話を聞かせて頂いている。見てまわっているのは、野 菜、穀菽、果物、砂糖キビ、茶、コーヒー、カカオ、豚、牛、蜜蜂(と蜜源植物)といった食 材から、糸芭蕉や苧麻、藍、蚕(と餌の桑)のような衣類の素材まで、様々な生物が育ってい く様子である。旅の経験は見聞きにとどまらない。今帰仁村の『むい自然農園』では、折々、
えんのう(援/縁農)と称して畑仕事を、そして西表の祖納・干立という二つの古い集落では、
伝統的な稲作行事や猪猟を体験させて頂いた。人づてに聞いた話を頼りに次の行き先を定めて、
歩きながら考える。気になる場所には何度も足を運んで人々の暮らしや風土についての理解を 深めていく。そういう旅をこれからもしばらく続けていきたい。
道中に学んだことや気が付いたことなどを雑記した手帳を読み返しながら、旅の行く先が
「ハル(農)」と「ナンクルミー(野生)」の間の領域に向かっている様な気がして本稿の副 題にそう記した。農と野生を切り離して考える立場や、野生との共存を「後進性」と捉えるよ うな農業観からすれば、それはとるに足りない領域かもしれない。しかし近年、その認識は変 わりつつあり、またアグロエコロジーに対する関心の高まりが世界的な傾向であることを計量 書誌学的な分析(Wezel and Soldat 2009)や文献レヴュー(Wezel
et al
. 2009)が示している。アグロエコロジーのレンズを通して見る「はざまの世界」はきっと色々なことを教えてく れるだろう。日々その世界と向き合うハルサーたちとの交流を通じてそう直観し、またその世 界を描いてみたいと思った。
そういった試みの前段として、まずアグロエコロジーの概念を、次に沖縄のアグロエコロジ ーに注目する理由を示すことが本稿の主眼である。なお、アグロエコロジーは「農業生態学」
や「農業生態系」などと訳されることもあるが、後述のように、アグロエコロジーを「学」や
「系(システム)」にとどまらないより広い概念としてとらえる近年の議論をふまえ、本稿で はあえてアグロエコロジーという英語の片仮名表記を使用することとした。
本稿に度々登場するのが木の話。「木」は、大地に根を張り、天に向かって枝を伸ばす木の 形を写した象形文字である。木ほど大きく、そして長寿な生物が他にあるだろうか。樹齢千年 はざら、屋久島の縄文杉など樹齢四千年ともいわれている。アグロエコロジーについての論考 を、その木の話から始める。まずはルーツ(歴史)から、そして少しずつ枝葉の伸びていく先
(未来)へと焦点を移していきたい。
1.歴史を掘り起こす
人々が、木をおそれ、うやまう、という話を世界中のいたるところで耳にする。
例えば、私が住むフィリピンの人々は、森や林に立ち入ったり樹木の脇を通る際に木の精霊 への挨拶を欠かさない。口に出して、或いは胸の内で、「タビタビポ(=申し訳ありませんが、
少し脇に寄っていてください)」と。精霊は変幻自在であちこちに現れ、時にひょんなことか ら人を呪ったりもするのでぞんざいに扱えないし、うかつに庭先の木も切れないのだという。
少し前かがみになって両手の平を合わせて(指先を正面に向けて、つきだすようにしながら)
遠慮気味にすすっと通り抜ける。それが「タビタビポ」の作法である。
フィリピンで感じよく振舞おうと思うなら、覚えておくといいタガログ語をもう一つ。「ク マインカナ?(=ごはん食べた?)」フィリピン人の会話は、たいてい挨拶代わりのこの一言 から始まる。人間、何はともあれ食べることから。食べ物は人々が分かち合うべき大切な自然 の恵み、そして「みんなで楽しく食事」こそ幸せの証。この言葉からは、フィリピン人のそん な心持ちがうかがえる。
金や香料を求めポルトガル人船長に率いられて遠くスペインからやってきた遠征隊には、き っと「タビタビポ」や「クマインカナ」の精神が欠けていたのだろう。マクタン島の首長ラプ ラプの軍勢が、ずかずかと乗り込んできたマゼラン一行を返り討ちにしたのが 1521 年 4 月。そ の 4 か月後、アメリカ大陸では、スペイン人コルテスによってアステカ王国が滅ぼされる。ど ちらも「大航海時代」を象徴する事件として世界史年表に登場する。鉄砲を積んだポルトガル 船が種子島に漂流したのがその 22 年後、そしてバスク人宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩 半島に上陸したのがさらにその 6 年後の 1549 年と、日本史年表の方には記されている。
マゼランがフィリピンにたどり着くよりもかなり以前、おそらくは 14 世紀後半頃から、琉球 人が東南アジア各地から中東まで足を伸ばして活発に交易をおこなっていたこと、そしてその 交易において、どうやらフィリピンで産出される金と西表の木が重要な役割を担っていたらし いという、一般の歴史年表であまりみかけない様な、興味深い史実や学説について、詳しく教
えてくださったのは、西表の祖納で長年に亘って農薬や肥料を使わない稲作に取り組んでこら れた那良伊孫一さんだった。
後日、図書館で、孫一さんが手にしていたいくつかの文献をあたってみて、確かに、マゼラ ン遠征隊の記録に「北緯十度付近、ディナガット島とミンダナオ島の間のスリガオ辺りで、ス ペイン人に食料を提供した現地人が、付近で金がとれ、そしてスペイン人同様に色白の人間を 目撃したという。ヨーロッパ人の判断では、琉球人、ゴール人、中国人のことであろうと思わ れる」、「年間 6 隻か 8 隻の琉球船がルソン島を訪れる」(的場 2007:p.82、p.92)といった 記述があることが分かった。また、1545 年にスペイン人のアロンソ・デ・サンタ・クルスによ って作成された『世界諸島誌』の掲載図では「パラワン島西方の西沙・中沙・南沙の群島らし き島嶼群の脇に、バーレーン方面へ行く琉球人が通過する水路がこの浅瀬にある」(的場 2007:p.92)と記されていることも確認できた。
さらに歴史をさかのぼるには中国の史書が拠り所となる。『明実録』によると、明の冊封体 制の中に琉球が「国家」として包摂されたのは 1372 年以降のこと。そして 1385 年以降、明は 朝貢国琉球の中山王や山南王に対して、数度にわたって交易用の船を賜与している。その船が、
琉球の南海進出を後押ししたに違いない。1390 年以降、琉球から明に進貢される主要な品とし て東南アジア産の胡椒や蘇木が登場することから、その様相をうかがい知ることができる。ま た、『高麗史』によれば、琉球と高麗の通交はその前年から始まり、中山王の察度は高麗王に 対して蘇木や胡椒を奉じている。そういった史実から、内田(2009)は、琉球船が東南アジア に向かい始めた時期を「おそらく 1380 年代の終りごろ」(p.43)と、推察している。
1394 年に明は、海外から輸入される香料その他の物資を、民間の者が自由に用いること及び 販売することを禁止した。沿岸部における密貿易の利を根本から断つことがその目的であった らしい。この時から、東南アジアの香辛料や蘇木を明へ運ぶ正式なルートを琉球船が引き受け ることとなる。16 世紀に香辛料の輸入事業がヨーロッパの小国ポルトガルを世界の海洋帝国と よばれる繁栄に導いたように、それをきっかけとして東アジア世界においては、東南アジア産 の胡椒や蘇木、金と日本製の鉄・剣刀などを交換するという中継貿易によって、琉球王国が繁 栄の礎を築いたのだという。
孫一さんの話は、琉球王国の繁栄云々よりも、先島諸島の人々が東南アジアとの交易に深く かかわっていたのではないかという仮説が語られる辺りから、ますます熱を帯びてきた。仮説 の根拠として孫一さんの話に登場したのは、西表の祖納に残る鍛冶遺跡である。鍛冶と南洋交 易がどう関係したのか。孫一さんの少し早口の説明に、聞き手であるこちらの不勉強も手伝っ て、面談中に十分に理解しきれない点もあったので、その直後に復習をかねてインターネット の情報にあたってみたところ、「日本最南端の出版社『南山舎』」の「情報やいま 2002 年 3 月 号」1と、歴史学者・國文直一の西表訪問記「あこがれの巨島」(1989)(人類学者・安渓遊地 のブログ2に掲載)に関連情報があり、それらを読んでみて合点がいった。復習だけでなくその 後の面談に向けてのよい予習にもなった。
まず「情報やいま」には、次の通り記されていた。
1 http://jaima.net/modules/readings/index.php?content_id=85 (2015 年 12 月 20 日に閲覧)
2 http://ankei.jp/yuji/?n=1047 (2015 年 12 月 20 日に閲覧)「あこがれの巨島」(國分直一『地域と文化――
沖縄をみなおすために』53・54 合併号、ひるぎ社、那覇、1989 年)