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1. はじめに

新聞が「わかりやすさ」を追求して成功した最初の事例は、1874 年に創刊された『読 売新 聞』 であ ると 認識 され てい る。 この こと につ いて 、土 屋(2010)は 以下 のよ うに ま とめている1

この時期(新聞そのものが成立した時期─引用者注)に刊行された新聞は、一握りの 官吏や知識人を読者とする高級紙であった。これに対し、論説を紙面に掲げず、総ふ りがなを施した報道記事を主とした非知識人向けの新聞が、明治 7 年 11 月創刊の

『読売新聞』を最初として刊行されるようになった。知識人向けの大新聞(おおしん ぶん)に対して、小新聞(こしんぶん)と総称されたこれらの新聞は、大衆化の第一 段階であった。小新聞は万を超える読者をたちまち獲得し、部数を伸ばしていった。

「大新聞」には『東京日日新聞』『日新真事誌』『郵便報知新聞』などがあり、これら の 3紙はいずれも 1872年に創刊された。この時期は郵便制度が運用されはじめ、新聞が 全国規模で頒布される ようになった頃であり2、新聞の存在が全国的 に知られはじめた時 期でもあると考えられる。

その後、知識人以外の人々にも読める新聞として創刊されたのが 『読売新聞』であった。

すべての記事で総振りがなを採用し、布告をそのまま掲載した部分以外は、「でござりま す 」 と い っ た 会 話 体 を 徹 底 す る と い う 『 読 売 新 聞 』 の 姿 勢 は 、 先 に 引 用 し た 土 屋

(2010)で も述 べら れ てい るよ うに 多く の読 者を 獲得 し、 また 、大 新聞 の編 集方 針に も

影響を与えるほどであった。新聞の大衆化に成功した例としては、確かに『読売新聞』が 最初といってよいだろう。ただし、『読売新聞』以前にも、より多くの人が読めることを め ざ し た 新 聞 は 存 在 す る 。 そ の 代 表 的 な も の が 、 ひ ら が な の み で 書 か れ た 新 聞 で あ る。

『東京仮名書新聞』や『まいにち ひらがな しんぶんし』など、1873 年に相次いで創 刊された。しかしながら、ひらがなだけで書かれた新聞は読者を獲得することができずに

1 土屋、2010、35ページ。

2 山本、1959、42ページを参照。

75 間もなく廃刊となり、試みは失敗に終わっている3

こ こま での 流 れを ま とめ ると 、「 大 新聞 」 (主 に 1872 年 創 刊) 、「 ひら がな 新 聞」

(主に 1873 年創刊)、「小新聞」(『読売新聞』が 1874 年創刊)という、おもむきが まったく異なる新聞がわずか 3 年ほどの間に立て続けに創刊されたことがわかる。そし て、このように大新聞に対抗するものとしてひらがな新聞や小新聞が創刊された時期 が、

新聞 にお いて 「わ かり やす さ」 が重 視さ れた 嚆矢 であ り、 先に 引用 した 土屋 (2010)の ことばを借りれば「大衆化の第一段階」だったとされている。

では、これ以前の新聞においては「わかりやすさ」はまったく考慮されず、大衆化とい えるような現象はなかったのだろうか。これについて次の節で検証していくこととする。

2. 本章の背景と目的

2.1 新聞草創期の「わかりやすさ」に対する意識

まずは日本における新聞草創期に発行された新聞について述べておく。日本語で書かれ た 最 初 の 新 聞 は 、 オ ラ ン ダ 語 紙 Javasche Courant を 翻 訳 し た 『 官 板 バ タ ヒ ヤ 新 聞 』

(1862 年創刊)だとされている。このほかにも外国の新聞を翻訳したものが発行される が、これらは当時の幕府が諸外国との交渉のために情報を入手し、日本国内の諸藩にも伝 えることを目的とする ものであった4。なお、 『官板バタヒヤ新聞』 の「例言」には、以 下のような記述がある5

一 凡巻 中、地 名は 、英国 、官名 は、 ゼネ ラール 、人名 は、 ガリバルヂ 、物 名は、

メダイレ・等の如く、符号を左右に加ふ

このように、外国のことばをカタカナ等で表記したもの が何を表わすかについて、傍線 の区別によって示して いる6。これも一種の「 わかりやすさ」のため の工夫であるといえ る。

3 『まいに ちひらがな し んぶんし』お よび『読売 新聞』につい ては、次の 第 6 章で詳述す る。

4 岩田、2009、129-130ページを参照。

5 北根編(1986)所収の『官板バタヒヤ新聞 』第 1 号より引用。旧字は新字に改めた。以下、

すべての引用について同じ。

6 西 浦 (1971) は 、 こ の よ う な 傍 線 が 『 官 板 バ タ ヒ ヤ 新 聞 』 か ら 始 ま っ た と 述 べ て い る 。た だし、新聞として出版されたもの以外も含めれば、それより前の 1859 年に書かれた『英国 新聞紙ノ抜』ですでに使用され ている(北根編、1986、111-113ページにより確認)。

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その後、1865 年頃にジョセフ・ヒコが『海外新聞』を創刊し7、これが初めて民間で発 行された新聞となった。名前のとおり、日本に来航した外国船などから得た海外のニュー スを記したものである。『海外新聞』第 2 号の末尾に書かれた編集方針には、「童子の 輩 に も 読 な ん こ と を 欲 す 」 と い う 一 節 が あ り 、 こ こ に お い て 既 に 「 こ ど も で も 理 解 でき る」ことが意識されていることがわかる。なお、記事の文章はジョセフ・ヒコが口述し た ものを本間潜蔵らが「 やさしい日本文として 」書き記したものであ るといわれている8。 ただし、この新聞が実際に大衆に広まることはなかった。ジョセフ・ヒコは自伝において、

「日本の民衆は、その新聞を読みたがってはいるが、どうも当時の政府と法律のせいで、

予約購読したり買ったりするのを恐れていたらしい」と記し、定期的に購読していたのは 一人の武士と一人の役人のみであったと述べている9

2.2 本章の目的

『海外新聞』が創刊されてから数年後の 1868 年は、「第一期新聞隆盛時代ともいうべ き時期」が始まったとされている10。そのきっかけとなったのは、柳河春三が 1868 年に 創刊した『中外新聞』である。この新聞は「当時としては驚異的な売行き」を示したとい われている11。『中外新聞』第 9 号では「市中は更なり近国にも速に弘ひ ろまりて僅に一ケ月 の間既に購求する人千五百名に及べり」として、新聞の成功を自負する文を記している。

ただし、同じ年の 6 月、『江湖新聞』の筆禍が契機となって官許を得ていない新聞の発 行が禁止され、これが「江戸における日本人による新聞発行を事実上禁止する働きを持っ た」ため12、新聞の隆盛は数ヶ月で終了することとなる。

1868 年は明治時代が始まった年であり、まさに幕末をむかえ、新しい時代がおとずれ た 時 期 で あ っ た 。 こ の よ う に 世 の 中 の 出 来 事 に 注 目 が 集 ま り や す い 時 代 背 景 も 手 伝 い、

『中外新聞』が人気を博して以降、新聞の創刊が相次いだ。『海外新聞』が創刊されてか ら 1867 年までの間には、海外のニュースを翻訳した新聞が 5、6 紙発行された程度であ

7 『海外新聞』の創刊年については、1864年と 1865 年の 2 つの説がある。1864年説につい ては近盛(1972)、1865年説については小野(1971)を参照。

8 浜田、1964、65ページ、訳者による注釈。

9 浜田、1964、74ページ。

10 秋山、2002、144-145ページ。

11 秋山、2002、143ページ。

12 山口、1994、65-66ページ。

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ったが、1868年には各種の新聞を合わせて1年間で40紙を超える新聞が創刊された13。 本章では 1868 年に創刊された新聞に着目し、その編集方針や実際の記事文からこの頃 の新聞の特徴を調査することで、新聞の「わかりやすさに対する意識」と「大衆化」につ いて考察する。

3. 先行研究

1868 年 に 創 刊 さ れ た 個 々 の 新 聞 に つ い て は 、 土 屋 (2009) や 山 口 (2009) 、 瀧 川

(2012)が 創刊 者・ 編 集者 の人 物史 を中 心に 記し てい る。 また 、こ の時 期の 新聞 記事 の

文章 に関 して は、 岡本 (1983)が 各紙 にお け る表 記や 語彙 を調 査し 、新 聞ご との 文体 の 多様性を論じている。また、藤原(1970)や鈴木(1987)は、史実を丁寧におさえなが ら幕末・明治初期に発行された新聞の概要をまとめており、新聞発行の背景を理解するに は有用である。

上記のとおり、1868 年創刊の新聞を対象にした研究はさまざまな角度からなされてき た 。 ただ し 、 こ の 時期 の 新 聞の 位 置 づ け に関 し て は、 い ま だ 議 論の 余 地 があ る 。 本章 1 で記したように、「新聞の大衆化」は「小新聞」の登場を契機とする見方が一般的である。

そ し て 、 「 新 聞 の 大 衆 化 の 成 功 」 と い う 点 で は 、 こ の 見 方 が 適 切 で あ ろ う 。 た だ し 、 1868 年に創刊された新聞について、鈴木(1987)は『浮世風聞』を「記事平易、市井の 巷談を集めたもので、明治初期、政論的な大新聞の裏をかいて進出した所謂「小新聞」と 称せらるるものの先駆」14と評価しており、瀧川(2012)は『江湖新聞』を「大衆化を理 念とした新聞の先駆け的存在」15と述べている。これらの見解は 1 紙について個別的に述 べられたものであり、当時の新聞の全体的な傾向については言及されていない。しかし、

2 紙ともに同じ年に創刊されたことを考えると、この時期の新聞の大衆化について再考す る必要があるのではないだろうか。

4. 1868年創刊の新聞に関する調査・考察 4.1 序文にみる新聞の目的・方針

鈴木監修(2000)に掲載された年表によれば、1868 年に創刊された日本語新聞は 46

13 鈴木監修(2000)に掲載された年表をもとに数えた。

14 鈴木、1987、151ページ。

15 瀧川、2012、129ページ。