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江戸時代の思想―安藤昌益の武器全廃論と横井小楠の世界兄弟論―

ドキュメント内 国際平和と有徳 (ページ 45-50)

第二章  日本の伝統的な平和文化と有徳国家 第一節 稲盛和夫の近代以前の伝統的な平和文化論

第四節  江戸時代の思想―安藤昌益の武器全廃論と横井小楠の世界兄弟論―

(1)安藤昌益の平和論

 日本国憲法は、9条において、国権の発動たる戦争の放棄、戦力の不保持をうたっているが、武器の 全廃論はすでに300年前に、安藤昌益によって唱えられている。日本国憲法の戦力不保持からの平和思 想は、日本の伝統的な思想家からもみることができる。安藤昌益は、1703年に生まれ、15歳のとき曹洞 宗禅寺で正式の修行僧として入門している。各地の山門を訪れて、修行し、いろいろの師につかえてき た。10数年の修行によって、指導できる禅宗僧の資格を得るのである。

 安藤昌益は、若くして、一人前の禅宗の僧として世に出ることができるようになるのである。しかし、

青年僧安藤昌益は、仏門を捨てたのである。なぜか。それは、心の救済では人々を救うことはできない と悟ったからである。安藤昌益の思想を考えていくうえで、青年時代曹洞宗禅寺の修行のなかで形成さ れた仏教的な平和観と自然観は大切な見方である。

 安藤昌益は、病との闘いが必要ということで医師をめざす。そして、医学の修業を一〇年行う。医学 は、京都で学び、オランダ商館とも接触する。そして、10年後の一七四四年のとき、四二歳で東北の八 戸で医業をする。そこで、かれの独自の思想体系が生まれていく。医師としての診療と思想家としての 講演を八戸で行う。多くの者が教えを受けるためにかれのもとに集まり、各地にかれの弟子が生まれて いく。

 安藤昌益にとって、学問は、座っている姿に限定しなかった。学問は、日常生活における一切の状況 から考える。学問は、学問をする者の独占的なものではない。真実は、世俗的な生活の道から探求する という姿勢を貫いた。

 曹洞宗の開祖である道元の耕道という概念を世俗の生活のなかで発展させて、直耕という独創性的な 概念をつくりだした。それは、農民の労働こそ富をつくりだす根源であるという考えである。人間の富 を労働との関係で考え出したのである。

 道元の思想について、正法眼蔵では、耕道を行持(ぎょうじ)仏祖の大道との関係で次のように述べ ている。「仏祖の大道、かならず無上の行持あり。道環してほとけ断絶せず、発心修行、菩提涅槃、し ばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強為にあらず、他の強為にあらず、不曽 染汚の行持なり」。

「行持は縁起せざるがゆゑにと、功夫参学を審細にすべし。かの行持を見成する行持は、すなはちこれ われらがいまの行持なり」「一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。この行持に諸仏見成 せられ、行持せらるるを、行持せざるは、諸仏をいとひ、諸仏を供養せず、行持をいとひ、諸仏と同生 同死せず、同学同参せざるなり」「大善知識かならず人をしる徳あれども、耕道功夫のとき、あくまで 親近する良縁まれなるものなり。雪峰のむかし洞山にのぼれりけんにも、投子にのぼれりけんにも、さ だめてこの事煩をしのびけん。この行持の法操あはれむべし、参学せざらんはかなしむべし」。58

 在家に仏の道理を学ぶべきものとして、修証義が明治以降に道元の正法眼臓からの抜粋要約として、

まとめているが、そこでは行持報恩として、日々の平常心、日々の生命、我欲のためにひきずりまわさ れないようにすることの大切を次のように述べている。

「唯当に日日(にちにち)の行持(ぎょうじ)、其報謝(そのほうしゃ)の正道(しょうどう)なるべし、

謂ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私に費やさざらんと行持するなり」「此(この)

行持あらん身心自らも愛すべし、自らも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成(げんじょう)

し、諸仏の大道通達(つうだつ)するなり、然(しか)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子(しゅし)

なり、諸仏の行持なり」。59

 安藤昌益は、道元から学び、その思想を独自に農民の生活の関係で発展していくのである。安藤昌益 の思想を考えていくうえで、互いに相反する関係は、相互の依存関係をもっているということで、互生

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58 正法眼蔵第一六  行持 上、日本思想史体系道元上、岩波書店、165頁~190頁参照

59 佐藤俊明「修証義に学ぶ」社会思想社、23頁~24頁、267頁~278頁参照

という性質を重視するのである。そして、社会のあらゆる領域に存在する対立する二別的論理をえぐり だす。つまり、支配と被支配の関係である。かれは、身分制を鋭く批判する。

 そして、兵は国の争乱の道具であり、刀は天下を盗む器具であると考える。封建的な武士社会を根底 から批判するのであった。江戸の中期の時代からみれば極めてラデカルな見方であり、当時の社会では 受け入れがたい考えであった。彼自身も現実的に当時の世の中に支持されるとは思っていなかったので ある。従って、弟子たちに公に考えを普及することを進めなかったのである。

 安藤昌益は、とことんまで論じなければならないことは、この天地の間の人間の関係であると考える。

その中から人間は対等であり、同格であるという思想を確立する。からの平等思想の確立で大きな影響 を与えたのは、アイヌ社会との接触である。かれは、アイヌ社会を学び、その社会を積極的に評価する。

アイヌ社会は、その気だては素朴であり、金銀の通用がないと見たのである。だからアイヌ社会は、上 下の支配がないとしたのであり、互いに戦争して奪ったり、奪われたりする乱世もないとするのである。

 安藤昌益は、理想社会の自然活真の世の思想を生み出す。1758年に八戸を去り、秋田の大館に移る。

そこで、未来の理想社会をふるさとで深く探求する。そこで、自然真営道を1758年から1762年に執筆す るのである。

 かれの互生論は、秋田に移住して執筆する過程のなかで、発展する。人倫は人間関係にあり、男女の 関係に本質をみることができる。異質なものが対応しながらも、相手を自己の本性として、自己の存在 の本質的契機として、一体を双方が求めるということを重視したのである。この見方は、理想社会をつ くっていくうえでの根本的な原理とするのである。

 また、それは、相互依存の論理である。相互的関係のもとで相互自立の論理が導きだされる。他人と 同じでないからこそ、わたしが存在する。自己は世界の中心ではないという見方は極めて大切であると した。相互の平等は自然のなかにある。相互の人間関係の本質をみつめていくなかで平等という概念を 導きだしていくのである。

 それは、生存的な自己中心的な平等論でもない。自然の世としての相互の平等関係があり、異なる相 互の平等関係のなかに、相互の自立があるとしたのである。このように、安藤昌益は、現実の世を真っ 向から徹底的に批判し、理想社会を考えていく。互生論は、安藤昌益の理想社会の根柢になるのである。

 安藤昌益は、自然の世に逆らうということは、どういうことかと問う。万人の中の一人である王が勝 手に自分から王になること。直耕に逆らって、耕すことをしない。つまり、労働からの富を生むことを せずにいることが自然の世に逆らっていることである。自然の世は、二別の世界のないことである。人 道の道に逆らって獣になることは人の自然の世ではない。山中より金を掘り出して人々の欲望を助長さ せることも人の世ではない。

 以上のように、自然の世ではない、平等でない二別の世界のないことが根本的な天道に背く争乱の源 であるとする。安藤昌益の平等論を考えていくうえで、二別の相互依存の関係論は大切である。差別と 区別は異なり、区別ということでの相反する2つのものが互いに支え合って存在していることを力説し ているのである。

 王とは天道に背く争乱の源である。王は自然なる天地には存在しないものであり、人間の間にもとも と存在するものではない。国にとって、大事なことは軍備ではなく、直耕の天道である。

 安藤昌益は、文字よりもしゃべりことばを大切にしていく。叡智は、文字からの自立が大切である。

これまでの知の問題は大きい。今の知は、人間が生きていくもののためであるのか。人はじっくりと自 然の履歴を観察し、解読して、自然と対話し、自然の営みを理解していくものである。この見方で、安 藤昌益は、未来の自然の世を展望するのである。

 これが自然活真の世である。互生の論理の世として、異質であるが同格で平等な2つの項が対をなし ながら相互に自己のなかに自然活真の世が確立していく。互生は、相手のなかに入り込み、交渉しあう 関係である。

 自然活真とは自然そのものではなく、生命的運動である。自然を正しく認識し、自然的に実践する理 想な人間社会として、自然活真の世を描くのである。陰陽五行の木、火、土、金、水の五行のなかで、

土は別格である。土と四行が活真で合体していくとする。

ドキュメント内 国際平和と有徳 (ページ 45-50)