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戦前の近代化で日本はどうして戦争を行ったのか

ドキュメント内 国際平和と有徳 (ページ 53-66)

第三章  日本の近代化における戦争と平和

第二節  戦前の近代化で日本はどうして戦争を行ったのか

(1)日本近代化の二つの道

 軍事は、政治である。戦争は、相手を壊滅することが目的であり、軍事のみではとどまることがない。

戦争を起こすことも、戦争を終結するのも政治である。平和主義的な政治を行うことは、戦争と無縁な 国家体制をつくりだすことである。平和主義的な政治を行っていくことは、軍部を政治から距離を置か せることが必要である。国家意志決定に軍部が拘わることは、戦争への道の可能性を大きくしていく。

 平和主義的政治には、国民の主権の確立、自由と民主主義が不可欠になっていく。この意味で戦前日 本の国家のあり方が根本に問われるのである。戦前の中央集権的な官僚、軍事強化、密偵や特高警察が 幅をきかした国家体制はどのようにしてつくられたのであろうか。日本の近代化には、自由民権運動や 私擬憲法にみられるように、自由と民主主義を求める動きと絶対主義の中央集権による有司専制、軍事 強化の動きと二つの道があった。

 1870年代半ばから、藩閥政府に対して、憲法制定や議会開設を言論によって要求した自由民権運動が 始まる。民撰議院設立建白書の運動が起きる。鹿児島では明治8年2月に国会が国権の最高権限機関と 立憲主義による国の統治をせよという憲法草案が作られる。これは、東京の朝野新聞に発表される。明 治10年代前半に、私擬憲法の作成活動が活発化する。植木枝盛の憲法、五日市憲法などがつくられてい く。私擬憲法は、自由民権と結びついて全国的な運動になる。

 政府は、官僚を中心とした有司専制と軍事強化体制によって中央集権的絶対主義国家体制を構築して いくが、しかし、立憲政体の理念は取り入れざるを得なかった。漸次立憲政体に移行していくというこ とで、1881年、国会開設を公約する。政府の憲法内容は、プロシア型欽定憲法導入によっての国王大権 の立憲主義であった。

 プロイセン憲法は、君主主義原理のもとに国王大権のもとに議会をおくというものである。国王は世 襲で、不可侵性である。執行権は国王に帰属した。国王は、軍隊の最高指揮権者で、条約の締結の権限 をもっていたのである。

 このプロイセン憲法をモデルに、日本の戦前の大日本憲法が作られたのである。従って、ヨーロッパ 王制の絶対主義的な欽定憲法を日本に導入したのである。ここには、日本の伝統的な多様な価値を認め て、評定所の評議、合議輪番制、寄り合いの統治から近代的な立憲主義による民主主義的な統治をして いくという発想ではない。

 帝国憲法の内容は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」「天 皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」というプロイセン国王大権をモデ ルにしたものであった。帝国議会は、天皇立法権の協賛機関に位置づくものであった。

 この天皇の権限を利用しての有司専制と軍事強化がされ、近隣のアジア諸国との国際関係に対処して いくのである。日清戦争、日露戦争もこのよう国家体制の状況で行われたのである。そして、朝鮮半島 と台湾を植民地にしていくのである。

 国民の人権は人間が生まれながらに持つ、侵すことのできない永久の権利という発想ではなく、国民

は天皇の臣民であるということから、天皇が臣民に恩恵的に与えたものに過ぎない。したがって、臣民 に保障された人権は、かなり限定的であった。

 戦前の日本での戦争では、政治の主導というよりも軍部の位置が大きい。日本の軍隊は皇軍というこ とで天皇が統率するということで、実際は軍部の意向によって、軍事行動がなされたのである。

 とくに、昭和期に入り、天皇の持つ統帥権を利用して、議会や内閣を通さずに軍隊が行動することを したのである。満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと突き進んだのである。

(2)日清・日露戦争と国家神道による民族排外主義

 日本の近代化のなかで、日清戦争と日露戦争は列強諸国と並んで、アジアへの帝国主義的な支配を確 立していく時期である。幕末には列強諸国の軍事的な脅威から明治維新によって、自国の防衛のために 富国強兵をはかってきたが、朝鮮半島や台湾の圏域をめぐって植民地獲得にのりだしていくのである。

 朝鮮半島で1894年に東学党率いる農民反乱軍を独力で平定することができなかった朝鮮政府は、清に 出兵を要請してきた。日本と清国の軍隊派遣で農民反乱軍は平定されるが、朝鮮政府は、国内の改革を 自主的に行うため、両軍に撤兵要請した。

 しかし、両軍は受け入れることをせず対峙する。朝鮮半島をめぐる清国とは、大きな対立関係に発展 していく。清国が朝鮮を独立国とせず、属国化を強める施策になる。朝鮮半島は英国とロシアの列強諸 国と日本との緊張関係があった。日本は、列強諸国との牽制のなかで利益を得るということで、朝鮮の 独立を主張した。このことから清国との対立が先鋭化したのである。

 朝鮮政府内でクーデターが起きて、清国の軍隊の掃討を日本に要請してくる。ここに、日清戦争が勃 発する。さらに、東学党の農民反乱軍は、朝鮮新政府と日本軍を相手に反乱を起こすのである。日本軍 と朝鮮農民軍の戦いになるが、朝鮮農民軍は完全に鎮圧される。朝鮮半島の情勢は、国内での政府と農 民との対立による騒乱があったことを見逃してならない。

 そして、ロシアやイギリスの列強諸国の進出問題、清国との歴史的な冊封・朝貢の関係があった。ま た、日本の富国強兵化による対外強硬路線と植民地獲得の野心というなかでの日清戦争であったのであ る。このように様々な要素から日清戦争をみることが必要である。

 天皇の名による清国に対する宣戦布告と同時にだされた詔書では朝鮮の独立ということでの戦争であ ることを述べている。歴史学者の坂野潤治氏は、事実と正反対であったことを次のように指摘している。

 「朝鮮は帝国がその始に啓誘(教え導くこと)して列国の五伴(仲間)につかしめたる独立の一国たり」

と記されている。「独立の一国に、要請もなしに内乱鎮圧の兵をだしたり内政改革を強要したりできる ものかどうかは、考えてもみなかったのであろう。どの国も、戦争の目的のほうは、あまり気にならな い。しかし、明治時代の外交では「朝鮮の独立」ということばが、あまりにも事実と正反対の意味でつ かわれすぎていたことに、いまさらながら驚かされる」。78

 日清戦争の勝利によって、清国の宗主権が否定された。朝鮮を清国から切り離なすことに成功したの である。朝鮮を日本の影響下におくことができた。そして、台湾を1885年4月17日の日清講和条約で植 民地として獲得する。

 その6月に総督府が設置される前の6月に台湾民主国の宣言がされ、台湾住民の軍事的な抵抗が起き る。日清戦争では、1200名の戦死者であったが、台湾住民の軍事的な抵抗によって2000名の兵士が死亡 している。

 日清戦争は、日本が列強諸国からの防衛の富国強兵づくりから、帝国主義的な植民地獲得という大き な歴史的な転換点をなすものである。そして、近隣のアジア諸国との対立をつくりだしていく。ヨー ロッパの列強の一員になっていく精神構造に為政者が積極的に染まっていく。

 ロシアを中心とした三国干渉で日本が遼東半島を清国に返還することになる。このことが、朝鮮の政 府内部にロシアと結んで日本の勢力を排除しようとする親露派が形成された。その中心が王族の閔妃

(明成皇后)であった。1895年10月、井上馨の推薦で公使になった三浦梧楼は、軍人・公使館員等を王

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78 坂野潤治「近代日本の出発」体系日本の歴史13、小学館251頁~252頁

宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った。一国の公使が宮廷で王族を殺害するという出来事 であった。

 朝鮮王朝の26代の高宋は、王妃殺害で秘に王宮を抜けだし、ロシア公使館に保護を求めた。そして、

一年後に大韓帝国を成立させ、国葬として王妃の葬儀を盛大に行った。大韓帝国は、ロシアに接近し、

また、ロシアは、日清戦争に露呈した清国弱体のなかで、清国の東北部の主要都市に進出し、遼東半島 の旅順までの鉄道敷設権を獲得するということになった。

 当時日本では、朝鮮王朝王妃殺害事件は、内紛に三浦公使が巻き込まれたにすぎないという理解であ り、国益のためにとった措置であるとされ、日本国内から非難が起こることはなかった。

 この事件は、日本の植民地獲得利益のためには、手段を選ばないという卑劣なものであり、朝鮮民族 の誇りを傷つけ、怒りを一層にかっていくものであった。日本国内では、日本の国益を守るための英雄 的な行為であったとみなされた。ここには、日本の近代化のなかで、アジアの人々と共生していくとい うことではない。欧米の列強諸国の一員になる志向が強く、アジア蔑視による植民地獲得の国益エゴの 精神構造になりやすい側面をもつ。日本の近代化は、植民地獲得ということから、アジアとの共生と連 帯ということではなく、アジア蔑視ということで進んでいったのである。

 日清戦争後にロシアとの対立が鮮明になっていくのである。日本は、大韓帝国をロシアから切り離し ていく積極的な施策にでていくのである。清国では、義和団の乱として、列強諸国排外運動があった。

1900年に清王朝西太后がこの反乱を支持したため、清国は欧米列国に宣戦布告した。このため欧米・日 本と清国との戦争となる。宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京を制圧した。欧 米の連合国は、イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリ アの欧米列強と日本であり、最大71920名の兵力になった。

 日本軍は陸軍およそ8000名を派兵した。義和団の鎮圧後に各国は撤兵したが、ロシア軍は東北部に 残った。中国東北部を戦場に日露戦争が1904年に起きる。その中心は遼東半島の旅順要塞をめぐっての 戦いであった。

 日本軍25万とロシア軍32万が激突したが、ロシア軍は退却し、バルチック艦隊は壊滅し、日本軍の有 利な状況と第1次ロシア革命の影響もあり、アメリカによる戦争終結の仲裁が功をそうした。仲裁の決 着のポーツマス条約は、日本の韓国に対する保護権を認める。遼東半島南部の租借権と南満州鉄道と沿 線の利権、南樺太をロシアが日本に譲るという内容であった。

 1905年に、韓国の外交権を奪い保護国化にする第二次日韓協約締結を強制した。1907年、高宗は第二 次日韓協約の無効を訴えるため、ハーグで開かれていた第2回万国平和会議に使節を派遣した。日本も 参加する平和会議であった。

 このために日本は平和会議に工作して、韓国使節参加を認めないようにした。使節の一人が抗議の自 殺を遂げる事件になった。日本は事件を理由に、高宗を退位させた。そして、新たな日韓協約で内政も 監督下に置き、韓国軍を解散させた。

 そして、1910年に韓国を日本に併合するのである。朝鮮半島は日本の植民地化が完遂し、朝鮮総督府 の統治下におくのである。当初は、武断政治として憲兵制度の強化と言論統制を厳しく行った。1919年 に朝鮮人民の万歳を叫んで独立の気概をみせた3.1運動が起きたが、徹底して弾圧されたが、朝鮮の統 治の施策は大きく自由を認める方向となった。そして、開発と雇用促進の政策に変わった。

(3)世界を相手にした戦争と皇民化政策の徹底

 満州事変がおきると一層に皇民化政策が徹底され、日本本土と朝鮮半島の一体が強調されるようにな る。皇国臣民の誓詞が強制されるようになる。創氏改名、学校で朝鮮語を使用した生徒への罰則など朝 鮮人の日本人同化が推し進められていく。

 日本の植民地支配はヨーロッパの列強諸国からみると特殊な構造をもっていた。それは、植民地国の 民族の文化、人々の暮らしの文化を奪って、皇民化によって融合し、忠良なる帝国臣民とするためで あった。そして教育勅語によって植民地住民を教化し、支配するものであった。ここには、民族の文化 的な誇り、民族的なアイデンティティからの深い精神的な苦痛を伴っていたことを忘れてはならないの

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