―J.H.デイルズとの比較を通じて―
1. 序論
前章では、クネーゼの水質管理研究が持つ、工学‐経済学的側面と制度的側面によ って構成される二層構造という性質を、カップ、コースとの比較を通じて検討した。
本章では、水質管理研究によって示されたクネーゼの環境経済学研究の基盤を、前章 とは別の点に焦点を当てながら、デイルズとの比較検討を通じて示すことを目的とす る。
ここまで繰り返し述べてきたように、主流派の環境経済学は、環境問題を外部不経 済論として議論してきた。外部不経済論は、市場を介さず第三者に与える直接的な悪 影響であり社会的限界費用と私的限界費用を乖離させることによって経済学的非効率 性をもたらすもの、と環境問題を説明する。この非効率性に対する処方箋としてピグ ー的伝統によるピグー税および、コース的伝統によるコースの定理が示されてきた。
主流派環境経済学におけるこれら2つのアプローチは、環境問題によって生じた非効 率的な状態をいかに効率的な状態に修正するか、つまりいかに外部不経済を内部化す るかということを目的とする。その内部化の際に重要な点となるのは環境の金銭的価 値(=価格)である。
この環境の価格を測定する環境評価論、仮想評価法(CVM)やトラベルコスト法を はじめとする研究が特に90年代以降活発に行なわれ、主流派環境経済学における重要 なテーマのひとつとなってきた。支払意思額(WTP:willingness to pay)や受入補償 額(WTA:willingness to accept)によって環境汚染の被害額および環境改善の便益 を貨幣価値で表わそうとする研究である。その一方で、自然資源(natural
resources)の持つ素材的特性を重視し, 環境評価論に対する批判的な議論も少なから
ずなされている(Sen 1985; Vatn and Bromley 1994; 岡 2012; 山下 2012)。例え
(Paavola and Adger 2005)などを中心とする制度派環境経済学(Environmental Institutional Economics)の議論を深める作業の一助を、経済学説史的観点から行うとい うことである。『緑の水利権』(野田 2011)によれば、制度派環境経済学とは、法制度 に規定される権利の束・権利構造(rights structure)を主な分析対象とする新旧制度派経 済学と、環境経済学の総合を試みる発展途上の分野である。こうした制度派環境経済学の 議論にとって有用な議論をクネーゼが展開していたことは、本章を通じて明らかにされた であろう。制度派環境経済学から見たクネーゼの意義、学説史から見た制度派環境経済学 の評価は、筆者にとって今後の重要なテーマである。
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ば、「価格と謝罪を伴わない選択」(Vatn and Bromley 1994)では、自然資源を構成 するさまざまな属性が有する複雑な相互依存性に着目し、これらの属性に関する情報 が貨幣という単一の指標に圧縮される過程で多くの情報が捨象されることを根拠とし て、仮想評価法にもとづいた自然資源をめぐる集合的意思決定は深刻な問題を生み兼 ねない、と指摘している。また「経済学は環境をどう捉えてきたか」(岡 2012)は、
環境評価論の「根本的な問題は, 市場で価格の付いていない環境の質といった公共財 への人びとの支払意思額を知ろうという調査は結局のところ仮想的なものになり、そ うであれば、支払意思額なるものがそもそも存在するかどうかについて誰もはっきり したことは言えないということにある。これはいかに手法が発達しても解決しない問 題である」(岡 2012, pp184-185)と指摘し、環境評価論のあり方そのものに関わる根 本的な点から批判している。
では、仮にこれらの環境評価論批判を受け止め、環境評価の不可能性に基づいた環 境経済学を志向するならば、どのような議論があり得るか。本章では、このような問 題意識のもとで、前章とは異なる角度からクネーゼの水質管理研究を検討する。な お、上記の問題意識は、環境評価論を否定することを意味しない。あくまで環境評価 論のカウンターとなる議論を喚起し、環境経済学の多元性へ貢献することが意図され ている。
環境経済学の系譜を振り返ったとき、環境評価の不可能性に基づいた議論として真 っ先に挙げられるものは、「環境保全のための基準と価格の利用」(Baumol and Oates
1971)によって提唱されたボーモル=オーツ税である。ボーモル=オーツ税は、汚染
削減の限界便益・費用の正確な情報を必要とせず、自然科学的知見によって定められ た環境基準を最小費用で達成するという、ピグー税の実行不可能性を克服し得る議論 として注目を集めた。しかし、「環境基準を最小費用で達成する」というアイディア自 体は、ボーモルとオーツのオリジナルではない。そのアイディアを先駆的に議論して いた論者は、本研究で扱っているクネーゼであり、そしてクネーゼと同時代に、クネ ーゼとは異なる視点で水質管理に関する研究を行ったJ.H.デイルズである63。本章で は両者がそれぞれどのように議論を展開していたかを振り返ることによって、クネー
63 厳密に言えば、環境基準を経済的効率性の代替的な政策目標として、それを最小費用で 達成することに言及した最初の論者はカップである。カップは累積的因果関係論、実質的 合理性、最小許容限度の概念を用いて、外部不経済論批判である社会的費用論を展開した
(第3章、第5章)。しかし、費用最小化の議論は、主流派経済学外の概念による主流派 経済学批判である社会的費用論のあくまで一部に過ぎず、カップにとって中心的な論点で あったとは言い難い。一方で、クネーゼとデイルズは、主流派経済学における利潤(効 用)最大化という最適化アプローチの対となる、限界分析を用いた費用最小化アプローチ が中心的な論点の一つとなっている。
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ゼの水質管理研究の持つ、前章とは違う側面に焦点を当てたい。
以下では、まず2節でピグー税に替わる政策手段として注目されてきたボーモル=
オーツ税について、その意義と課題を整理する。次に3節、4節でクネーゼ、デイル ズのそれぞれの議論を振り返る。そして、5節で彼らの議論を今日改めて振り返る意 義を検討し、6節で結論を述べる。
2. ボーモル=オーツ税の意義と課題
ボーモル=オーツ税は前述の通り、「環境保全のための基準と価格の利用」(Baumol
and Oates 1971)によって提唱された、環境基準(汚染物質の総排出量でもよい)を
最小費用で実現するという議論である。
この議論の背景にあるのは、ピグー税の実行可能性に関する課題である。ピグー税 は私的限界費用と社会的限界費用の乖離を埋め、経済学的効率性を達成することを目 的とする。このピグー税が実行可能となる条件は、国家が汚染主体(例えば企業)の 汚染による限界便益・限界費用曲線に関する情報を把握していることである。しかし この条件は、これまで多くの文献で指摘されてきたとおり、非現実的である。したが って、経済学の政策目標である効率性のみでは政策に関する意思決定を行なうことが できず、代替的な政策目標が必要となる。「環境保全のための基準と価格の利用」
(Baumol and Oates 1971)では、代替的な政策目標として自然科学的知見によって求 められた最小安全基準に着目する。この基準は、集合的選択によって決定される。こ の自然科学的に望ましい(ある程度恣意的ではあるが)基準を達成するために、汚染 一単位に課税を行い、試行錯誤的過程(the iterative process)を経て、決定された環 境基準を実現できる税率を課す。ボーモルとオーツはこの手法を「価格付け・基準ア プローチ(the pricing and standards approach)」と呼んでいる。
このボーモル=オーツ税は、先行研究によって環境税の「適用可能性を格段に高 め」、「実現可能性を飛躍的に高めた」(諸富 2000)、また、「[排出削減費用の最小化 という意味での]効率性を、分権的に、つまり、政策当局が個々の排出者の排出削減 費用に関する知識をもつことを依存せずに実現するというところに、この制度の意義 がある」(岡 2002)と評価されてきた。
しかし、一方で、ピグー税の非現実的条件をクリアしたと評価されてきたボーモル
=オーツ税でさえ、実際に導入されている環境税とは異なっていることが指摘されて きた(岡 1997a; 1997b; 1997c; 2002; 2006; 諸富 1997; 2000)。「環境政策の経済理 論」(岡 1997a)、「ドイツ排水課徴金」(岡 1997b)、「環境政策において効率性はなぜ 重要ではないのか」(岡 1997c)、「外部負経済論」(岡 2002)、『環境経済学』(岡 2006)、「ドイツ排水課徴金」(諸富1997)、『環境税の理論と実際』(諸富 2000)は、
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ボーモル=オーツ税の機能を果たすことを明確な目的として導入された事例である、
ドイツ連邦政府による1976年に制定され1981年より実施された排水課徴金に着目し ている。これらの研究は、ボーモル=オーツ税と現実の環境税の乖離を以下の二点に 求めている。第一に、税率が低すぎる点である。そのため、課徴金のみでは政策目標 である水質基準を達成できず、直接規制や補助金が併用されていた。第二に、税率が 均一でなかった点である。廃水排出者は、課された規制値を満たした場合、満たさな かった場合の税率の50%を割り引かれる処置がとられていた。これは、基準を満たし ていない廃水排出者に対し基準を満たすインセンティヴを与えるが、ボーモル=オー ツ税の最も重要な機能である費用最小化を達成することはできなくなる。
上記の先行研究は、ボーモル=オーツ税と現実の環境税の乖離の主な原因を、分配 問題に求めている。ボーモル=オーツ税の場合、直接規制の場合と比べて、排出者へ の経済的負担が大きくなる。直接規制の場合に排出者が負担するのは課された基準ま で排出を削減する費用のみだが、ボーモル=オーツ税の場合の負担は、削減費用に加 えて、削減後に依然として排出する廃水量に対して課される課徴金も支払わなければ ならないからである。このような排出者への高負担が、理論と現実の乖離である税率 の低水準、不均等化を生じさせていた。
このようなボーモル=オーツ税と現実の環境税の乖離は、環境評価の不可能性に基 づく議論の代表的アプローチであるボーモル=オーツ税の有効性に否定的な印象を与 えているように見える。この理論と現実の乖離によって、環境評価論に依拠しない環 境経済学の可能性は閉ざされてしまうだろうか。そうではない。上述の通り、これま でボーモル=オーツ税は環境評価の不可能性を前提とする代表的な議論として位置づ けられてきた。しかし、環境基準を最小費用で達成するというアプローチは、確かに ボーモル=オーツ税によって代表されてはきたが、それは環境経済学の系譜において ボーモル=オーツ税のオリジナルではなかった。ボーモル=オーツ税の起源はクネー ゼの水質管理研究にある64。より正確に言えば、ボーモル=オーツ税はクネーゼの水 質管理研究の一部分に着目し、それを定式化したものに過ぎない。
このようなクネーゼの水質管理研究とボーモル=オーツ税の関係性は、ボーモル=
オーツ税によって環境経済学において重要な問題提起が行なわれた一方で、そこでは クネーゼの水質管理研究の大部分が捨象されていることを意味する。したがって、環 境評価論に依拠しない環境経済学の可能性の可否は、ボーモル=オーツ税ではなく、
まずクネーゼの水質管理研究に求められるべきである。他方で、環境評価論に依拠せ ず環境基準を最小費用で達成するというアプローチはクネーゼだけの特徴ではない。
64 この点は岡の『環境経済学』でも触れられている。