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段階が想定できる。第 1 段階は 3 世紀中ごろ以降で,

亡き首長がカミとなって共同体を守護しつづける場としての前方後円墳。第 2 段階は 5 世紀後半ご ろ以降で,亡き首長の霊魂が生きつづける横穴式石室とそれを覆う墳丘。ただ第 2 段階にいたって も,第 1 段階の他界観は一掃されたわけではなく,新しく定着してきた霊魂観と重層しながらつづ いていく。

第 1 段階から第 2 段階への他界観念の移行は,けっして劇的なものではなかった。伝統的な心性 に外来的なものが重層し,やがてはそれが新しい心性を形づくっていく。他界といいながらも第 1 ,

2 段階とも日常世界のなかの可視的な装置であって,けっして人びとの手の届かない彼岸的な存在

ではなかった。そうした経緯をたどりながら,前方後円墳をはじめとした古墳は, 7 世紀末もしく

は 8 世紀初頭ごろに終焉する。なお,律令国家の正統性を高らかに唱道した『記紀』では,律令国

家を統治した天皇はカミにつながる万世一系の系譜をひく。死してカミと化した古墳時代の首長層

かに,個々の多数の非日常世界があって,此界と他界は空間的につながっていた。それらの往来を 妨たげる要因はなにもなかった。ちなみに,死者の霊魂が「黄泉戸喫」した土器類は,基本的には 当時の集落で日常生活の飲食に使用されたものと,おなじ形式のものが墓室にもちこまれている

[小林 1949,土生田 1998,辰巳 2002 など]

。「黄泉戸喫」も所詮は日常の延長であったと観念されてい たようである。

日本列島における霊肉分離の観念は,自生したというよりは 5 世紀後半ごろに伝わってきた外来 思想で,百済や伽耶などの渡来人によってもちこまれた外在的なものであった。つまり,「好太王 碑文」で知られる 4 世紀末ごろからの朝鮮半島への武力支援などを契機にして,南部朝鮮との人的 交流が活発化しはじめたが,その一翼を担った伽耶や百済からの渡来人が霊肉分離の観念をもたら した,とみたほうが実情に即している。そうした霊肉二元論の観念にもとづく他界観の浸透が,伝 統的な前方後円墳祭祀を変貌させていく。

前期古墳を特徴づけていた中国鏡,碧玉製品,武器,農工具などの非属人的な品々,共同体再生 産のための道具類の副葬が,後期になると影を潜める。かわって,金冠・飾履・耳環,あるいは飾 り馬具や飾り太刀一式といったふうに,鍍金がほどこされ,カラフルになった個人的装い,属人的 で世俗的色彩の副葬品が,霊魂観と軌を一にして一気に増加する。

<共同性が属性であった前方後円墳に個人性が胚胎した>。それが霊肉分離の観念のもたらした 古墳変容の大きな契機であった。 3 世紀中ごろに成立し,変化しながらもつづいていた前方後円墳 祭祀は,カミとして再生させた亡き首長に,共同体再生産を祈念させるために創出されたものだっ たから,その主人公である死した首長は,付与された政治的身体によって属人性はなかば剥奪され ていた。共同体再生産のために不可欠な財が同種多量的に副葬されたものの,個人的色彩のつよい 製品や生活容器類などの欠落が,そうした事態を傍証している。つまり,墓誌が一例も出土してい ない事実に裏づけされるように,前方後円墳は個人の墳墓なのに匿名性を本義とする矛盾を当初か ら包摂していた。ところが,霊魂観が浸透していくことで個人性が異分子のように浸透していき,

その住みかとしての他界は共同性を徐々に喪失させ,前方後円墳祭祀を形骸化させていく。再度言 うならば,霊魂観の浸透で敷衍された個人性の論理が,共同心性の領域で地歩を固め,政治的身体 と化して「生きつづける」と観念された亡き首長の役割を空洞化させていった。

古代の人びとによって仮想された他界には 2 段階が想定できる。第 1 段階は 3 世紀中ごろ以降で,

亡き首長がカミとなって共同体を守護しつづける場としての前方後円墳。第 2 段階は 5 世紀後半ご ろ以降で,亡き首長の霊魂が生きつづける横穴式石室とそれを覆う墳丘。ただ第 2 段階にいたって も,第 1 段階の他界観は一掃されたわけではなく,新しく定着してきた霊魂観と重層しながらつづ いていく。

第 1 段階から第 2 段階への他界観念の移行は,けっして劇的なものではなかった。伝統的な心性 に外来的なものが重層し,やがてはそれが新しい心性を形づくっていく。他界といいながらも第 1 ,

2 段階とも日常世界のなかの可視的な装置であって,けっして人びとの手の届かない彼岸的な存在 ではなかった。そうした経緯をたどりながら,前方後円墳をはじめとした古墳は, 7 世紀末もしく は 8 世紀初頭ごろに終焉する。なお,律令国家の正統性を高らかに唱道した『記紀』では,律令国 家を統治した天皇はカミにつながる万世一系の系譜をひく。死してカミと化した古墳時代の首長層

とのヒアタスは大きい。 7 世紀のなかでそれをもたらした観念的な乗り越えがあったはずだが,考 古学の方法論ではよくわからない。

②前方後円墳祭祀を用意した弥生墳墓祭祀

弥生時代後期になると,出雲や丹後,越前や越後などの日本海側,吉備や讃岐や播磨などの瀬戸 内地域の首長墓は,可視的な墳墓としての特性をもちはじめる。それらは生活域から仰視できる,

かつ生活域を見下ろす丘陵や台地に,大きくて高い墳丘をもった墳墓である。そこには亡き首長が 葬られた空間を大勢の人びとに見せる,<亡き首長の存在を顕彰する>とのつよい意志があった。

ただ,各地の弥生墳墓は前方後円墳のような斉一性はもっていなかった。それらは,各地で一定の 約束ごとにしたがった共通性を見せる墳墓であった。出雲地域は扁平な礫石を斜面に葺いた四隅突 出墳墓,丹後地域は方形墳墓,吉備地域は特殊器台・特殊壺を樹立した円形や方形の墳墓,大和地 域は前方後円型墳墓,近江から東海にかけての地域は前方後方型墳墓といったふうに。

亡き首長のありかを顕彰したいとの人びとの意志が,<見せる/見える墳墓>の出現をうながし た。それは死した首長の遺骸に政治的身体をもたせる,という共同観念の嚆矢になって,前方後円 墳祭祀の萌芽ともみなせるものであった。そして,祭祀と政治が墓制に媒介されていく過程をも表 象していた。つまり,首長の死が社会的な意味をもちはじめた,それが共同体の死と重なるような イメージが,各共同体のなかに醸成されだしたと思われるのである。

弥生墳墓は旧国やそれをいくつかあわせたほどの地域的ひろがりで,首長層の文化とでもいうべ き共通の様式,墳形・埋葬施設・供献土器などの共通性を見せていた。そして,王と首長の間の階 層性をもった<見せる墳墓>を保有していた。そのような事実からすれば,前方後円墳祭祀と同様 に農耕共同体と支配共同体という,ふたつの共同体の再生産にかかわる祭祀の役割をもちはじめた,

とみなしてもさほど大過はないようだ。画一的な墳墓様式を限られた地域の首長たちが共有するこ とで,首長同士の親縁的な関係,みずからの帰属意識を表現したのである。

そうした<見せる/見える墳墓>の出現は,亡き首長に政治的役割―共同体再生産のための職 務―を付与しようとの心性を物語る。それとともに,丹後地域や出雲地域などの各地首長層の併立 に際して,各首長層が結束を強化し,それを相互に視認するとともに,民衆にも見せたことを意味 する。具体的な実効性をもった観念装置であったわけだが,この首長層を地域政権といいかえれば,

それは地域政権の<われわれ意識>と,他の地域政権への他者意識をあらわしていたことになる。

さて, 2 世紀後半ごろには各地の首長墓のなかには,「王墓」とよばれる傑出した大型墳丘が築 造される。岡山県楯築遺跡の双方中円型墳墓は,直径 40m の円丘と突出部をふくめた墳長が 81.5m にもおよぶ。京都府赤坂今井墳墓は長辺 39m,短辺 36m,高さ 4m の方形墳墓だし,島根県 西谷 3 号墳墓は長辺約 40m,短辺約 30 の四隅突出型墳墓であった。奈良県纏向石塚墳墓は墳長が 93m の前方後円型墳墓だったし,滋賀県神郷亀塚墳墓は長さ 36.5m の前方後方型墳墓であった。

つまり,各地の首長層のなかに「王」とでもいうべき大首長が聳立していたわけだ。

このように弥生墳墓には共通性とともに階層性も貫徹されていた。つまり,前方後円墳とおなじ ように,<共通性と階層性を見せる墳墓>としての威力を発揮していた。しかし,その有効性は個 別地域の枠を超えることはなかった。出雲地域や丹後地域,あるいは吉備地域や大和地域などの限