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世紀の東国の情況にたいして,『日本書紀』に描かれた大化改新に関して の次のような歴史叙述もある。

「八月にはいると,新政権はいよいよ国制の改革に着手する。まず東国と,朝廷の古くからの直 轄地である倭(大和)の六県(六御県)に,使者を派遣する。大和朝廷にとって東国は政治的な新 開地であった。東国を征服した朝廷は,東国をその軍事力の重要な基盤とし,東国の国造の多くは,

朝廷の「部」(大和朝廷の支配機構の分節)の組織のなかに編入されていった。新政権の改革の第 一歩を東国から始めたのは,そのような背景があったのである」

[吉田 1988]

7 世紀中ごろに樹立された改新政府にとって,東国は「軍事」的基盤とするために「征服」され

るべき「政治的な新開地」とみなされていたようだ。もしそうだとすれば, 6 世紀後半ごろの東国

の 6 世紀にみられた自然石積みの狭長な無袖式横穴式石室との系譜的連続性はまったく辿れないし,

東国のなかでもモデルを見いだしがたい。遠隔地であって,細部にわたる差異はあるものの,前者 は出雲東部地域の石棺式石室に,後者は三河西部地域などの東海地域に,それぞれ祖形を認めるこ とができそうだ。 6 世紀後半ごろから末ごろにかけて,遠距離におよぶ彼我の首長層にはいったい どのような交渉があったのだろうか。中央―地方という関係性を包摂しつつ,汎列島性をもった前 方後円墳という墳丘形式を採用しながら,中央を経由しない埋葬施設の共通性をどのように理解す るのかが,今後の大きな課題になってくる。

上野地域に端を発した凝灰岩切石造りの横穴式石室が, 6 世紀末ごろから 7 世紀初めごろには相 模地域や常陸地域を除く東国一円の首長墓に採用される。もっとも,常陸地域の横穴式石室も板石 を組み合わせたもので,石室壁面の整美さでは切石造りに匹敵する。そして,そこには上野地域の 首長層が形づくった文化的先進性を指摘しうるのだが,一方ではそれを共有した東国首長層の親縁 性も認めなければならない。つまり,畿内地域のような巨石墳志向―奈良県石舞台古墳の横穴式石 室玄室天井石の一枚は 70 トンを超える―ではない整美な横穴式石室志向の背景には,東国首長層 の共通心性が読みとれるわけだ。なぜならば,そうした動向は東国の周辺地域では認められないか らである。ちなみに,切石造り横穴式石室が先行したとみなされがちな畿内地域では,東国より遅 れて 7 世紀中ごろの奈良県岩屋山古墳などで初めてそれが実現している。もっとも,硬質の花崗岩 を加工しているので,技術的にはそちらのほうが高度といえるが。

ほぼ旧国ごとの狭域と,かつ東国全体の広域とに,同時に起こった切石石室への転換という<墓 室の革新>は,政治的結合を深めた東国首長層のイデオロギー的紐帯を強化しようという墳墓装置 であった。すなわち,整美な横穴式石室型式の共有という現象は,狭域と広域の二重の首長層の心 性,われわれ意識,帰属意識,自他意識を表象していたのである。ここにいたって,やっと東国と いう地域的まとまりが,考古資料で確認できるようになるわけだ

[広瀬 2008]

この時期を遡って,東国という広域におよぶ首長層ならびに「民衆」が,観念的もしくは政治的 な一体性を見せたことを,考古資料でしめすことは難しい。ひとつの例外は 350 年間にまたがる前 方後円墳という墳墓形式であるが,それは北海道・北東北と沖縄以外の汎列島性を有していて東国 を包摂するような広大な地域におよぶから該当しない。

上述してきたような 7 世紀の東国の情況にたいして,『日本書紀』に描かれた大化改新に関して の次のような歴史叙述もある。

「八月にはいると,新政権はいよいよ国制の改革に着手する。まず東国と,朝廷の古くからの直 轄地である倭(大和)の六県(六御県)に,使者を派遣する。大和朝廷にとって東国は政治的な新 開地であった。東国を征服した朝廷は,東国をその軍事力の重要な基盤とし,東国の国造の多くは,

朝廷の「部」(大和朝廷の支配機構の分節)の組織のなかに編入されていった。新政権の改革の第 一歩を東国から始めたのは,そのような背景があったのである」

[吉田 1988]

7 世紀中ごろに樹立された改新政府にとって,東国は「軍事」的基盤とするために「征服」され るべき「政治的な新開地」とみなされていたようだ。もしそうだとすれば, 6 世紀後半ごろの東国

における前方後円墳の急増現象や, 7 世紀の大型方墳や円墳の築造はいったいどの理解すればいい のであろうか。こうした『日本書紀』の叙述にそのまましたがうには,あまりにも考古学的実態と 齟齬がありすぎる。「書紀編修の始めは天武天皇十年におくべき」[坂本・小島 1993]との説に拠れば,

それからさほど遡及しない時期のことだけに,『日本書紀』に描かれた文字史料と豊富な考古資料 をどのように解釈すれば,歴史の整合性が獲得できるのだろうか。

………

新しい古墳時代像創出に向けて

ここまで検討してきたように,中央政権が地方支配を拡大し,中央集権へと歩をすすめていく過 程で,かつての同盟者であった地方首長は服属していく,といった古墳時代についての通説的解釈 は,かならずしも古墳研究から導きだされたというわけではなかった。前方後円墳にたいして,あ るときは「同盟」を,また他では「服属」が語れるとするならば,どのような方法を用いればそれ が可能か,などの問いに応えねばならないが,けっして十分でないことも見てきたとおりである。

一個の様式を有した遺跡・遺物については,それを貫ぬく論理的かつ整合的な説明がまずはなされ ないと,いくとおりもの解釈が相関性を欠いたまま並列してしまいかねない。

政治秩序を表象した記念碑的墳墓が前方後円墳である,が古墳時代研究のひとつの到達点だった。

しかし,前方後円墳が有効性を発揮した政治とは何か,についての論考はさほど多くない。それが 一元的であったのか,そうではなかったのかの方法的視座を明瞭にした論議も深められたわけでは ないが,どちらかといえば,『日本書紀』の体系的記述が意識的,無意識的とを問わず,古墳時代 史の外在的要因としてつよく作用してきたように思える。それをいったん外してみたら何が見えて くるか,という問いは,文字のない時代をどう描くかという課題にも通底する。「もの」に包摂さ れている諸属性を抽出し,それらの関係性の時―空的展開をとおして,その後に同時代の文字史料 や各種の類推を駆使して,歴史を叙述できるかどうかが問われねばならない。  

文字史料で描かれた世界を参照しながら,考古資料で歴史を構築する試み,文献史学の無意識裡 の傍証的態度ではない考古学は可能か。いったい,考古資料を駆使した歴史叙述は可能なのか。律 令国家の前史ではない古墳時代の歴史,律令国家の形成過程ではない古墳時代史は,どうすれば叙 述しうるのか。そこには文字のなかった時代,あるいは少なかった時代の歴史をどのように叙述す るのか,といった問題が横たわっている。

さて,政治システムや支配統治のありかたを前方後円墳をとおして叙述する場合,「前方後円墳 とはなにか」と「前方後円墳を媒介とした政治とはなにか」のふたつを峻別して論じなければなら ない。これらは往々にして混交されて問題を複雑にしてきた嫌いがあるからだ。この章では,これ まで述べてきた言説[広瀬 2003,2007 など]を概述したり,既発表の論考の再録も含めながら,「新 しい古墳時代像創出に向けて」の今後の見通しや方向性を述べておこう。

(1)前方後円墳とはなにか 

「前方後円墳とはなにか」という本源的なテーマについては,代々の首長霊としての祖霊でもあ る前代首長の霊を,新しい首長が継承することで初めて首長の資格を獲得する,そのための儀式が

前方後円墳で実施されたという,近藤義郎の「首長霊継承儀礼説」が一般化している

[近藤 1966,

1983]

。最近では寺沢薫が弥生墳墓の分析をつうじて再度検証している

[寺沢 2000,2003]

が,岡田 精司や大久保徹也らからの批判も出されている

[岡田 1999,大久保 2004]

前方後円墳首長霊(権)継承儀礼説には,いくつかの疑問がある。第一,「首長霊の継承儀礼」

にどうして前方後円墳という,多量の労働力を費消しなければならない墳墓を必要としたのか。多 種多彩な威信財や権力財がなぜそこに副葬されたのか。そもそも前方後円墳の何で,首長霊継承儀 礼が説明できるのか。第二,この学説では霊魂観の存在,いいかえれば霊肉分離の観念が成立して いたことが前提になっているが,それについての十分な説明はない。後述するように,霊魂観は けっして先験的な存在ではないし,非歴史的な産物でもない。第三,もし霊魂がつぎの首長に継承 されたとするならば,亡き首長の遺骸は霊魂のない「抜け殻」になっているはずだが,多量の「宝 器」類を「抜け殻」に副葬する必然性はどこにあるのか。    

①<共通性と階層性を見せる墳墓>が前方後円墳

前方後円墳はディテールにおいて多様なありかたをみせる。墳丘ひとつをとってみてもそうだし,

埴輪の樹立や周濠の形状などの外部表飾もそうである。可視的でない埋葬施設や副葬品などにい たっては,かなりのバリエーションが存在する。そのような差異を強調すると,各地で任意に築造 された文化的産物との見解も出てこないことはない。しかし,日本列島の永い墓制史のなかで,限 られた時期に円形と方形・台形が結合したダブルマウンドが築造されつづけるという汎列島的な共 通性に焦点をあてれば,そして副葬品の組合せなどにおいて見られる一定の約束事にしたがった墳 墓様式という側面からすれば,上記したような考え方はさほど合理的ではないのは,「首長霊の鎮 魂・継承」はともかく,近藤義郎が次に説くとおりである。

「統一性・画一性をもってあらわれ,各地に波及するという普遍性をもつ。すなわち前方後円墳 は,地域性を継承しつつ一つの飛躍をとげ,その中で地域性を切断する統一的祭祀としてあらわれ る。それは,弥生時代に成立した首長霊の鎮魂・継承の祭祀の型式のあたらしい創出ともいえるも のであった」

[近藤 1983]

続縄文文化の北海道・北東北と,貝塚後期文化の沖縄を除いた日本列島で, 3 世紀中ごろから 7 世紀初めごろにかけて約 5200 基つくられた前方後円(方)墳の本質は,見る/見せる墳墓という ところにあった。それらはけっして人里離れた,人跡未踏の地につくられたわけではない。大部分 は生活空間を見下ろす丘陵や交通の要衝に立地していた。そして,葺石や段築や円筒埴輪列などで 墳丘を装飾し,前期のものは正面観を見せていた。たとえば,奈良県西殿塚古墳は平野側だけ一段 多く墳丘を築成しているし,京都府蛭子山古墳も平野側だけ 3 段築成に仕上げられている,などで ある。さらに,一人や二人の埋葬空間には大きすぎる墳丘をもつという特性をもっている。

7 世紀初めごろに前方後円墳がほぼ一斉に終息してからも,北東北地域などの「末期古墳」を除

いて 7 世紀末ごろ,もしくは 8 世紀初頭ごろまで方墳や円墳などが築造されるが,そこでは可視的

な要素はいちじるしく劣化している。いっぽう,前方後円(方)墳が築造された地域では,弥生時