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正義抄 9

ドキュメント内 棲神 第貳拾貳號 (ページ 148-151)

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正中山蔵 9 正義抄 9

に就て

輸 藤

正中山法華経寺所裁の法華問答正義抄は.等月比院の開基日金上人の著︒金二十二各であるが︑そのうち一︑問︑七

十四︑十九の五巻を闘いて︑現存するのは残る十七巻である︒但し︑全師の直筆ではない︒法華経寺が未だ本妙寺︒

再侍である︒即ち︑ 稀呼にあった時代︑八世日院上人が明臨七年に門下の手を以て傍思したもので︵第十三は文明三年ヌ臆永年間の詰木の

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第十二|普賢経

巻末云︑暦腹三年庚辰正月八日記之︑定悦有之

﹄鰍︑住明書時可取捨之而己︑於下河建大和問郷吉岡

4布居帥報稗館及大型人之御恩︑於法花八巻開紡ニ−

d経抄詑之有十ご帖︑各可有限︑奈下塗清書者後︑見取裕之耳︒日全

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第 十 問 ・

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快 本

第十五l真言宗

︵巻初一去︑暦臨臨五年壬午三月二十九日︑回全︶ 第十六1ハ巻初一式︑康永元年壬午八月ご日始之︑日会﹀

第十七|蹄

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第二十

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第廿二|法華興天台止観勝劣営家観心

等である︒紋本を何鹿かで柿ふととが出来れば有難いのであるが︑未だ見営らない︒な・が立正大皐から祇遣されて法

幸粧品寸方丈の一室に浮店︑此書に就いたのは昭和六年の夏︒読みにくかったので︑刻苦・顎年間月に漸く蹄需を完了

した︒その後訟は身延山へ泣はされ︑身延文庫目録中にとの書名を見出して驚喜したが︑抜いて見ると中山所碕のう

正中山歳﹁正義抄﹂に就て

一 一

正中山蕨﹃正義抄﹂に就て

ちの一冊を偉思したものに過ぎ示︑喜んだLけに落謄したととであった︒何底かに存してゐたいものであらろか︒或

はとの還に組織宗壊の第一歩が言はるべきであるとすれば︑腐蝕に任せるには飴りに惜しいととである︒

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一之江に寺は厳存して︑田中智島一耐得度の底としても知

られてゐるが︑火難等に遭って︑今は全師の由民筆本隼以外には撮るぺきものも残ってゐないやろである︒

前掲各巻の奥書に従へば︑正義抄は組減五十年の頃︑正慶二年に起稿されて︑第十巻前後は建武二年︒︵中山法識に

参簡しての執筆は第八巻奥警に見られるととろである︶それから三年置いて第十一巻は暦底二年︑下河建荘大和田抑

高須賀村に於て書かれた︒第十二巻も同年同庭をあるが︑とL

で前

ATの功を果し︑法華経開結を併せて十符の註記を

了り︑失の第十三巻からは筆硯を新たにして他宗敬義の批判に移り︑暦謄四年歳幕︑下組囲八幡庄今嶋田坊に於て起

稿されてゐる︒槙いて第二十二轄を稿了した康永三年まで同底での執筆と思はれるのであるが︑第二十の奥書では︑

﹁病中﹂とある︒建武二年に四十二の厄とあるから︑との時は五十一歳か︒とれが致命の病とすれば.中山の過去帳に

﹁等質坊日金︑正義抄作者︑五月二十三日﹂と記喜れたのは︑康永三年五月二十三日の遷化と想像される︒との想像

を日正たりとすれば︑その年四月二十八日に始められた第二十二の巷は辛うじて捕筆されたのでるった︒斯くて正義抄

は正慶二年︑杢師四十歳の凶引に筆を起されて︑康永三年五十一歳の時に及び︑その問中断はあるが︑約十二年に豆つ

ての沈静労作であった︒

時代は︑北依家滅亡して建武の中興と・なうたが︑足利氏興って朝廷は吉野に還り︑属鹿・康永等北朝の年披が行は

れてゐた際である︒されば抄中にも共闘間的に時代色を反醸して︑例へば第十五巻異言宗を破するの僚には︑

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ドキュメント内 棲神 第貳拾貳號 (ページ 148-151)

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