袋のスパゲッティを茹でた。スパゲッティとバター。それだけ。夕食に。これじゃ死んで 当然よね。
あなたは笑わせてくれたわ、ね。ユーモアを教えてくれた。想像力を。痛みをやわらげ てくれるものを。
道が勾配によって色分けされているサンフランシスコのガイドブックを買った時みたい に。赤は急、黄色はなだらか、青は平ら。あなたは街を通り抜けるコースを計画し、低い 丘が実は高山の頂上で、明るいペンキを塗ったビクトリア様式の家が、実は甘い香の松の 木だとわたしを納得させた。野良ネコはスカンクで、犬はオオカミとシカだと。貯水池は 高山の湖水で、そしてあなたは蚊よけに防虫剤を持っていると。
あなたは痛みをやわらげるのがうまかったわ、エリオット。喪失の痛みを。あなたを失 わなければいけない痛みを。
最後のモルヒネの注射を覚えているわ。あなたを寝かせて、胸と首の引きつった筋肉を やっとやわらげた注射。部屋は暗く、あなたの友人たちが、ベッドを手のように包んだ わ。一人づつ話をして真ん中にいるあなたの思い出を織りあげた。みんなが話を終えた ら、あなたが記憶されて、解放されるように。あなたはわたしにもたれかかっていた。重 く、やっと力を抜いて。そして尋ねた、死んでいいかいと。あなたの声はとても弱くてほ とんど聞こえなかった。死んでいいかい。
ええ、わたしはささやいた。ええ、いいわよ、さあ死んで。
あなたはほほえんで、そして口元から力が抜けた。あなたはちょっと震え、そして死 んだ。
わたしは泣かなかった。怒りと悲しみを感じた。あなたの重み。わたしは床の上に落ち た月の光を見た。廊下で車輪の音がした。世界は翼を持った。
ベストセラー
十月二十日
昔は貧乏が望ましい状態だと思っていた。アーティストとして意識を集中させ、本質的 なものをそうでないものからえり分ける手段だと思っていた。あの頃はまだ若く、必要な ものも少なかった。ベッドと机と椅子だけのシンプルな部屋。古いタイプライター、鉛 筆、安手の紙の束。自分の経済性には誇りを持っていた。すぐにでも仕事を見つけて別の 暮らしができたのは事実だが。作家にとって、禁欲主義こそがふさわしい環境に思えた のだ。
いまはちがう。家族があるし、変わった個人的な目的のためならともかく、妻と息子の ためには貧乏に甘んじることはできない。二人は古着や、ちっぽけで陰気なアパートより ましなものを与えられるべきだ。あるいはポテト・スープや古野菜よりもましなものを。
家主に家賃の払いを待ってくれと頼む、わたしの声を聞かされたり、暖房が切られて凍り ついたアパートに帰ってくるよりましなものを。貧困など、何の達成でもない。
こんな貧乏なんか、もういやだ。
十月二十一日
本で苦労させられた一日だった。会話は平板、登場人物たちは一斉にクスリを盛られた かのよう。自分ですら興味が持てないものを書いて、何の意味があるんだろうと自問して いる最中に、トニーが電話をよこした。『薮の中』のペーパーバック版権が売れたが、期 待より相当安くしか売れなかったという。そして『隣家の芝生で情事』は買い手がつか ず。予想はしていたが、今日はもうこれ以上仕事をする気にはなれない。トニーがおずお ずと新しい本のことを聞くので、わたしは曖昧な、だが熱のこもった返事をした。「売れ 線」というのがわたしの使ったことばだったと思う。自分で言うのは、トニーに言われる より怖くない感じだったが、しかし電話を切ってみると、その意味はいつになく重荷に感 じられる。売れる本ってのは、一体全体どう書けばいいんだ?
十月二十三日
ニックはまるで服が紙でできているかのように、すぐ破いてしまう。この頃は数日ごと に、何かに継ぎを当てたり、あるいは救世軍にでかけたりしている。新しい靴が入り用に なって、もう一月になる。チャップリンが『モダン・タイムス』で、靴の穴をソーセージ でふさいだ話をしてやった。ニッキーは目を輝かせた。
「チャップリンは、それどうしたの?」
「どうしたのって、歩いててあいちゃったんだよ」
ニッキーはわたしを見た。じっくり考えているのがわかる。「ううん、ちがうよ。ソー セージはどうしたの?」
十月二十七日
歯痛が一週間たっても止まらなかったので、クレアはやっと歯医者にでかけた。医者は 歯根治療をしようとして、何やらブリッジを入れた。四百ドル。クレアは、あっさり抜い てくれと頼んだ。わたしは激怒した。
「信じられないよ、そんなことをさせるなんて! クレア、おまえのからだなんだぜ。
歯ってのは二度と生えてこないんだぞ」
「そのくらい知ってるわ、馬鹿じゃないんだから」
「信じられない。四百ドル。その馬鹿な医者に、そんな金はないって話したか?」
「マット、もうたくさんよ」
「話したか?」
彼女は、ある表情を浮かべてわたしを止めた。「マット、歯ならまだたくさんあるわ」
クレアのような女に腹を立て続けるのは難しい。彼女のあの表情に勝てるものはない。
正直な話、クレアの歯の欠けた微笑は、何だかかわいらしい。
十月二十九日
放課後にニックを公園に連れていき、テニスコートの裏の杉の大木に登るのをながめ た。この子は本当に素晴らしい。俊敏で、怖いもの知らずで、ああやって木登ぼりをして いると、わたし自身の子供時代を思わせる。若く、無敵で、枝から枝へと木のてっぺんに つくまで登ぼり続ける。そこには一面の空。世界に君臨する。
そして落っこちたあの時も、枝のかわりに宙を踏み、七メートル下の地面へと落下した ときでさえ、なにか魔法じみたものがあった。茫然として、肋骨を弦のように震わせつ
つ、わたしはトランス状態で森の中をさまよった。やっと家に帰り着いた時には、一つ賢 くなっていた。大地はわたしに叩かれても動かない。わたしの意志に従わないものもある のだ。
ニックは杉の木のてっぺんから手を振り、気がつくとわたしは、あの子が落ちないでく れればよかったのに、同じ学ぶにしても、もっと別の楽な方法で学んでくれればよかった のに、と祈っていた。
帰り道、ニックは遅れてばかりいた。脚が痛いのだと言う。あの靴のせいだ、たぶん どっか枝にひっかかったんだろう。小切手が届き次第、新しい靴を買ってやるとニックに 誓う。
十一月一日
クレアが勤め先から逆上して電話してきた。一時間あたりで応対しなければならない苦 情電話の数を、倍に増やされたのだという。これで苦情を言う側は、もともとの怒りにさ らに油を注がれる計算となる。わたしは本を中断して彼女と昼食をとった。クレアは泣き そうだった。
「ホントに無礼な人ばっかり。たかが皿洗い機や、馬鹿なトースターなんかのことで。
まるで機械の方があたしより大事だとでもいわんばかりなのよ」
「やめちゃえよ」
「今日電話してきた女なんか、ご亭主のシャツが十分に白くならないって文句を言うの。
旦那の方は、仕事に着てくきれいなシャツがないので奥さんに怒って、だから奥さんは電 話して、あたしにあたりちらすのよ。信じられる?」
「きみはなんて言ったの?」
「規定通りの応対をしたけど、向こうは何も聞いてくれないの。単にやつあたりした がってるだけ。もうたくさん」
「みんなどうかしてるんだよ。やめちゃえって」
「そんなことばっか言わないでよ」
「だって嫌なんだろう」
「嫌なのは、あなたがそうやってあっさり言えるってことよ。まるであたしをだまそう とするみたいに。そんなの嘘じゃないの」
「嘘なんかじゃないよ」
彼女は目をそらした。「いまはこの話をしたい気分じゃないわ」
「ほかのみんなもぼくたちと同じだよ。実生活が少しでも夢に近づいてほしいんだ。
ちょっとでもいいから希望を見つけようとしてるんだ」
「あたしに怒鳴りちらして、役にたつとは思えないけどね」彼女はかぶりをふって口ご もり、やがて不満そうなため息とともに、話題を変えた。
「今日は仕事、はかどった?」
「まるで歯を抜かれるような感じ。ああ、こりゃ失礼」
彼女は笑わなかった。「トニーには見せたの?」
「何章分かはね。少しは金になりそうだって。少くとも『薮の中』くらいには」
「あんましやる気の出る保証じゃないわね」
「トニーなんかどうでもいい。金は何とかする。ダメなら別の手を考えつくって」
「もちろん考えつくでしょうよ」
「本気だよ」
妻は奇妙な表情でわたしを見つめ、それからコンパクトを取りだして口紅をなおした。
彼女が去ってから、わたしはテーブルにすわったまま、自分の今の台詞を考え直してみ た。少年時代は、成功の可能性はいくらでもあったが、大人になってみると、その同じ世 界を見出だすのがずっと難しくなっている。それだというのに、わたしの野心は猛々しい ままだ。時々これが心配になる。わたしはクレアが考えているように、自分に嘘をついて いるのだろうか。わたしは完全に物書きを諦めることができるのだろうか。
十一月四日
好調な一日。ことばが猛然とページになだれこむ。十一章を終えたが、はじめて何もか もがちゃんと収まった気がする。ジェイミーも形になりはじめた……本の終わりまでには 自分を取り戻すだろう。悲しみと希望の結婚、ふさわしい結末だ。しかも、まさに売れ線。
十一月五日
ニックが脚のことでこぼしている。落ちたところがまだ痛むし、ほんのわずかだがびっ こをひいている。不思議だ、わたしの子供時代は、打ち身やあざなんか一晩でよくなった ような気がする。ただの成長痛かもしれない。とにかく、アスピリンを少しのませると、
おさまったようだ。クレアの給料が入るまで続くようなら、医者に診せよう。
十一月八日
執筆の中だるみで、ふと気がつくと求人欄を眺めていた。ありとあらゆる仕事、そして それに伴なう富の希望。わたしは想像力を解放し、事務員になって味わえるさまざまな大 冒険のことを考えてみた。長い番号を覚え、紙の粉をすいこみ、フォルダーを次々にファ