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第 4 章 戦争責任 48

4.4 東京裁判

いう価値観が日本軍の将兵を支配していたことにあります。

4.4 東京裁判

Q 4.4.1 東京裁判って何ですか。

「東京裁判」(Tokyo Trial)というのは、第二次世界大戦の終結後に、日本の重大な戦争犯罪 人を審理するために連合国が開廷した裁判のことです。

Q 1.9.8で説明したように、「東京裁判」という名称は正式なものではなく、「極東国際軍事裁

判」(International Military Tribunal for the Far East)というのが正式名称です。

東京裁判の直接的な法的根拠は、1946年(昭和21年)1月19日に公布された「極東国際軍事 裁判所条例」という条例です。この条例の第1条は、「極東国際軍事裁判所」と呼ばれる裁判所 の目的について、次のように定めています。

極東ニ於ケル重大戦争犯罪人ノ公正且ツ迅速ナル審理及ビ処罰ノ為メ茲ニ極東国際軍事裁判 所ヲ設置ス。11

東京裁判は、第二次世界大戦後に連合国が各地で開廷した日本の戦争犯罪人を審理する裁判の うちの一つで、最も重大な戦争犯罪人を審理するために開廷されたものです。東京裁判以外の裁 判は連合国の各国が個別に開廷しましたが、東京裁判は連合国が共同で開廷しました。

連合国の各国が各地で開廷した東京裁判以外の裁判は、「BC級戦争犯罪裁判」と呼ばれます。

BC級戦争犯罪裁判については、第4.5節で、もう少し詳しく説明することにしたいと思います。

Q 4.4.2 東京裁判って、いつ始まっていつ終わったんですか。

東京裁判は1946年(昭和21年)5月3日に開廷して、1948年(昭和23年)11月12日に閉 廷しました。

Q 4.4.3 東京裁判って、どこで実施されたんですか。

東京裁判の法廷は、東京のいち市ヶ谷にあった第一総軍司令部の大講堂に設置されました。

Q 4.4.4 東京裁判で審理された戦争犯罪って、いつからいつまでの期間に起きたものが対象な

んですか。

東京裁判における起訴の対象期間は、1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)

9月2日まででした12

りゅうじょう

柳 条

湖事件によって十五年戦争が勃発したのが1931年(昭和6年)9月18日、日本がポツ ダム宣言を受諾して十五年戦争が終結したのが1945年(昭和20年)8月15日ですから、東京 裁判で審理された戦争犯罪の期間は、十五年戦争の期間とほぼ一致します。

Q 4.4.5 東京裁判では、何人の人が起訴されたんですか。

東京裁判で起訴された被告の人数は、28名でした。

Q 4.4.6 東京裁判で起訴された人々って、「平和に対する罪」に問われるべき戦争責任がある

人々だと考えていいんですか。

東京裁判で起訴された被告の大多数は、第4.2節で取り上げたような、十五年戦争に関して「平 和に対する罪」に問われるべき重大な戦争責任がある人々です。

極東国際軍事裁判所条例は、その第5条で、審理の対象となる人々について、次のように定め ています。

本裁判所ハ、平和ニ対スル罪ヲ包含セル犯罪ニ付個人トシテ又ハ団体員トシテ訴追セラレタ ル極東戦争犯罪人ヲ審理シ処罰スルノ権限ヲ有ス。13

11[東京裁判,1989], p. 251。

12[東京裁判,1989], p. 32。

13[東京裁判,1989], pp. 251–252。

56 第4章 戦争責任 ただし、東京裁判で起訴された28名の被告の中には、「平和に対する罪」よりもむしろ、「通 例の戦争犯罪」または「人道に対する罪」に関して重大な責任があるとみなされる人々も含まれ ています。たとえば、松井いわ石根という被告が起訴された訴因のうちで最も重大なものは、彼が中 支那方面軍の司令官を務めていたときに起きた南京大虐殺(Q 4.3.2参照)に対する責任です。

Q 4.4.7 「平和に対する罪」に問われるべき戦争責任がある人々は、すべて東京裁判で起訴さ

れたんですか。

いいえ。「平和に対する罪」に問われるべき戦争責任があるにもかかわらず、東京裁判で起訴 されなかった人もいます。

たとえば、Q 4.2.2で指摘したように、昭和天皇(裕仁)には、「平和に対する罪」に問われる べき戦争責任があります。しかし、東京裁判では彼は起訴されませんでした。彼を起訴しないと いう判断には、マッカーサーがアメリカの陸軍省に、もしも天皇が起訴されたならば、日本の国 民の間に動揺が引き起こされ、日本は混乱状態に陥るだろう、という内容の電報を打電したこと が大きな影響を与えたと考えられています14

また、この近衛ふみまろ文麿(Q 4.2.3参照)も、「平和に対する罪」に問われるべき戦争責任があるにもか かわらず、東京裁判で起訴されなかった者の一人です。彼が起訴されなかった理由は、彼が、戦 争犯罪の容疑者として拘引される直前に自殺したからです。

Q 4.4.8 東京裁判は、どんな判決を被告たちに下したんですか。

東京裁判は、1948年(昭和23年)11月12日に、25名の被告に対して有罪の判決を下しまし た。そして、7名に絞首刑、16名に終身禁錮刑、1名に禁錮20年、1名に禁錮7年を宣告しま した。

東京裁判で起訴されて被告となったのは28名でしたが、大川

しゅう

めい

明は精神障害のために審理除 外になり、松岡

ようすけ

洋右と永野

おさ

身は裁判中に病没したため、判決を受けたのは25名でした。

絞首刑の判決を受けたのは、次の7名です。

土肥

はら

原賢二 広田

こう

毅 板垣

せい

ろう

郎 木村

へい

ろう

郎 松井いわ石根とうあきらとうじょうひで英機

Q 4.4.9 A級戦犯って何ですか。

「A級

せんぱん戦犯」(class A war criminal)というのは、東京裁判で起訴されて被告になった人々の ことです。

Q 1.9.8で説明したように、「せんぱん戦犯」という言葉は「戦争犯罪人」の略称ですので、「A級戦犯」

は「A級戦争犯罪人」の略称です。

Q 4.4.8で説明したように、東京裁判で起訴されて被告になった28名は、そのすべてが有罪判

決を言い渡されたわけではありません。審理除外になった者が1名、公判中に病没した者が2名 います。「A級戦犯」という言葉が指しているのは、有罪になった25名だけではなく、有罪にな らなかったこれらの3名も含めた、28名の被告の全員です15

東京裁判で被告になった人々が「A級戦犯」と呼ばれるのに対して、BC級戦争犯罪裁判で被 告になった人々は、「BC級戦犯」(class B and C war criminal)と呼ばれます。

Q 4.4.10 東京裁判で絞首刑の判決を受けた人って、いつどこで処刑されたんですか。

東京裁判の判決で絞首刑が言い渡された7名に対する処刑は、1948年(昭和23年)12月23 日の深夜に、スガモ・プリズンで執行されました。

スガモ・プリズンというのは、連合国が1945年(昭和20年)11月14日に東京に開設した、

戦争犯罪の容疑者を収容するための拘置所のことです。現在、スガモ・プリズンがあった場所に は、サンシャイン60という高層ビルと、豊島区立東池袋中央公園があります。この公園の一角 には、「永久平和を願って」と刻まれた、重さ6トンの黒御影石でできた石碑が建立されていま

14[西,2005], pp. 110-111、[岡本,2013], pp. 283–288。

15[日暮,2008], pp. 18–19。

4.4. 東京裁判 57 す。この石碑がある場所は、A級戦犯の7名とBC級戦犯の52名に対する絞首刑が執行された 処刑台が設置されていた跡地です16

Q 4.4.11 「パル判決書」って何ですか。

「パル判決書」は、東京裁判でインド代表裁判官を務めたラダビノッド・パル(Radhabinod Pal)17が作成した少数意見書です。

東京裁判では、連合国のうちの11か国からそれぞれ1名ずつ任命された裁判官が戦争犯罪人 を審理しました。法廷で朗読された判決文は、彼らのうちの多数派の意見に基づくものです。少 数派の裁判官たちのそれぞれは、独自の意見書を提出しました。「パル判決書」と呼ばれるもの も、それらの意見書の一つです。その意見書の中で、パルは、東京裁判は法的根拠に問題があり、

すべての被告は無罪であると主張しました。

パルが主張した東京裁判の問題の一つは、それが事後法による裁判であるという点です。「事 後法」というのは、裁判の対象となっている行為が実行された時点よりものちに制定された法律 のことです。近代刑法には、「罪刑法定主義」と呼ばれる、「いかなる行為が犯罪であるか、その 犯罪に対していかなる刑罰が科せられるかということは、あらかじめ法律によって定められてい なければならない」という原則があります。事後法による裁判は、この原則に反するものです。

Q 4.4.1で説明したように、東京裁判の直接的な法的根拠は、1946年(昭和21年)1月19日

に公布された「極東国際軍事裁判所条例」という条例です。この条例の第5条は、本裁判所の管 轄に属する犯罪は、「平和に対する罪」、「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」であると定めて います。Q 4.1.5で説明したように、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という類型は、第 二次世界大戦後に連合国によって戦争犯罪に追加されたものです。したがって、東京裁判は事後 法による裁判であるというパルの主張は、妥当なものだと考えることができます。

「パル判決書」は、すべての被告は無罪であると主張したわけですが、その理由はあくまで、

東京裁判の法的根拠に問題があるとパルが考えたからであって、日本に戦争責任がないと彼が考 えたからではありません。しかし、「大東亜戦争(Q 1.8.10参照)は侵略戦争ではなく、アジア を欧米から解放するための戦争だった」という歴史観を持つ人々は、この意見書は日本の戦争責 任を否定しているのだと解釈し、日本にとってパルは恩人であると考えました。

2005年(平成17年)6月25日、靖国神社の遊就館(第2.4節参照)の前に、パルの顕彰碑が 建立されました。この顕彰碑は、靖国神社が持つ歴史観を反映していると考えることができます。

Q 4.4.12 東京裁判が事後法による裁判だから無効だとすると、その裁判の被告たちに戦争責

任はないということになるんですか。

いいえ。たとえ東京裁判が無効だとしても、そのことによってその裁判の被告たちの戦争責任 が否定されるということにはなりません。

「極東国際軍事裁判所条例」が事後法だというのは、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」

を戦争犯罪として審理の対象にするということの法的根拠がそれ以前には存在しなかったという 意味です。しかし、Q 4.1.6で説明したように、「平和に対する罪」というものが存在するという 考え方、すなわち戦争は違法であるという考え方は、すでに1928年(昭和3年)に、「不戦条 約」という条約で具体化されていました。十五年戦争は明らかに日本による侵略戦争ですから、

それを指導した日本の指導者たちには、「平和に対する罪」に問われるべき戦争責任があります。

Q 4.4.6で説明したように、東京裁判で起訴された被告の大多数は、十五年戦争に関して「平

和に対する罪」に問われるべき重大な戦争責任がある人々です。たとえ東京裁判が無効だとして も、彼らの戦争責任が否定されるということにはなりません。

Q 4.4.13 東京裁判って、日本を占領していた連合軍によって実施されたものだから、日本が

主権を回復したことによって、その効力も消滅したんじゃないんですか。

いいえ。東京裁判の効力は、日本が主権を回復したのちも有効です。

Q 1.8.9で説明したように、日本と連合国は、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシス

コ講和条約を締結しました。この条約は翌年の4月28日に発効して、小笠原と沖縄を除く日本 は、主権を回復しました。

サンフランシスコ講和条約の第11条は、東京裁判について次のように定めています。

16[上坂,1981], pp. 17–19。

17「パール」と表記している日本語の文献もある。

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