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第 4 章 戦争責任 48

4.2 十五年戦争の指導者

Q 4.2.1 十五年戦争に関して「平和に対する罪」に問われるべき戦争責任があるのは、どんな

人たちですか。

十五年戦争に関して「平和に対する罪」に問われるべき戦争責任があるのは、その当時の日本 の指導者たちです。

Q 1.9.3で説明したように、十五年戦争は、日本の周辺諸国に対する日本による侵略行為を含

んでいる戦争です。したがって、その戦争を指導した日本の指導者たちには、「平和に対する罪」

に問われるべき戦争責任があります。

十五年戦争を指導した日本の指導者たちというのは、次のような人々です。

天皇

総理大臣

ないだいじん内大臣

軍の幹部たち

外交官

戦争を鼓舞した民間の活動家たち

Q 4.2.2 十五年戦争の当時の天皇にも、「平和に対する罪」に問われるべき戦争責任があるん

ですか。

4一般市民が独自の組織を作って活動する不正規部隊の隊員。

4.2. 十五年戦争の指導者 51 はい。十五年戦争の時期に在位していた昭和天皇(裕仁)には、「平和に対する罪」に問われ るべき戦争責任があります。

日本国憲法という日本の現行の憲法では、天皇というのは「日本国の象徴であり日本国民統合 の象徴」であって、「国政に関する権能を有しない」と定められています。しかし、日本国憲法 が制定されたのは十五年戦争が終結したのちのことで、それ以前は、大日本帝国憲法という憲法 が天皇の権能について定めていました。

大日本帝国憲法が定める日本の政治体制は、立憲君主制でした。「立憲君主制」というのは、君 主が統治権を保有しているけれども、その統治権は憲法に基づいて運用されるという制度のこと です。日本は、天皇という一人の君主によって統治されていましたが、その統治権は憲法に基づ いて運用されていました。

大日本帝国憲法によって制限は受けていたものの、十五年戦争の時代の天皇は、国務大臣や官 吏の任命、陸海軍の統帥、戦争の開始や講和、条約の締結などの強大な権能を持っていました。

したがって、「平和に対する罪」に問われるべき戦争責任は、昭和天皇にもあります。

Q 4.2.3 十五年戦争の時代に総理大臣だった人々のうちで、「平和に対する罪」に問われるべ

き戦争責任が特に重いのは誰ですか。

十五年戦争の時代に総理大臣を務めた人々のうちで、「平和に対する罪」に問われるべき戦争 責任が特に重いのは、次のような人々です。

広田こう弘毅 オランダ駐在公使、駐ソ連大使、外務大臣を歴任。1936年(昭和11年)3月9日 から1937年(昭和12年)2月1日まで総理大臣。軍部大臣現役武官制(陸軍大臣 と海軍大臣は現役の大将または中将に限るとする制度)を復活。日独防共協定を締 結。思想犯保護観察法を制定。

この

ふみまろ

文麿 1937年(昭和12年)6月4日から1939年(昭和14年)1月5日まで、1940年

(昭和15年)7月22日から1941年(昭和16年)10月18日まで総理大臣。「

爾後 国民政府をあい対手とせず 5」という声明(近衛声明)によって中国との和平の道を閉 ざす。国民精神総動員運動を開始。国家総動員法を制定。日独伊三国同盟を締結。

たいせいよくさんかい

大政翼賛会(全国民を国策に協力させるための組織)を発足させる。

平沼

いちろう

一郎

こくほんしゃ

国本社(国体精神の鼓舞を目的とする政治結社)の創立者。1939年(昭和14年)

1月5日から8月29日まで総理大臣。

とう

じょう

ひで

機 関東軍憲兵司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍大臣を歴任。1941年(昭和16 年)10月18日から1944年(昭和19年)7月12日まで総理大臣。アメリカ、イ ギリス、オランダに対して開戦。

いそくにあき

磯国昭 陸軍省軍務局長、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、拓務大臣、朝鮮総督を歴任。陸軍 省軍務局長のとき、三月事件(1931年(昭和6年)3月に発覚した陸軍首脳部によ るクーデター未遂事件)に関与。中国および東南アジアに対する膨張政策を提唱。

1944年(昭和19年)7月22日から1945年(昭和20年)4月7日まで総理大臣。

Q 4.2.4 内大臣って何ですか。

ないだいじん

内大臣」というのは、1885年(明治18年)に設置されて、1945年(昭和20年)に廃止さ れた、天皇を補佐する役職のことです。「大臣」という称号を持つ役職ですが、内閣の閣僚では ありません。

大日本帝国憲法の時代に天皇を補佐した役職としては、「げんろう元老」と呼ばれるものもありました。

後継首班奏薦(総理大臣の後継者を天皇に推薦すること)の責任者は元老でした。しかし、1937 年(昭和12年)に、その責任者は元老から内大臣に変更されました。

Q 4.2.5 十五年戦争の時代に内大臣だった人々のうちで、「平和に対する罪」に問われるべき

戦争責任が特に重いのは誰ですか。

5[由井,2000], p. 160。

52 第4章 戦争責任 十五年戦争の時代に内大臣を務めた人々のうちで、「平和に対する罪」に問われるべき戦争責 任が特に重いのは、木戸幸一です。

十五年戦争の時代に内大臣を務めたのは、牧野のぶあき伸顕、斎藤まこと実 、いち一木とくろう徳郎、湯浅くらへい倉平、木戸 幸一の5名ですが、牧野、斎藤、一木は、まだ後継首班奏薦の責任者が元老だった時期の内大臣 です。また、一木喜徳郎が内大臣を務めたのは、二・二六事件(1936年(昭和11年)2月26日 に起きた陸軍の青年将校たちによるクーデター事件)で斎藤が殺害された直後の1日のみです。

後継首班奏薦の責任者が元老から内大臣に変更されたのは、湯浅が内大臣だった時期のことで すが、湯浅は、日独伊三国同盟の締結に批判的だった

ないみつまさ

内光政の総理大臣就任を主導するなど、

戦争の拡大を回避するために尽力しました。それに対して、木戸は、アメリカに対する開戦を主 張していた

とう

じょう

ひで

機の総理大臣就任を主導したという点で、「平和に対する罪」に問われるべき 戦争責任は重いと言わざるを得ません。

Q 4.2.6 十五年戦争の時代に軍の幹部だった人々のうちで、「平和に対する罪」に問われるべ

き戦争責任が特に重いのは誰ですか。

十五年戦争の時代に軍の幹部だった人々(総理大臣経験者は除く)のうちで、「平和に対する 罪」に問われるべき戦争責任が特に重いのは、次のような人々です。

石原かん莞爾 関東軍作戦主任参謀として満州事変を計画。

板垣せい征四ろう郎 関東軍高級参謀として満州事変を計画、満州国の建国を推進。

土肥はらけん原賢二 特務機関長として満州事変を実行。華北分離工作(中国の華北地方を日本の支配下 に置くための工作)を推進。

橋本

きん

ろう

郎 桜会(国家改造を目指す陸軍将校の結社)の発起人。三月事件、十月事件(1931 年(昭和6年)10月に発覚した桜会幹部と右翼勢力によるクーデター未遂事件)

に関与。

梅津

よし

ろう

郎 陸軍次官、支那駐屯軍司令官、関東軍総司令官、参謀総長を歴任。1945年(昭和 20年)3月に硫黄い お うとう島が陥落したのちも戦争の継続を主張。ポツダム宣言の受諾を めぐる会議で本土決戦を支持。

荒木

さだ

夫 教育総監部本部長、陸軍大臣、軍事参議官文部大臣を歴任。文部大臣として戦時教 育統制を推進。

永野おさ修身 海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長、天皇最高海軍顧問を歴任。軍令部総長 として真珠湾の奇襲攻撃を発令。

大島ひろし浩 駐ドイツ大使として日独伊三国同盟の締結に尽力。

Q 4.2.7 十五年戦争の時代に外交官だった人々のうちで、「平和に対する罪」に問われるべき

戦争責任が特に重いのは誰ですか。

十五年戦争の時代に外交官だった人々(総理大臣経験者、軍の幹部は除く)のうちで、「平和 に対する罪」に問われるべき戦争責任が特に重いのは、次のような人々です。

松岡ようすけ洋右 1933年(昭和8年)2月の国際連盟総会に首席全権として出席し、満州国を批判す る決議に抗議して退場。外務大臣として日独伊三国同盟を締結。

しらとりとし

白鳥敏夫 外務省情報部長として国際連盟からの脱退を推進。駐イタリア大使として日独伊三 国同盟の締結に尽力。

Q 4.2.8 十五年戦争の時代に戦争を鼓舞した民間の活動家たちのうちで、「平和に対する罪」に

問われるべき戦争責任が特に重いのは誰ですか。

十五年戦争の時代に戦争を鼓舞した民間の活動家たちのうちで、「平和に対する罪」に問われ るべき戦争責任が特に重いのは、次のような人々です。

ささかわ

笹川

りょう

いち

一 国粋大衆党の総裁として戦争を鼓舞。

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