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第 5 章 英霊 60

5.5 戦犯の合祀

Q 5.5.1 靖国神社には、東京裁判やBC級戦争犯罪裁判で死刑になった人も合祀されてるんで

すか。

はい。靖国神社には、東京裁判(第4.4節参照)やBC級戦争犯罪裁判(第4.5節参照)で死 刑になったり獄死したりした人も合祀されています。

Q 5.5.2 BC級戦争犯罪裁判で死刑になった人が靖国神社に合祀されたのって、いつのことで

すか。

BC級戦争犯罪裁判での刑死者と獄死者が靖国神社に合祀されたのは、1959年(昭和34年)

から1973年(昭和48年)にかけてのことです。

BC級戦犯が最初に靖国神社に合祀されたのは1959年(昭和34年)4月6日のことで、この ときの合祀者は353名でした。2回目は同じ年の10月17日で、472名が合祀されました。この 年に合祀された戦犯は主として外地で刑死した人々で、内地での刑死者の合祀が本格化したのは 1961年(昭和39年)以降のことです24

Q 5.5.3 東京裁判で死刑になった人が靖国神社に合祀されたのって、いつのことですか。

18[田中,2007], p. 187。

19[村上,1970], p. 193、[辻子,2003], pp. 147–148。

20[辻子,2003], pp. 149–150。

21[歴教協,2002], p. 22、[辻子,2007], p. 140。

22[辻子,2003], p. 245。

23[田中,2007], pp. 205–208。

24[秦,2010], pp. 162–164。

5.5. 戦犯の合祀 67

氏名 身分 死亡年月日

梅津よし美治ろう郎 陸軍大将 1949年(昭和24年) 1月10日

しらとりとし

白鳥敏

夫 大使 1949年(昭和24年) 6月 3日

とうごうしげのり

東郷茂徳 大臣 1950年(昭和25年) 7月23日

いそくにあき磯国昭 総理大臣 1950年(昭和25年)11月 3日 平沼騏いちろう一郎 総理大臣 1952年(昭和27年) 8月22日 表 5.2: 1978年(昭和53年)10月17日に合祀された東京裁判での獄死者

東京裁判での刑死者と獄死者が靖国神社に合祀されたのは、1978年(昭和53年)10月17日 のことです。

このときに靖国神社に合祀されたA級戦犯は、次の14名です。

裁判中に病没した2名(松岡ようすけ洋右、永野おさ修身)

絞首刑の判決を受けた7名(Q 4.4.8参照)

判決後に獄死した5名(表5.2参照)25

Q 5.5.4 A級戦犯は、BC級戦犯の合祀よりもかなり遅れて合祀されてますが、それはなぜで

すか。

BC級戦犯の合祀の時期に比べてA級戦犯の合祀が遅くなった理由は、その当時の靖国神社の 宮司がA級戦犯の合祀に消極的だったからです。

A級戦犯の祭神名票(Q 5.1.8参照)が厚生省援護局から靖国神社に送付されたのは、1966年

(昭和41年)2月8日のことです。彼らが合祀されたのが1978年(昭和53年)10月17日です から、彼らの合祀は、12年間にわたって保留にされていたことになります。

A級戦犯の合祀に消極的だった靖国神社の宮司というのは、

つく

ふじまろ

藤麿という人です。彼は常々、

「BC級戦犯は一般兵士と同じ犠牲者だから祀るが、A級戦犯は戦争責任者なので後回しだ。自 分が生きているうちは合祀はないだろう26」と家族や側近の職員に語っていました。また、A級 戦犯の合祀についての昭和天皇(ひろひと裕仁)の意向(Q 5.5.5参照)を尊重するという配慮も、彼が 合祀に消極的だった理由の一つであると思われます。

Q 2.2.5で説明したように、靖国神社には、1853年(嘉永6年)以降に戦争で亡くなった人々

のうちで本社に祀られていない人々を祀る、ちんれいしゃ鎮霊社という末社があります。この末社が1965年

(昭和40年)に創建されたのは、そのときに宮司を務めていた筑波の強い意向によるものです27。 筑波は、宮司在任中の1978年(昭和53年)3月20日に死去します。同じ年の7月1日に後 任の宮司に就任したのは、松平

ながよし永芳という人でした。A級戦犯が靖国神社に合祀されたのは、こ の年の10月17日のことです。

松平は、A級戦犯を合祀した理由について、退職後の講演の中で次のように語っています。

ですから、日本とアメリカその他が完全に戦闘状態をやめたのは、国際法上、二十七年の四 月二十八日だといっていい。その戦闘状態にあるとき行った東京裁判は軍事裁判であり、そ こで処刑された人々は、戦闘状態のさ中に敵に殺された。つまり、戦場で亡くなった方と、

処刑された方は同じなんだと、そういう考えです28 Q 5.5.5 富田メモって何ですか。

「富田メモ」というのは、1978年(昭和53年)5月から1988年(昭和63年)6月まで宮内 庁長官を務めた富田

とも

ひこ

彦が残したメモのことです。

25[国会図書館,2007], p. 302。

26[伊藤智永,2009], p. 350。

27[秦,2010], pp. 173–174, pp. 247–251。

28[保坂正康,2013], pp 191–192。

68 第5章 英霊 富田メモには、1988年(昭和63年)4月28日に昭和天皇(

ひろひと

裕仁)が語った、次のような発言 が記録されています。

私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、

筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と

松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから 私あれ以来参拝していない、それが私の心だ29

この発言には、5名の人物に対する言及が含まれています。それは次の5名です。

松岡 A級戦犯の松岡ようすけ洋右。東京裁判の期間中に病没。Q 4.2.7参照。

白取 A級戦犯の

しらとりとし

白鳥敏

夫。東京裁判の判決後に獄死。Q 4.2.7 参照。

筑波 A級戦犯の合祀に消極的だった靖国神社宮司の

つく

ふじまろ藤麿。Q 5.5.4参照。

松平の子 A級戦犯の合祀に踏み切った靖国神社宮司の松平

ながよし永芳。Q 5.5.4参照。

松平 松平永芳の父親の松平

よしたみ慶民。1946年(昭和21年)1月から2年半、宮内大臣と宮内 庁長官を歴任。

Q 3.5.5で説明したように、昭和天皇は、日本国憲法が施行されたのちも、7回にわたって靖

国神社に親拝しています。しかし、1975年(昭和50年)11月21日の親拝を最後に、それ以降 は亡くなるまで親拝していません。その理由は、Q 3.5.6で説明したように、A級戦犯が靖国神 社に合祀されたからです。富田メモは、この理由を裏付ける資料として貴重なものです。

Q 5.5.6 諫死論って何ですか。

かん諫死」というのは、死を覚悟して誰かを いさ諫めることで、「かん諫死論」というのは、 「君主が間違っ ている場合には臣下は命を張ってそれを正さねばならない30」という思想のことです。

幕末の思想家である吉田しょういん陰は、『こうもう講孟余話』という著作の中で、諫死について次のように述 べています。

しかし、君主を廃立するのと君主のもとを去るのとは、ともに臨機の便法である。だから根 本的な道理からするならば、あくまで君主を

いさ

諫めて

容れられなければ

かん

死するのが本筋であ る。しかし君主を廃立し、また君主のもとを去り、あるいは君主のために諫死するという三 つの行動様式に示されるような三様の忠誠の臣がいるならば、国家も頼もしいかぎりだ。31 十五年戦争の時代に諫死論を主張した中心人物は、

ひら

いずみきよし

泉 潔 という人です。彼は、東京帝国大 学(現在の東京大学)の日本史の教授で、皇国史観(Q 1.5.10参照)に基づいて日本史を論じま した。

靖国神社にA級戦犯を合祀した松平ながよし永芳の父親は、宮内大臣を務めた松平よしたみ慶民で、慶民の父 親は、福井藩の藩主だった松平しゅんがく嶽(よしなが慶永)です。

平泉潔は、福井藩の家臣の家系に生まれています。松平永芳は、1930年(昭和5年)の1年 間、高校受験のために浪人しており、そのとき平泉のもとに寄宿しました32。彼はそのときから 終生、平泉を師として仰ぐようになります33

松平永芳がA級戦犯を合祀した背景には、東京裁判を肯定するという昭和天皇の間違った見 解を正さなければならない、という諫死論に基づく考えがあったと思われます。

Q 5.5.7 昭和殉難者って何ですか。

「昭和殉難者」という言葉は、東京裁判またはBC級戦争犯罪裁判で刑死または獄死した者、

およびアジア太平洋戦争における自身の行為の責任を負って自決した者を意味する、靖国神社に

29[秦,2010], p. 204。

30[小島,2014], p. 86。

31[吉田,2002], pp. 81–82。

32[伊藤智永,2009], p. 365。

33[秦,2010], pp. 177–178。

5.6. 英霊の分祀 69

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