―この世理解 とキ リス ト論 をめ ぐる議論 を意識 しつつ 一
第1節
『服従 』におけるキリス トとこの世概念
第2節
『服従』におけるキ リス トとこの世概念の関係理解 第3節
『服従 』の徹底的なキ リス ト (論的
)集
中とこの世の問題 第4節『服従 』におけるキリス ト (論的
)集
中と職務の理解ボ ンヘ ッファー研究草創期か ら論議が積み重ね られてきた『llR従』(1937)の この世理解の間 題237について、我々は一定の到達点に既に立っている。すなわち、E.ファイルによって総括され た通 り、『服従』に展開されるこの世理解は全体的に主としてネガティヴであり、ネガティヴな理 解であるか らこそ当時の現実 (この世
)に
対する志向性、政治性 を含んでいた。ネガティヴな こ の世理解 を『服従』において主として一面的に強調 したボンヘッファーは、現実のこの世に対 し て決 してネガティヴではなかった。 しか し、あのような 「ネガティヴなこの世理解」 という『服 従』の この世概念への解釈の下に、『服従』のこの世理解の積極的意味合い、政治性を明らかにし てきた研究において、果た して『服従』に展開されるこの世概念そのものが神学思想的な意味で 十分 に明 らかにされ得ているかどうか、 これについては疑間の余地が残ると言わねばな らない。なるほど政治学的な視座か ら『服従』のこの世理解に取 り組んだ山崎和明の研究 も、この意味で は決 して十分ではない。確かにボンヘッファーの政治性 (評価
)の
問題は課題であった238。 また237『 服従』の世をめく゛
る理解は、印晨従』出版当初か ら近年に至るまで議論の対象であったと言える。 印晨従』の 講義を受講 した学生ないし『服従』を読んだ信徒はその内容に深 く魅了されたといい、明艮従』を出版 したクリス チャン 0カ イザー社の当時の編集長オッ トー・ザ ロモンも『服従』初見の際、「ノウレトの『ローマ書』以来まれに 見る文書だと感 じて興奮を禁 じえなかった」と述べるが、しか し同時にその当初か ら「個人主義的敬虔への傾斜」、
「律法と福音の混同」との批判も少なくなかった。戦後のH.ミュラーの研究以降は『服従』はいよいよ議論の対 象となる。ミュラーは『服従』について、現実の世に対する参与を問わない 「教会倫理」の展開に過ぎないと断 じ た。その理解 を現実 (世)からの逃避、「誤った道」であると否定的に評価 したのである。そ して、このミュラー による『服従』の評価を批判的土台とし、『服従』の持つ当時の現実の世への応答性、ないしはその政治性を弁証 する研究が続けて提出されていくことになる。E.ベー トゲ/R.ベー トゲ『現代キ リス ト教の源泉1 デ ィー トリヒ・
ボンヘッファー』(宮田光雄・山崎和明訳)新教出版社、1992年、98頁。森平太 「解説」『キ リス トに従 う』、新 教出版社、1966年、369頁。H.MilleL Von der Kirche z■lr Weltt Ein Beitrag zu der Beziehlmg des Wortes Gottes auf die societas in Dietrich Bonhoeffers theologlscher Entucklung.Hallrlburg:Herbert Reich Evg.Verlag, 1961.S.20,38,197. H.WilllneL Costly discipleship,Johnミ 、de Gruchy ed.,TЪЮ Cambridge Companion to Dietrich BOnhoereL cambridge:Camb五 dge Universty Press,1999.p■ 73.
238当 時、ミュラーのように 明艮従』に触れた者が 昭艮従』に対 して批判的な問いを懐いたことは想像に難くない。
ボンヘ ッファー神学の受容を広 くひ らいたのはこの世に対する積極的な理解 と関わ りを示す後期ボンヘッファー であった。例えば後期 に属する『倫理』においては 「この世に対する責任」が積極的に語 られ (DBW6,S。359.)、
諸々の主題か ら取 り組まれている。これを見て中期ボンヘ ッファーの 明晨従』のこの世をめく゛
る理解を見るな らば、
それは一見あまりに矮小に映る。この世は神 と 財目反するもの」であり、「教会 とこの世の間の分離は遂行 された」
というように、この世はしばしば対立的・分離的に理解 されているか らである (DBW4,S.169,184.邦訳 『服従』
1966年 189、 209頁)。 ましてや戦後 ドイツのキ リス ト教会においてこの世に対する教会の関わ りはいよいよ緊急 に問われていたのであるか ら(H。ツァールン ト著・新教セミナー訳『20世紀のプロテスタン ト神学』(上)新教出 版社、1975年、272‐323頁)。
「『服従』と『倫理』の間」の問題においても、『月風従』思想とその時代史的コンテクス トとの対 照の必要は求め られていた し、それ らの研究が明 らかにした『服従』の意味は決 して小さいもの ではなかった。 しか し、それは『服従』のこの世概念の神学思想的な次元か らの研究の意味を過 小に見倣す理由とはな り得ない。序章で述べたように、これまでのボンヘッファー研究者たちに よる、『服従』のこの世が先鋭にナチの世を意味しているとの重要な指摘は理解されるし、本稿も これ を受け止めつつここまでの研究を展開してきた。しかし、『服従』のこの世理解がナチの現実 に向き合いつつ、それに対 して思惟を差 し向けていることの意味は、彼が『服従』でこの世をめ く゛
る思惟、理解 について、 どのように神学的に表現 しているかを問わずには十分に把握できない はずである。 これ こそ言 うまでもないことだが、ボンヘッファーはキ リス ト者としての実存 を特 徴的に開示 した中期においても、また同時代人としての生を豊かに示 した後期においてもやは り 神学者であった。 もちろん、そのような時代史的 0政 治的な焦点を持つ理解であることが明 らか にされることによ り、時代における応答的・状況的な、積極的意味が明 らかにされてきたのだと して も、「ネガティヴな この世」 との総括 と、その 「政治性」の分析に留まっては、『服従』のこ の世理解はなお十分には汲みつくし得ず、その概念の広が りは見出され得ない。本稿はボンヘッ ファーのこの世理解のさらなる追究を意図し、またそれによって本稿の第一の課題である「『服従』
と『倫理』の間」の解明をよ り確かに果たすために、本章の研究を以下のように進める。
まず (1)『 服従』を中心に、そ こに展開されるこの世概念の意味を明 らかにし、その上で (2) これ までの研究史において も研究の一つの焦点となってきた この世理解にかかる関係の観点か ら その詳細を整理 し究明する。 これ らの探求によってボンヘッファーのこの世理解が単に 「ネガテ ィヴ」 との総称では留まらない、豊かな神学思想的次元を有することが明 らかにされ、また 「ネ ガティヴ」な側面を超えて、 この世の中での、また この世のための次元をも確かな予兆 として保 持 していることが見出され る。そ してそれ らの理解がキ リス ト集中的に展開されることも重要で ある。その点を特に留意 しつつ、
(3)キ
リス ト論的集中の中でボンヘッファーが どのような眼差 しをこの世をめ く゛り結んでいくか、Fll段従』第 Ⅱ部におけるボンヘッファーの職務論を明 らかにす ることを通 して見出していきたい。
ボ ンヘ ッファー神学を一貫する統一的要素がキ リス ト論 (理解
)に
あることは既 に前章の研究 で明 らかにされている239。 しか し、この見解を受け止めつつ、なお批判的に問うな らば、いった いボ ンヘッファー神学の一つの根底であるキ リス ト論は、我々がここまで問うてきているこの世 理解 についてどのような内実 0帰結をもた らすのか。本章 と、そ して次章の研究は、ボンヘッファーのキ リス ト論的集中に特 に意識を傾けつつ、それ とのこの世理解 をめく゛
る関係を辿ることに よ り、ボンヘッファー神学の新たな断面を探ろうとする試みなのである。
239 John Do Godsey The Theo10gy ofE)iet五ch BOnhoeffeL Philadelphia:The Westnlinster Press,1960。 p.264.
「ボンヘッファー神学における統一的要素は彼のキリス ト論であり、また彼の神学的発展を推進 したのはまさしく キ リス ト論である」とある。またE.ファイル も同様の見解を示 している。この見解のより詳細な、「キ リス トとこ の世」の理解 に焦点をあてることを通 した神学思想的、宣教論的視座か らの解明が、この3章と次の4章において なされていくのである。
第1節
『服従』におけるキ リス トとこの世概念
ここに至るまでの本論文の研究は、思想 レベルの問題では、特に第 1章 において、『服従』にお けるこの世についてネガティヴな この世理解 との総括を得た。『服従』におけるこの世は、その思 想的内容か ら言えば何よ り「罪悪の世」であり、教会ないしキ リス ト者 との関係か ら言えば対立、
何よ り分離に理解の強調が置かれていると解されたか らである。 しか し、次のような この世をめ ぐるボンヘッファーの言葉を見出す時、ただ『服従』のこの世を 「ネガティヴ」 と総括 し、ある いは『倫理』期のこの世をめぐってその弁証的、ないし「ポジティヴな」内容だ と総称する時、
果た してやは りそのような分析の語法のひとつの限界を覚えずにはおれない。
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キ リス トの側 に立つところか ら生ずる 「この世に対する距離」は、キ リス ト教的偉人の特徴の 一つであ り、例えばこの世の放蕩の歩みを尽くしてか らの回心は、この世か ら離れて新 しく清く 非世俗的に生きることを意味 したのであった。ボ ンヘッファーの、この世との離隔ではなく、キ リス ト者 として同時代人として 「いよいよこの世のただ中へ」 と特徴づけられる歩みは刺激に富 み、その是非を別 としても彼に学ぼうとする者の眼差 しを奪った。そ こでただ素朴に『服従』を 読むな らば、その思想的表現の消極性、否定性に驚かずにはおれないし、戦後 ドイツ神学の一つ の課題であった教会と政治性、この世への積極性の問題は、非常に良質のボンヘッファー研究の 中においてさえ、ボンヘッファーヘの見方につき、影響を与えずにはいられなかったであろう。
この世へのボンヘッファーの姿勢と思惟を、それが 「ポジティヴかネガティヴか」 ということで あま りに安易に見立て、その評価 を定める向きさえなかったとは言えない。もちろんその研究に よって得 られた成果は既に見出されたように豊かであった としても、そのような ところで、確か に上記のように、その内容 としては実際神学思想的なものであるにも関わ らず、 この世概念の神 学思想的な面か らの解明は どこか後方に位置付け られてきた側面もあるように思われる。『月段従』
を主たるテキス トとし、そ こに散見されるこの世をめく゛
る神学的理解をここに再構成 しなければ な らない。また、『服従』に関 しては、これまで、山上の説教への神学的釈義が置かれ、あの 「高
240 DBW4,S.244.
241 DBW4,S.255。
242 DBW4,S.273。
『月風布こ』1966年、 282アコ。
『服従 』1966年、 295頁。
『服従 』1966年、 314頁。 訳
訳 訳
非 非 非