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日韓国交正常化交渉をめぐるメディア言説の変遷

1.問題の所在

本章では、戦後日韓関係の歴史認識問題をめぐる対立や紛争の中でも、「日本国と大韓民 国との間の基本関係に関する条約(以下、日韓基本条約)」の調印に至るまでの日韓国交正常 化交渉の報道を分析する。それを通じて、外交問題を当時のメディアがいかなる社会的な背 景から報道したのか、そして日本社会において日韓国交正常化交渉がどのように受容され ていたのかを考察することが目的である。

日韓基本条約は、戦後の日韓関係の方向性を決めた条約であるという点で、現在の歴史認 識問題の根底をなしている。そこでは、今日の争点を構成する様々な要素がすでに語られて いた。すなわち当時の日韓国交正常化交渉では、在日朝鮮人の地位や竹島/独島の領有権な どが議論されていたのである49。また、植民地支配の清算など、日本の歴史認識が問われて いた交渉でもあった。歴史認識問題は現在の日韓関係において頻繁に取り上げられており、

解決しているとは言いがたい問題である。今日の日韓関係を意味付ける起点となる日韓国 交正常化交渉の過程で、何が語られ、または語られなかったのか、そして社会の価値観とど のように結び付いた議論を行っていたのか、または行っていなかったのかを明らかにする ことは重要である。

日韓国交正常化交渉において、日本政府の植民地支配に関する見解はどのようなものだ ったのか。14年の歳月を要した日韓会談での日本政府の見解は、一貫したものではない。

日本側の首席代表である久保田貫一郎による韓国の植民地化を正当化する発言(1953 年)な ど様々な「問題発言」が日韓会談の日本側の首席代表からなされた。この「問題発言」は日 韓国交正常化交渉が中止される要因になったが、日本政府は植民地化への見解に関しては 沈黙を守った。そして、この発言を久保田代表個人の考えであるとし、日本政府の見解では ないとして否定した。しかし、国会の議論においては、久保田発言のような見解は「常識」

と認識されていたのである。最終的に、椎名悦三郎外相が日本政府を代表し、金浦空港で過 去の植民地化を謝罪する(1965 年)。この謝罪は韓国側の反日感情を緩和し、日韓基本条約 調印への雰囲気を形成したとされている。

49 現在では、「在日韓国・朝鮮人」という言葉が用いられるが、この表現が用いられるようになった のは70年代以降だといわれている(細井 2010: 82-83)。それまでは、「在日朝鮮人」が韓国系、北朝 鮮系の双方を包括する形で用いられていたと考えられる。日韓国交正常化交渉が行われていた時代 には「在日韓国人」「在日朝鮮人」と明確に区別されていなかったと考えられるため、本章では「在 日朝鮮人」という表現を用いる。

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韓国の植民地化を正当化した久保田代表の発言と、過去の植民地化への謝罪を示してい る椎名外相の発言は、一見すると矛盾するものであるが、なぜこの矛盾が日本の人々によっ て違和感なく受容されたのだろうか。本章の分析からは、当時の日本社会が自らの歴史的文 脈と結び付けることなく、韓国の他者イメージに依拠しながら国交正常化交渉を意味付け ており、それが椎名外相の発言を正当化する要因となっていたことが明らかになる。

以下では上述の観点から、日韓国交正常化交渉の過程で見られたフレームを明らかにし、

そのフレームの受容の基盤となる日本社会で共有された対韓意識や国際環境に関するイメ ージ、そしてそこで展開される理念や価値観がいかなるものであったのかを分析する。

2.日韓国交正常化についての先行研究

終戦から 20年、正式交渉開始の1951年から数えて 14年の歳月を要した事実があらわ すように、正常化をめぐる日韓間の交渉は困難に満ちた過程であった。正常化交渉には過去 の清算、経済協力、反共同盟関係の強化など、多様な側面があったことがその要因の一つで ある。本章は、日韓国交正常化交渉で生じた「過去の清算」という問題の根本的な解決を見 ないまま、いかにして日韓国交正常化が日本社会で受容されていったのかという点を新聞 報道に基づいて解明することが目的である。

日韓国交正常化に関する先行研究の多くは政策過程の観点から分析されている。その代 表的なものとして、日韓国交正常化交渉に対する関西財界の動きを分析した研究(木村 1989)や、日韓国交正常化交渉における米国の役割を明らかにしている研究(李 1994a;

1994b)、韓国の経済体制確立に向けての戦略の変容と日韓国交正常化交渉の関係を考察し た研究(木宮 1994; 1995; 2001)、安全保障政策として日韓国交正常化を捉えなおしている 研究(金 2001; 2008)が挙げられる。これらの研究に見るように、日韓国交正常化に関する 主要な先行研究は、交渉の過程を政財界のアクターや、日米韓三国の相互関係の観点から捉 えなおすものであり、日本社会で見られた対韓意識や国交正常化への意味付けを分析枠組 みに含めるものと言えない。

日韓国交正常化交渉で見られた政財界の対韓意識を提示した代表的な研究としては、高 崎の研究が挙げられる。高崎は一連の研究で、交渉過程において韓国側の対日請求権の討議 が中断されたことの問題点や日本政府が韓国政府に供与したのは請求権資金ではなく経済 協力資金であること、そして、日本の政財界の植民地支配に対する責任意識の欠如を明らか にした。その上で、日韓間の諸問題が日韓基本条約によって清算されていないことを指摘し

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た(高崎 1996)。また、『「妄言」の原形』において、日韓国交正常化交渉に関与した政治家 を取り上げ、彼らの植民地支配に対する責任意識の欠如を指摘した(高崎 2002)。この研究 は日韓国交正常化交渉が日本社会でどのように受容されていたのかということを考察する 際に手掛かりとなるものである。そこではメディア言説や反対運動も取り上げ、それらの植 民地支配に対する責任意識の欠如を指摘しているが、どのようにそれらが日韓国交正常化 を捉えていたのかは示されてはいない。ただし、高崎の研究が提示した政財界の対韓意識が、

社会で広く共有されていた対韓意識と関連していることは明らかである。日韓国交正常化 が社会にどのように受容されていったのかを検証することが本章の目的だが、それは政財 界の対韓意識と社会で広く共有されている対韓意識との関係性がいかなるものであるのか を明らかにすることにもつながる。

最後に、日本国内の反対運動組織に焦点を当てて分析した研究が挙げられる。この観点か らの研究はそれほど多くないが、代表的な研究として畑田の研究が挙げられる。この研究は、

反対運動が「旧支配国家国民としての日本人民の思想生活の上で、深刻な反省の契機となっ

た」(畑田1965: 197)としながらも、「最高潮の時期でもそれほどの大衆を動員するに至らな

かった」(同: 199)ことを明らかにしている。その要因の一つとして、一般の人々の朝鮮への

軽視を挙げているが、実際に一般の人々が日韓国交正常化交渉そのものをどう捉えていた のかに関しては十分に言及されていない。

このように、日韓国交正常化に関する研究は数多く存在するが、これらの研究の多くは日 本の政財界、反対運動組織、韓国、米国に焦点を当てて、それらの認識や役割を考察するも のである。そこでは、日本政府が日韓国交正常化交渉をメディアや世論に対してどのように 正当化したのか、そしてメディアと世論はそうした正当化をどのように受け止めたのかと いった点が十分に検討されているとは言いがたい。

本章では、日韓国交正常化交渉の正当化やそれに対する日本社会での受容を明らかにす る。その中で、メディア・フレームがどのような機能を果たしたのかを考察する。また、現 在の日韓関係において頻繁に歴史認識問題が争点として浮上し、過去の歴史をどのように 捉えるのかということが論争になっている。このことから、日韓国交正常化交渉をめぐる議 論の受容過程を考察することは、現在の日本社会で広く共有されている歴史認識を捉える 上でも重要だと考える。

62 3.分析枠組み

本章では、日韓国交正常化交渉をめぐって日本社会でいかなる言説が編制されていたの かを分析する。分析に当たっては、日韓国交正常化交渉をめぐる新聞報道を取り上げ、メデ ィア・フレームを析出する。

第一部で論じたように、メディア・フレームとは、出来事を組織化するアイデアである。

メディアはそのアイデアに沿って、多様な側面を有する出来事のいくつかの側面を選択し、

それを通じて出来事に意味付けを行う。メディア・フレームはその選択の過程において適用 されるのである。通常、特定の争点をめぐるメディア・フレームは複数存在し、それらのフ レームが競合している。フレームの優位性は可変的であり、出来事が展開していくにつれて、

あるメディア・フレームが支配的となり、それにより他のメディア・フレームが潜在化する こともある。また、そうして潜在化したメディア・フレームがその後に再度競合し、支配的 となることもある。こうした特徴はメディア・フレームをめぐる意味付けの政治において社 会の諸価値の序列や関係性が反映されていることから生じるものである(Gamson and Modigliani 1989: 3-4)。

また、メディア・フレームの構築・変容は争点連関、すなわち争点をめぐる意味関係のネ ットワークという観点から捉えることができる。「歴史認識問題」として争点化されなかっ た本事例では、国交正常化交渉の過程で生じた対立や紛争は、歴史認識問題をめぐる価値や イデオロギーと結び付いた意味体系として確立されず、他の争点さらには他の争点文化と の関係の下で意味付けられ、語られることとなった。このように、争点連関の概念を用いる ことによって、外交問題が国内の様々な問題と連関し、意味付けられ、受容される過程を分 析することができる。

これらの分析枠組みを日韓国交正常化交渉に引き付けると、以下のように言うことがで きる。まず、日韓国交正常化交渉をめぐる主要なマス・メディア報道からは以下の二つのフ レームを析出できる(表 1)。第一は、「正当化」フレームである。日本は植民地であった韓国 で鉄道を敷き、農業政策を取り入れ、韓国の経済発展に寄与したというアイデアが存在する。

そこでは、例えば「久保田発言」などは、当然の見解として捉えられ、韓国の強固な姿勢を 批判するような言説が編制される。「正当化」フレームにおいて選択される言葉は、韓国ま たは李承晩大統領を「反日」、また韓国の反応を「理不尽」「感情的」といった言葉で表現し ていた。また、韓国は「非民主主義」の「独裁」の国であり、そのため「非人道的」な政策 が決定されるという点が選択された。