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冷戦後の日本社会における歴史認識とメディア・フレームの変容:慰

1.問題の所在

前章では70年代の「経済大国」としての意識の高まりとともに、東アジア諸国と自らを

「被害/加害」と関係付け「過去を反省する」という視点が形成されたことを明らかにした。

そこでは、日本社会で「経済大国」という意識が高まる中で1982年に「反省」フレームが 日韓間の歴史認識問題を報道する際に適用され、連関し、争点文化として構築されたことを 示した。本章では冷戦が終結し、日本経済が停滞するという国際・国内環境の大きな変化を 迎える中で、歴史認識問題の意味付けにいかなる変化が生じたのかを、慰安婦問題の分析を 通じて明らかにする。

慰安婦問題とは、元慰安婦の「旧日本軍の慰安施設で性的行為を強制させられた」という 訴えをきっかけに議論が起こった問題である98。そこでは、「官軍による強制連行」で集め られたのか、「民間業者」によって集められたのかという点や、その慰安所の運営に旧日本 軍が関与していたのか否かという点が幅広く議論されている。これまで日本は1993年の河 野洋平官房長官談話(以下、河野談話)や戦後 50年記念事業として設立された「女性のため のアジア平和国民基金」(以下、アジア女性基金)を通じて元慰安婦に対する謝罪や補償金を 渡すなどの取り組みを行ってきた。しかし、こうした取り組みは韓国社会のみならず、日本 社会においても十分に認知されてきたとは言いがたい状況であった。そのため、日韓間で慰 安婦問題が争点化するたびに日本政府は自らが行ってきた取り組みを強調してきたが、こ のような説明が必ずしも受け入れられてきたわけではなかった。しかし、2015年12月、慰 安婦問題をめぐって日韓間で合意が形成され、問題の沈静化、解決に向けて一歩前進するこ ととなった。その合意では、韓国政府が設立する財団に日本政府が10億円を拠出し、そう した財団を通じて元慰安婦へ支援を行うことが決定した。この合意に対して、韓国側では 様々な見解が見られるものの、日本においては大きな批判は見られなかった。

注目すべき点は、安倍政権が日韓合意を行ったというところにある。保守派で知られる安 倍晋三首相は、慰安婦の募集や慰安所の運営において「強制性」を認めた河野談話に対して 批判的な主張を繰り返してきた。2007年には慰安婦の強制連行に関する発言をしたことを

98 「慰安婦」という言葉は、旧日本軍によって戦時中に性奴隷となった女性に対する侮辱であり、

不正確であるという批判も存在する。本論では、そうした批判があると認識しつつも、日本におい てこの問題が「慰安婦」問題として議論されていることから、「慰安婦」という言葉を用いる。

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契機に、日本のみならず米国から批判され、最終的に河野談話の継承を表明するにいたった。

このように、安倍首相は河野談話に対して批判を繰り返し、河野談話を中心とした慰安婦問 題の「語り」に対して否定的であった。しかし、第二次安倍政権においては慰安婦問題をめ ぐって合意を形成したのである。

こうした合意に至るまでにも、第二次安倍政権においては慰安婦問題をめぐって様々な 論争が生じていた。2013年には橋下徹大阪市長による慰安婦に関する発言や、2014年1月 の NHK 籾井勝人会長が就任記者会見の場で示した慰安婦に関する見解はメディアにおい て大きく報道された。また、2014年2月には、河野談話が作成された過程を再検討するこ とが決定し、同年6月には報告書が提出された。2014年8月には慰安婦問題の報道を積極 的に行ってきた『朝日』がこれまでの慰安婦問題報道で一部誤報があったことを明らかにす るなど、慰安婦問題は日本社会において広く議論されることとなったのである。

1990年代を通じて、そして、第一次・第二安倍政権下において、慰安婦問題は大きな争 点であった。これらの期間において、慰安婦問題をめぐるメディア言説はどのように変容し たのであろうか。

本章では、歴史認識問題に関する日本における価値観の分布の変容を、慰安婦問題を通じ て明らかにする。1990年代に争点化した慰安婦問題の事例を通じて、相互作用モデルの以 下の点を検証する。過去に争点化した議論に反映されていた価値観や信念はマス・メディア の報道を通じて社会で共有され、争点文化を構築する。そして、その争点文化を構築する意 味関係のネットワークが拡張し、他の争点と結び付くことで新たな言説は編制されるとい う点である。これは、メディア・テクスト上の慰安婦問題の意味付けの変化を明らかにする ことによって検証できる。そこでは、マス・メディア上で見られる慰安婦問題をめぐる新し い論理の生成を示す。慰安婦問題をめぐるマス・メディアにおける言説の編制を明らかにす ることを通じて、こうした変化を促す社会的な意識や価値観の変容を考察する。

2.分析枠組み:言説とメディア・フレーム

(1)メディア・フレームの分析

第一部で示したように、社会においては、特定の争点や出来事に関して意味付けをめぐる 闘争が繰り広げられる。多様なアイデアや言葉、イメージが用いられ、それらのまとまりが 争点や出来事の意味を構築する過程で用いられている。そうしたアイデア、言葉、イメージ によって形成され、争点や出来事に特定の意味を与えるものを「言説」という(Gamson

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1988a: 221; Howarth 2000: 7-8)。通常、言説にはアイデアや象徴、言葉、イメージといっ た要素を纏め上げ、言説として組織化する核となるもの、すなわちフレームが存在する (Gamson and Modigliani 1989: 3)。メディア言説の分析には、特定の出来事や争点に対し て、メディア言説の核となるフレームを析出することが求められる。

メディア言説のフレームは、争点や出来事の語り方をパターン化する。争点や出来事の構 成要素のどこに焦点を当てるのかが、フレームを通じて選択される。それにより、いかなる 言葉やイメージを用いて争点や出来事を物語るのかが決まる。その選択する側面や、動員さ れる言葉、イメージは一度社会に広く受容されると、その後も同様に繰り返し適用される。

その結果、語り方がパターン化するのである。フレームを中心とした言説編制の過程は、争 点や出来事の特定の部分が注目されずに排除されていく過程でもある(Gitlin 2003: 7)。す なわち、フレームを通じて編制された言説が、社会の中で普及し受容されることで、排除さ れた側面はより一層注目されなくなるのである。言説分析においては、なぜそのフレームが 選択されたのかを考察することが求められる。それを通じて、なぜ特定の側面が注目されず に排除されたのかを示すことが可能となる。

重要な点は、特定の言説が社会の中で広く共有される場合もあれば、そうした言説が受け 入れられない場合もあるという点である。すなわち、争点や出来事をめぐる言説は複数存在 し、競合しているのである。こうしたフレーム競合は一時点においては特定のフレームが支 配的になる場合もあれば、それとは異なるフレームが台頭する場合もある。特定の争点には 文化的に適用可能なフレームが複数存在し、全体として争点をめぐる意味付けの闘争が繰 り広げられているのである(Gamson 1988a: 221)。特定のフレームが競合の中で支配的にな る背景には、社会で広く共有されている価値観が存在する。換言すると、そうした価値観が フレームには反映されているのである。

こうしたフレームは争点に特有のものではなく、多様な争点に適用される可能性を有す るものである。出来事が争点化する以前に、フレームは社会の構成員の多数によって共有さ れている。そして、出来事が争点化すると、社会で広く共有されている価値観が争点とフレ ームを結び付け、争点をめぐる言説が編制される。すなわち、争点をめぐるフレーム競合や 変遷を析出し、考察を加えることは、社会の価値観の変遷を分析することになる。

本章は、日韓間で争点化する慰安婦問題をめぐるメディア・フレームの構築を示す。以下 では、慰安婦問題が争点化する以前から日本社会で共有されていたフレームが、慰安婦問題 と結び付くことによっていかなる言説が編制されるのかを提示する。そして、そうした言説

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が第一次・第二次安倍政権下でいかなる変容が見られたのかを明らかにする。

(2)慰安婦問題をめぐるメディア・フレーム

(2)-1.「反省」フレーム

慰安婦問題が日本社会で顕在化し、議論されていく過程の中で、複数のメディア・フレー ムが表れ、競合すると考えられる。慰安婦問題は日韓関係における日韓国交正常化交渉から 続く歴史認識問題の一事例である。政治エリートの間では、歴史認識問題をめぐって多様な 立場からの論争が繰り広げられており、メディアにおいても競合が生じることは想像に難 くない。

慰安婦問題は90年代に入り日本社会で争点化したもので、断続的に日韓間で外交問題と なる争点である。第二次世界大戦中に、長期に広範な地域にわたって慰安所が設置され、そ こで性的な暴力を受けた数多くの「慰安婦」といわれた女性が存在していた。元慰安婦たち が、冷戦終結後、人権意識が世界的に高まってくる中で、戦時中の女性の人権侵害とその補 償を求めて、1991 年 12 月に日本政府を訴えた。この訴えを契機に日本社会では慰安婦の 存在が広く知られることとなった。慰安婦の募集や慰安所の運営をめぐって、2017年現在 の日本においても論争が繰り広げられており、解決したとは言いがたい問題である。

慰安婦問題の言説は第二次世界大戦をどのように評価し、位置付けるのかという戦争責 任に関する価値観が反映されたフレームが適用されることによって、編制されている。日本 社会における戦争責任への意識は、戦争直後は原爆を投下された被害者としての意識が強 く、旧植民地支配への反省の意識が広く見られたわけではなかった(吉田 2005: 137)。しか し、日中国交正常化交渉やベトナム反戦運動などをきっかけに70年代を通じて、日本が過 去に行った残虐行為に対する反省の機運が高まっていった(同: 152)。すなわち、「反省」フ レームは70年代を通じて構築されたのである。この「反省」フレームは、第二次世界大戦 中の日本の行為の中でも、植民地支配や侵略戦争といった点に焦点を当て反省する必要性 を唱えるものである。1982年の歴史教科書問題が争点化した際、メディアにおいて「反省」

フレームが適用されたことで、日本社会で広く共有されることとなった(第4章および Mitani 2013参照)。

「反省」フレームは、慰安婦問題においても適用された。1991年は戦争に伴って生じた 様々な「強制連行」が社会的に注目されていた問題であった。1991年8月には朝鮮人元BC