み立てる過程に似ている。ところが古生代の腕足類化石の生物地理区の研究は、陸塊の古緯度や隣接 関係を議論する決め手を握っていたのである。はたして田沢氏の研究は陸塊の相互関係の議論に終止 符を打つことになったのであろうか。
第 1 章ではこのアイデアの確信を生んだ奥只見地域で問題の腕足類化石を発見した顛末が書かれて いる。第 2 章では腕足類化石の分類学的基礎知識や古生物地理と国内での産出の状況が概観され、後 章の伏線になっている。第 3 章では問題とする腕足類の見つかった地層の堆積した時代、古生代ペル ム紀におけるアジア東縁における腕足類化石の種類ごとの分布による類縁関係を紹介している。第 4 章ではそれがこれまでの議論にどのようにかかわるのか、南部北上テレーンの認識と帰属の問題のあ りかを示している。第 5 章は田沢氏の主張する横ずれ説へのエピローグである。従来筆者が唱えてい た古地理論に、まさにそれを補強するのが奥只見から発見されたペルム紀腕足類化石だということで ある。第 6 章のタイトルはエピローグとしているが、ここには短い文章中に筆者がライフワークとし てきた、古生代の腕足類化石研究に注がれた心情が読み取れる。またこれまでの北上山地で産出した 腕足類化石に関する研究者とその研究史が略述されており、かつてに比べて腕足類化石研究者が激減 していることを危惧している。この小史は将来、古生界研究の地学史を振り返る時に手っ取り早く把 握できる点で有用である。
この本は専門的な啓蒙書に比べると一気に読めて日本列島の成り立ちの大要を理解できる点で手頃 である。ジュラ紀以前の古陸である南部北上帯、飛騨外縁帯、黒瀬川帯を構成する地層には、腕足類 化石の他にも当時の生物地理区を構成して汎世界的に生息していたサンゴやフズリナの化石を含んで いる。できればそれらの化石も、田沢氏のアイデアと同じ古地理学的位置を示す証拠を示しているの かについて議論があると、より納得ができたかもしれない。
〔書籍情報〕
田沢純一著ブックレット新潟大学55 『日本列島の生い立ち─腕足類の化石から見た大昔の日本─』
(新潟日報事業社、2010年12月、A5 版70頁、定価 1,000円)
私の専門は民俗学ですが、最初にこの分野を志したのは、「声」の文化に惹かれてのことでした。大 学 2 年の冬に、佐渡の海岸線を歩き、その時に「調査」という構えで聴いた昔話の音律と調べ、「日 常」の中で聞いた「世間話」の、自分の見知っている「日常」とのズレに惹かれて、民俗学の中でも口 承文芸という分野の勉強をはじめました。
それ以降、「声」によって語られるものをフォークロア的なものと捉え、「声」によって語られるもの を、収集、分析し、それらが置かれている文脈を捉えることで、それぞれの時代の地域や集団の、意 識化されることの少ない文化のあり方を捉えようとしてきました。
今までの研究は、①出産や女性の身体、あるいは望まれなかった子どもに関わる話、②宗教者の語 る話およびそれらを受容した側が語る話、③庶民の造語力と関わる命名やことわざなど、の三つの分 野に分けることができます。
その方法としては、主に次のような方法を取ってきました。
A 「声」によって語られたものと他のメディアで表現されたもの(例えば文字、図像、映像、見世 物など)との影響関係や比較によって、「声」の文化に特有の論理や性質を浮かび上がらせる方法。
B 時代の状況と「声」が語るものがどのような関係性にあったのかを問う方法。
C 特定の宗教者が持ち伝えた話柄と、受容した側が語るものを対置させて、受容の論理と変容の メカニズムを問う方法。
このような問題を考える際に、オリジナルものが変容しつつも、もとの要素を残して次の世代に伝 えられてゆくといった「伝承」モデルではなく、地域や集団に共有される集合的な知識が、発話の場 でその時々に編み上げられ、創造されてゆく、という立場をとっています。それらは「場」によって 規定されてゆくものであると考えています。また、前にあったものが、新たな文脈を形成してゆく
「再文脈化」の過程にも注意を向けてきました。近年は次のような研究を発表しています。
「巫女と戦争 ―東北における危機のフォークロア―」
第二次世界大戦中にフォークロア的なものを地方翼賛文化運動に活用する動きがあったことは民俗 の二次利用を表す「フォークロリズム」という概念によって分析がなされはじめています。しかし、
国家的な危機状況において、それぞれの地域の中に埋め込まれていたフォークロア的なものがどのよ うにして発動したか、という観点からの研究はまだほとんど手つかずの状態です。青森県において は、第二次世界中の民間巫者への弾圧は沖縄などに比べてゆるやかだったという指摘がありますが、
その実態は明らかにされていませんでした。本稿では、聞き書き資料から第二次世界大戦中に、「英 霊」をおろすという趣向が津軽のイタコの中にあったことを跡づけながら、「英霊」のホトケオロシは、
むしろ戦後に多く、それらは国家的なものへの迎合というよりは、依頼者の意向を汲むという側面が 強かったこと、1970年代には、恐山への観光客に向けて英霊のホトケオロシがなされており、「地域」
を超えたところで、イタコたちの知識が再配置されていったことを示しました。
山 田 厳 子
** 弘前大学大学院地域社会研究科 地域文化研究講座 教員