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日本の学校教育への導入―まとめにかえて

ドキュメント内 サウンドスケープの学校導入への可能性 (ページ 99-117)

(a) 「形式」と「内容」

スーザン・ソンタグ (2000, pp.16-17) は、以下のように述べている。

「ヨーロッパ人の芸術意識や芸術論はすべて、ギリシアの模倣説あるいは描写説によっ

て囲われた土俵のなかにとどまってきた。この説によれば、必然的に、芸術というのも

自体が、個々の作品をこえて、疑わしいもの、弁護を必要とするものにならざるをえな

い。この弁護の結果、奇妙な見解が生じてくる。すなわち、あるものを『形式』と呼び

ならわし、またあるものを『内容』と呼びならわして、前者を後者から分離するのだ。

そして、いとも善意にみちた動機にしたがって、内容こそ本質的、形式はつけたしであ

ると見なすという次第だ。」

自らの共和国から画家や役者を追放したプラトンは、故に、歴史的に芸術否定論者と

いうことになっている。また、芸術を擁護したアリストテレスも、芸術は医学的に有用

であるとした点に於いて (ソンタグ, 2000) 、芸術そのものへの解釈はプラトンと変わ

りないのである。つまり、この 2 人が芸術にみたものとは、デュオニュソス的な「内

容」だったと考えられる。ソンタグ (2000, p.32) は以下のように続ける。

「透明、これこそ今日芸術において、また批評において、最高の価値であり、最大の開

放力である。透明とは、もの自体の、つまりあるものがまさにそのものであるというこ

との、輝きと艶を経験することの謂である。これが、例えばブレッソンや小津の映画の、

あるいはルノワールの『ゲームの規則』の偉大さにほかならない。」

ソンタグがいうところの「透明」とは、芸術自体を感じる、つまり形式そのものを聴

いて、見る、という行為に他ならない。また、今田 (2003, p.53) は、以下のように書

く。

「ピアノの演奏スタイルに『新即物主義 (ノイエ・ザッハリカイト) 』というのがある。

19 世紀末に横行した『過剰解釈』による演奏に対する反発から出てきた演奏法である

(e.g., 青柳, 2000) 。音楽科教育にもおそらく「新即物主義」が導入されるべきなのだ

ろう。」

(b) 「アポロン」的音楽と「デュオニュソス」的音楽の融合

サウンドスケープの「天体の音楽」から「聴く行為」、リトミックの「身体の開放」

から「動き」、これらに注目し、第三章で示したように「アポロン的」なものと「デュ

オニュソス的」なもの、との融合、つまり、「音」と「動き」の融合をめざして音楽の

授業を考えてまとめに変えたい。三浦 (2000,pp.150‐151,pp.163‐164) は、20 世紀

のバレエについてアポロン、デュオニュソスをキーワードとしつつ、以下のように説明

している。

「……ニーチェは、ソクラテスとプラトンが、ギリシア古来の神々を追放してしまった

のだと述べています。ニーチェは、追放された神々の筆頭にデュオニュソスを挙げてい

るのですが、このデュオニュソスこそ死と再生の神々と言っていいものだったのです。

そしてそれはまた、舞踊の神でもあったのでした。ニーチェがデュオニュソスとアポロ

という二つの類型を提示したことは有名です。これを、混沌と明晰と言ってもいいでし

ょう。あるいは、複雑怪奇なものと理路整然としたものと言ってもいい。ニジンスキー

の『春の祭典』は、明らかにデュオニュソス型に属するものです。そして、興味深いの

というほかありませんが、バランシンは明らかにアポロ型のコリオグラファーです。…

…ジョン・クランコがバランシンとグレアムの結合という考えを抱いたのは、このよう

に考えると、バレエとモダンダンスの結合という以上に、バランシンとニジンスキーの、

つまりアポロ的なものとデュオニュソス的なものの結合ということであったことが分

かります。バランシンの抽象的なバレエの美しさは明らかに天上的です。バランシンは、

花は花であるだけで美しい、説明はいらないと、繰り返し語っています。バランシンに

とってバレエは花なのでした。」

音楽には、バレエ同様、常にアポロン的な要素とデュオニュソス的な要素が混在して

いるに違いない。そのバランスが、例えば第二章で触れた19世紀の音楽文化により歪

められた、デュオニュソス的な要素が、極度に強調されたと考えることが出来る。この

亀裂は、音楽と舞踊の分離に象徴される。三浦(1995, p.41)は言う。

「だが、近代、とりわけヨーロッパの近代において、この両者の緊密な関係に深い亀

裂が生じた。音楽が純粋な芸術であろうとして舞踊を排除しはじめたのである。交響曲

の前身は舞踊組曲、舞踊組曲の前身は舞曲である。音楽は舞踊から生じたといっても誤

りではない。音楽は、したがって、近代にいたって、それ自身を育んできた舞踊という

母体を離れようとしたのだということになるだろう。」

三浦はその原因として、レコード、つまり複製芸術の登場をあげているが、「音の分

裂症〈schizophonia〉という概念を提唱することにより、オリジナルとコピーによる音

の再生産」(今田, 2000, p.26)を指摘したシェーファーとも共通する。

さて、アポロンとデュオニュソス、この音楽が持つ2つの要素のバランスを、均等に

するにはどのような活動が必要なのだろうか。アポロン的思考を核とするサウンドスケ

ープと、身体の開放性という、ある意味でディオニュソス的な魔術を秘めたリトミック

を調合することにより、この難しい課題に取り組めるのではないか。この章では、以上

のような見解にそって、クラス・ルームでの具体的な活動を提案したい。

(c) 具体的な活動

授業の目的としては、音・音楽を注意深く聴き、自身の内部でその音楽を想像し、身

体を通して創造することが目的となる。今回の授業では、アポロン的な音楽については

聴覚に求めている。よって、音楽をよく聴くことが必要である。それから音楽によって

喚起されるイメージを想像させる。具体的に言えば、紙などを配布し、音楽を聴いて感

じたことを書き取らせる。その際、子ども達自身に極力、音を出させないように注意す

ることである。

授業の目的

・ 自ら発する音を極力抑え、音・音楽をよく聴くこと。

・ イメージを、身体を通して、表現すること。

・ 音楽的な体験を通して、音楽を感じること。

第二章、三章で考察してきたことを踏まえた授業作りを提案する。まず、動きの基と

なる形として、歩くことからはじめてみる。歩くことを通して、音楽のリズム感や直接

的経験ができるからである。そこで、歩きながら「聴く」ことの実践を行いたい。

○歩く

・ 歩きながら自分の出す音を注意深く聴いてみる。

・ 歩き方を変え、自分の出す音の変化を聴いてみる。

・ 他者の出す音を聴いてみる。

・ 他者の出す面白い音や、動きを真似してみる。

・ 他者の出す音が違っているなら、どこが違うのかよく聴いてみる。

・ 何人か音や動きを真似してみる。

次に、班の作品を作ってみたい。ある程度、上の 2 つのような活動を行ってから、

今度は、班単位に規模を拡張し、班の中で相談して、動きや音を決定し、発表してみる。

上手くいったら、さらにクラス単位に規模を拡張し、同様に作品をつくってみる。

○動きの作品を作る

・ 何人かの班を作り、歩く行為を基本として、歩き方やそれに伴う音を用いて一つの

作品を作る。

・ いきなり動きだけで作るのは、あまりにも難しい為、何かの曲(構造的にわかり易い

もの)を与える。

次に、第二章で紹介したシェーファーのサウンド・エクスチェンジを参考にしてみる。

サウンド・エクスチェンジは、聴くこと、動くことの両面の発想を含んでいるエクササ

イズである。これは、自分の音と動きを創りだす一種の創作の活動でもあり、相手の音

や動きをよく聴き、よく見るという面では鑑賞の行為でもある。さらに、自分の創りだ

した音や動き、相手の創りした音や動きを表現する活動にもなっている。サウンド・エ

クスチェンジは表現、鑑賞、創作といった学習指導要領の音楽科の目標として掲げられ

ているものを含んでいるのである。

○サウンド・エクスチェンジ

・ 具体的な活動は第二章を参照

次に、紙の作品を作ってみたい。紙はちょっとしたことでもすぐに音が出る。触った

時の音、折るときの音、破る音、風になびく音、紙同士をこすり合わせる音、グシャグ

シャにまるめる時の音、これらの音を使って、紙の作品を作ってみたい。その際には、

効果的に音が出るように、動きを意識させることを忘れないようにしたい。

○紙の作品

・ 作品を作る前に、一枚の紙をクラス全員で回してみる。その際、音を立てないよう

に注意する。

・ 次は、音を出してみる。一枚の紙でもいろいろな音が出せる。破る音、たたく音、

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