第 4 章 「市民性教育」と「子どものための哲学」 51
4.2.3 日本における「市民性教育」の試行とその課題
以上において見てきたような従来の枠組みとは別に「市民性教育」を主題的に取り上げようとする動 きも見られる。
東京都品川区は「市民科」という教科を設けている。その目標は、「個の自立」、「他者とのかかわり」、
「集団や社会とのかかわり」、「自己を生かし高める意欲」、「将来に対する態度」の五つである。また、そ の目標を達成するために、7つの資質、5つの領域、15の能力を具体的に挙げている。このように市 民科は、上で見た新しい市民性教育の方向性を受容したものとなっている。そして、これは「道徳」「特 別活動」「総合的な学習の時間」を有機的に統合するものとして構想され53、上記の「第四の課題」応え るものになっている。ただし、9年間にわたる明確な目標を定めている分、徳目主義とならざるをえず、
従来の道徳と同様の問題をはらんでいる。そうなると、なすべきことと現実の自分との分裂が発生する ことになる。このような問題に対しては、確かに、アサーションや相談といった具体的な対応策を示し てはいる。しかし、自分の置かれた具体的・個別的な状況でどのように考えていけばよいのかの方法論 は主題化されてはいない(第六の課題) 。
社会への参加に先立って、より実践的な内容を教えようとする試みも始まっている。例えば、法教育、
起業家教育、キャリア教育である54。これらは、これまでの学校教育が社会科学における認識形成をモ デルとしてきたのとは対照的に、具体的な社会における実践を念頭においたものであり、そのための準 備とすることを目指したものである。また、社会での活動への参加を重視する活動も始まっている。総 合的な学習の時間を活用してボランティア教育を行う事例は増えている。また、兵庫県の「トライやる・
ウィーク」は中学生が一週間の間、職場体験をするというものである。これらの活動は、参加し、体験 することに重点が置かれている点が特徴的である。
なるほど、これらの活動はこれまでの市民性教育の限界を超えていこうとする試みであり、今後ます ます重要になっていくと考えられる。ただし、総合的な学習の時間と同様に単なる体験主義に終わって しまう危険性を孕んでいる。そうならないためには、学校での授業や他の学びとの有機的な連携が必要 となる(第七の課題) 。
最後に、以上において見てきた諸課題を整理しておく。すると、以下のような大まかに三つの主題系 に分類できる。
1. 「新しい市民性教育」が依拠する概念枠組みの明確化
社会科の記述枠組み(例えば、私と公の対立)は現状の社会の常識の範囲にとどまり、それ を越えてはおらず、現代になって発生している社会変容にはもはや対応できていない。新し いテーマにふさわしい枠組みを導入する必要がある(第一の課題)。
「総合的な学習」を通して「市民性教育」を行う場合、単なる事例の蓄積に留まるのではな く、どのような内容を、どのような方法で遂行していくのかについてのフレームワークを形 成していく必要がある(第五の課題)。
このように特別活動においては漠然と行われがちな活動の枠組みや意味づけを明確化するこ とが課題となる(第四の課題)。
ここには三つの課題が属しているが、第一の課題に応えることができれば、それを基にし て、第四の課題や第五の課題に対応することができると考えられる。その意味では、学校教 育を規定してきた近代的な記述枠組みを再構築することが中心となる。
53嶺井 明子『世界のシティズンシップ教育』(東信堂)2007, p.48参照。
54キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議編『キャリア教育の推進に関する総合的調査研究協力者会議報告 書』2004参照。
2. 「新しい市民性教育」が依拠する方法論の明確化
普遍的な認識を自分の生活にどうつなげていくのかの方法論そのものは主題化されてこなかっ た(第二の課題)。
自分の置かれた具体的・個別的状況でどのように考えていけばよいのかの方法論は主題化さ れてはいない(第六の課題)。
既存の道徳を確認させるのではなく、ディスカッションの中で倫理の生成(普遍性を産出す る倫理)を考えたり、その基礎の上に自分の生活とのつながりを考えようとする実践が市民性 教育においては重要となっている。
3. 実践へのつながりを意識して、その基盤を提供していく必要がある(第三の課題)。
単なる体験主義に陥らないためにはには、学校での授業や他の学びとの有機的な連携が必要 となる(第七の課題)。
「新しい市民性教育」という観点からの総合性の明確化
「市民性教育」という観点に立って、自分の生活や実社会での具体的な実践に接続できる ように、教室での諸教科の活動を統合する視座や仕組みを整備する必要がある。
第三の点は、1)と2)が明確化されることによって、結果として遂行されることになると考えるこ とができるため、概念枠組みと方法論の明確化が主要な課題となる。
4.3 「子どものための哲学」による「市民性教育」の内容と方法
4.2節において、日本の現状を概観し、市民性教育として不十分な点を検討してきた。4.3節において は、この分析に基づき、「子どものための哲学」を導入する際の、概念枠組み(4.3.2項)と方法論(4.3.3 項)について考察することにする。
4.3.1 「市民性教育」の課題
4.2節の概観において、「新しい市民性教育」が依拠する概念枠組みを明確化する必要性が明らかになっ た。中でも、社会科の記述枠組み(例えば、私と公の対立)は現状の社会の常識の範囲にとどまり、それ を越えてはおらず、現代になって発生している社会変容にはもはや対応できていないため、新しいテー マにふさわしい枠組みを導入する必要があった(第一の課題)。この課題を具体的に応えるためには、一 方で、従来の教育が依拠してきた概念枠組みを検討する(1)と同時に、他方において、「新しい市民性 教育」の背景にある社会の変容がどのようなものであるかを参照しておく必要がある(2)。
(1)「市民性教育」の教科書的内容
4.2節において、「公民的資質」を構成する知識について概観したが、そこから「市民性教育」の教科 書的内容を析出することができる。その中心点は「民主主義」であり、その思想、歴史、制度について 学ぶことになっている。そして、さらに、現代的な諸課題に触れることとなっている。
例えば、『中学校 公民改訂版』(清水書院)(2006)は、まず、序章「現代社会を生きる」において、
貧困問題、家族の変容、地域社会、消費社会、国際貢献といった現代社会の諸課題に触れている。政治
4.3. 「子どものための哲学」による「市民性教育」の内容と方法 67 の仕組みを学ぶ「第一編 私たちの生活と政治」において、専制政治からの解放として民主主義を取り 扱い、それを支える憲法を解説している。その上で、基本的人権と国民の義務について、司法・立法・
行政の仕組みと選挙の仕組みについて解説している。また、「第2編 私たちの生活と経済」は、経済 のしくみについて学ぶとともに、財政と関連させて福祉のあり方について学ぶことになっている。そし て、「第3編 国際社会を生きる」は、国際政治のしくみについて学び、現代のグローバル化した世界の 中での諸課題について触れている。
民主主義の思想そのものは18世紀に、当時の歴史的状況を背景としてに形成されたものであり、そ の制約を受けている。中学校段階で教えられる民主主義の成立史は「市民革命」であり、民主主義は抑 圧的な王政からの解放として記述される55。ここから、個人や人格の尊厳から人権や自由という価値が 基づけられることになる。ここにおいて、個人は不可侵な人格であると考えられ、他者の自由を侵害し ない限り、自由を享受すべきものとして考えられている。ここから、自由とはそれを侵す抑圧からの解 放であるとする考え方も生まれる56。
ただし、この人権や自由を保証するためには国家が必要であり、それを維持する責任や義務が発生す ることになる(社会契約論)。例えば、納税や政治参加がその中心となる57。ここにおいて、国家あるい は共同体とは、個人の自由の侵害を防ぐという目的のためにつくられ、国民の間の様々な利害の調整の 役割をはたすものであるとして考えられている58。
教科書的内容はその後の民主主義の発達も含んでいる。それは平等概念の拡張である。18世紀的に は人格の平等であったものが、19世紀になり、格差や差別の問題が意識化されるようになると、社会 権や福祉の発想が生まれ、格差や差別の是正を意味するようになる。ここから、国家の様々な役割が生 じることになる。このように、教科書は基本的には第一章において言及したマーシャルの「市民性」の 概念枠組みに基づいているということができる。
(2)現代社会の変容
第一章においては、ギデンズの議論に依拠しながら、現代社会においては、制度、自己、関係性の三 つの次元で流動化が発生していることを示したが、その内容を確認しておくことにする。ギデンズは現 代社会を「後期近代」としてとらえている 。まず、「近代」は様々な観点から記述することが可能であ ろうが、ギデンズは、それを、「伝統的な社会」との対比において、「再帰性」を特徴とすると考えてい る。すなわち、近代においては、あらゆる制度が、伝統的なものを含めて、新たな情報に合わせて修正 されるというのである59。そして、そのような「再帰性」がグローバル化の中で徹底的に遂行されるこ とにおいて「後期近代」が成立する(cf. 前掲書279頁)。その中では、伝統的な生き方は他の無数のラ イフスタイルとの競合にさらされることになり、その自明性を喪失することになる。それに代わるのが、
諸リスクを軽減するための、専門家による「再帰的モニタリング」(前掲書17頁)を経由する諸制度で ある。これが「後期近代」を特徴づける第一の再帰性である。第二に、再帰的近代の進行は自己のあり
55例えば、『中学校公民改訂版』(清水書院)2006では「専制政治から民主政治へ」という項目を設け、社会契約論の思想と 市民革命に基づいて、民主主義が成立してきたことを記述している。また、民主主義を根拠づける日本国憲法も、専制的な大 日本国憲法との対比によって導入されている。
56「そもそも人権は、歴史的には、国家の権力が人びとの自由を抑圧しがちであったことへの反省から生まれた。こうした タイプの人権を自由権という」(前掲書40頁)。
57「国民が国の一員としての責任を果たさなければ、活力のある民主的な国家をつくることはできない」(前掲書57頁)。義 務は、権利を支える国を機能させるために必要なものとして導入されている。
58「国は、対外的には独立を保ち、国内では秩序を維持し、国民の安全を守るとともに、経済、福祉、教育などさまざまな分 野で国民が健康で快適な生活をおくることができるように支援することが重要な役割と考えられる」(前掲書35頁)。「政治と は、多数の人びとが共同で生活する社会で、それぞれの利害を調整し、秩序を形成・維持するいとなみである。そして、そのた めには、対立に決着をつけ、最終的には人びとを強制して、服従させる力(権力)が必要である」(前掲書34頁)。「このよう に、国には協力しあう国民の集まりという顔と、強制力をもった権力機関という、もうひとつの顔がある」(前掲書35頁)。
59ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』(ハーベスト社)2005, p.22。