• 検索結果がありません。

日台断交から日台実務関係の形成へ

ドキュメント内 つくばリポジトリ (ページ 153-200)

第1節 断交前史としての日中国交樹立 1、関係改善への争点

1972年2月、ニクソン大統領が訪中し、上海コミュニケが発表された。これら米中関係 改善の本質は、すでに述べたように米中の戦略的な和解であった。この時中国は主として 対ソ戦略上の考慮から米国との関係改善を必要とし、そして関係改善の過程で台湾問題の 国内問題化を一歩推し進めた一方、発表されたコミュニケにおいては米台相互防衛条約に 触れないなど台湾問題における重要な譲歩をも行った。当時の中国政府は、米国との関係

だけではなく、日本及び西側諸国に対しても、対ソ統一戦線の形成という観点から関係改 善に積極的となっていた面がある。その一方では、文化大革命で立ち後れた国内経済の立 て直しが急務となっており、またそうした経済建設の成果と国際的地位の向上によって権 力体制の安定化を図る必要があった。これらの背景は、まさに中国が日本を含む西側諸国

との関係改善を急ぐ原因となっていたのである1。

その関係改善の意味は、米中と日中の間では非常に異なっており、台湾問題と言っても、

その重要な争点は異なっていた。すなわち、上海コミュニケにみられたように、当時の米 中間における台湾問題の処理では、米国にとって台湾の安全保障をどうするのかという問 題が主な焦点であり、結局米中それぞれが異なる見解をもっていることが明記されるにと どまった。いわば台湾問題の解決は一時棚上げされたのである。一方、日本と中国との間 には、日台間の歴史的な関係のみならず、緊密に構築されてきた実質的な政治・経済関係 と日華平和条約の問題が含まれていた。そこで、中国側は交渉の開始に当たり、日米それ ぞれに異なるアプローチをとっていたのである。

まず、日中国交樹立に関する中国側の基本的な立場は、71年6月に訪中した公明党代表

】中嶋嶺雄「日中関係」『中国総覧(1975年版)』(アジア調査会、1974年)、152−153ページ参照。

団と中日友好協会代表団との共同声明としてはじめて明確な形で示されることとなった。

この声明で中国側が提示していた復交への条件のうち、最終的な交渉段階まで残されてい く問題は、以下の三点である2。

(1)中国はただ一つであり、中華人民共和国政府は中国人民を代表する唯一の合法 政府である。「二つの中国」と「一つの中国、一つの台湾」をつくる陰謀には 断固反対する。

(2)台湾は中国の一つの省であり、中国領土の不可分の一部であって、台湾問題は 中国の内政問題である。「台湾帰属未定」論に断固反対する。

(3)「日台条約」は不法であり、破棄されなければならない。

この「復交三原則」と呼ばれるようになった中国側の立場は、要するに日本政府が台湾 との正式な外交関係を断絶することに同意しなければ、日中国交樹立は不可能であること を示していた。そして、これこそ佐藤栄作首相の中国への働きかけに対し中国側が応じな かった一つの原因であり、田中首相はこの三原則を基本的認識として十分理解できるとの 立場をとったからこそ、中国との国交樹立交渉が急速に進み得たのである。

さらに具体的な「日中共同声明」の内容については、72年7月25日から8月3日にか けて訪中していた竹入義勝公明党委員長がもちかえった周恩来首相との会談記録(所謂「竹 入メモ」)に基づいて、日本側での具体的な草案作りが進められた3。この竹入メモに示さ れている中国側の見解では、日米安全保障条約に言及していないことによって、中国がこ

2 日中国交回復促進議員連盟編『日中国交回復関係資料集』(日中国交資料委員会、1972年)、139−140

ペ一㌧/。

3所謂「竹入メモ」の内容は、永野信利『天皇と郵小平との握手一実録・日中交渉秘史』(行政問題研究 所、1983年)、29−31ページ。

中国側は、当時から現在に至るまで竹入委員長を田中の密使として認識してきたようである<斎向前

(竹入実訳)『永遠の隣国として−中日国交回復の記録』(サイマル出版会、1997年)、143及び157ペ ージ。蔵士俊『戦後日・中t 台三角関係』(台北:前衛出版社、1997年)、147頁。「竹入義勝元公明党 委員長は語る」『朝日新聞』(1997年8月27日)>。

れに異議を唱えない姿勢であることが示されていた。

日米安保体制についての中国側の姿勢転換にどのような要因や意図があったのかについ ては依然として明確ではないが、71年7月2日に公明党代表団と中日友好協会とが発表し た共同声明においても、当時の竹入委員長自身が全く気づいていなかったが「実は日米安 保に言及していなかった」という4。田久保忠衛はニクソンの対中政策を詳細に分析してい く中で、ニクソン大統領が72年に訪中した際に毛沢東と周恩来との会談において行った発 言が、中国側の日米安保容認へのヒントになった可能性があると指摘している5。しかし、

71年の7月の共同声明においてすでに大きな転換があったとすれば、中国側が日米安保へ の態度の転換を考慮しはじめたのはそれよりも前のことであったということになる。この 間題は、田中訪中時の交渉においても、周恩来が「日本が米国との関係をどうするかは日 米間の問題です。われわれは関知しません。(しかし)日本にとって日米安保条約は非常 に大事です。堅持するのは当然ではありませんか」が述べ、特に問題もなく中国側に了承

されたという6。

また、先の竹入メモには、賠償請求権の放棄についても明確に書き込まれていた。中国 側が日本に対する賠償請求権を放棄する方針をとったことについて、日本に対しての説明 では「賠償の苦しみを、日本人民に嘗めさせたくない」と、中国の誠意を強調していたが、

実際にはさらに「日台断交を促すための戦術的なカードとして使う狙い」もあり、かなり 台湾を意識した判断であったことが明らかにされている7。

4別技行夫「日中国交正常化の政治過程一政策決定者とその行動の背景」前掲、6ページ。

5田久保忠衛『ニクソンと対中外交』(筑摩書房、1994年)、225−226ページ、およびニクソン『ニク ソン回顧録①』(小学館、1978年)、335ページ。

6毎日新聞社政治部編『転換期の安保』(毎日新聞社、1979年)、234−235ページ。

7朱建栄「中国はなぜ賠償を放棄したか」『外交フォーラム』(1992年10月号)、32及び39ページ。

同論文によれば、周恩来首相が作成した賠償問題についての国民に対する説明の要綱では、「1.台湾の蒋 介石はすでにわれわれより先に賠償の要求を放棄した。共産党の度量は、蒋介石よりも広くなければなら ない。2.日本はわれわれと国交を回復するには、台湾と断交しなければならない。賠償問題で寛大な気持 ちをしめすことによって日本側を中国側の原則に歩み寄らせることに有利である。3.日本が中国に賠償金 を支払うとすればこの負担は最終的には広範な日本の国民にかけられることになる。彼らは長期にわたっ て中国への賠償金を支払うために、ズボンのベルトを引き締めなければならない。これは日本人民と世々 代々友好的になっていくというわれわれの願望と相反することになる」とされた(38−39ページ)。

2、日中国交樹立過程における台湾問題の処理

日中間の争点は、主として台湾の帰属に関する問題と日華平和条約への基本的な立場の 相違によるものであった。これら争点はすべて台湾に関わっており、大平正芳外相のもと 外務省内に形成された法律の専門家を中核とする小グループが、主として法的立場や理論 上の問題として処理を進めていく。すなわち、第一の台湾の帰属に対しては、中国と他国 との国交樹立の際にとられた例をふまえつつ、中国の立場を「十分に理解し、尊重し、ポ ツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」とした。

台湾との国交を有する国家が中国と国交樹立をする際に、これまでにとられてきた問題 処理の方法は、中国の立場を「承認」する方法以外に四つの方式がある8。一つ目の方式は、

1964年のフランスとの国交樹立に際しての方式であり、二重承認の可能性やそれに対する 中国側からフランスへの圧力などが水面下ではあったが、両国間で明示的に台湾に言及し ていない。これと同様の方式は、クウェートとの国交樹立(71年3月)でもとられた。

第二の方式としては、70年10月のカナダとの間でとられたもので、テーク・ノート(留 意)方式と呼ばれている。これは、中国政府は、台湾の帰属に対する自らの立場表明をし、

相手国はこの立場もしくは声明をテーク・ノートするとした。イタリア、チリ、ベルギー など多くの国がこの方式を採用している9。これは、フランス方式に比べれば、かなり条件 づけられたものとなっており、中国側が「二つの中国」や「一中一台」を容認する傾向に 対して警戒感を強めていたと考えられる10。

第三の方式は、イギリスとの間でとられたものである。中華人民共和国を早い段階で承 認しながらも、その後も台湾に領事館を置いていたイギリスは、72年3月、中国政府の立 場を「認識」(アクノレッジ)するとの共同コミュニケを発表したが、ここで採用された

アクノレッジ方式は、先のテーク・ノート方式よりも強い意味をもっている。

8 彰名敏・黄昭堂『台湾の法的地位』(東京大学出版会、1976年)、209ページ。

9『中国総覧(1973年版)』(アジア調査会、1973年)、451−452ページ。

10太田勝漢「国交樹立の諸形態と中国代表権問題−その政治的アプローチ」『国際問題』(1971年3月 号)、38ページ。

ドキュメント内 つくばリポジトリ (ページ 153-200)

関連したドキュメント