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新しい労働運動とコミュニティの形成

ドキュメント内 コミュニティ再生の方位と原理 (ページ 53-86)

メルッチが観察した時代は 80年代である。それは70年代にすでにみられた、エネルギ ーを基礎とする鉱工業中心の第二次産業から流通・サービス・情報などの第三次産業への シフト、すなわちダニエル・ベル[Bell, 1973=1975]のいう脱工業化が進んだポスト工業社 会の時代である。ポスト工業社会においては、生活必需品以外のものを過剰に買わせるた めに、企業が様々なイメージ戦略を打ち出して差異化をはかることが定着し、その結果、

ボードリアール[Baudrillard, 1970=1979]のいわゆる「記号」を操ることで人為的に流行を 生み出す広告業やメディア業界が発達した。また、それにともなって多品種少量生産が趨 勢となり、ポスト工業社会は大衆消費社会となった。

このようなポスト工業的資本主義を背景として、ポスト・モダンの思想は生まれた。け れどもそれは、1989 年から 90 年にかけての「冷戦構造の終焉」の前後に、一気に衰退し 始める。マルクス=レーニン主義の象徴であるソ連が消滅し、それとともにソ連と思想基 盤を共有する階級史観的なタイプの左翼が、西欧社会の中での発言力を失ったからである。

ポスト・モダン系の思想家達は、彼らが健在なうちは彼らとの理論的違いを際立たせるた めに、「抵抗する主体」や「普遍的理性」をめぐる逆説を強調するなどして、複雑な議論を 展開する必要があった。また、そうした複雑な議論を操れること自体が自分たちの強みで もあった。しかし、ソ連邦の崩壊とともに古い左翼が凋落すると、そのような思想戦略的 な配慮は無用となった。そして、対抗軸の消滅とともにあまりに複雑化した姿だけが目立 つようになり、ポスト・モダン系の理論は廃れていったのである。

加えて、西欧諸国のポスト・モダニストたちを取り巻く世界情勢も大きく変化した。ソ 連なき後、唯一の超大国となったアメリカを中心として、経済のグローバル化が急速に進 展したからだ。その影響を受けた各国では、伝統的な文化、社会関係が解体し、貧富の差 が拡大した。それゆえ、アングロ・サクソン型資本主義、あるいは新自由主義的資本主義 の弊害を克服するための新たな理論が求められるようになった。だが、ミクロな権力構造 の批判に専念してきたポスト・モダニストたちは、グローバル資本に対抗する有効な戦略 を示しきれなかったのである[仲正, 2007, 36-37]。

ところで、「ポスト・モダン」の名でくくられることを多くの思想家が拒絶したなかで、

唯一それを引き受けたのがリオタールである。彼が1979年に著した『ポスト・モダンの条 件』は、ポスト・モダンのイメージを決定づけたといっても過言でない[藤本, 2007, 128]。

そのリオタールが、『ポスト・モダンの条件』の序で示したポスト・モダンの時代に対する 診断は、まるでメルッチ以降に起きた出来事を予見したかのような筆致で描かれている。

「決定者たちは、言語要素の共約可能性とその全体に対する決定可能性とを暗黙のうち に前提とするような論理に従って、インプット/アウトプットの行列式に基づいて、この 多様な社会性の雲を統制しようとする。彼らによって、われわれの生は力の果てしなき増 大へと捧げられることなる。科学的真理と同様に、社会的正義についても、その正当化は、

システムの遂行性つまり効率を最適にすることに置かれることになるだろう。このような 判断基準をわれわれのすべてのゲームに適用することになれば、それは、ソフトに現われ るにしろハードに現われるにしろ、なんらかのテロルを伴わずにはいない。すなわち、『操 作的、つまり共約的であれ、さもなくば消えてしまえ』である。

最良の遂行性を求めるこうした論理は、おそらく多くの点に関して、特に社会・経済領 野における矛盾に関しては、首尾一貫したものにはあり得ない。すなわち、この論理に従 えば、(生産コストを下げるためには)より少ない労働が、そして同時に、(非就労人口の 社会福祉経費を緩和するためには)より多くの労働が必要とされるのである。そして、マ ルクスの時代とは異なって、このような論理の破綻に対する救いを将来に期待できないと ころにまで、われわれのメタ物語(自己のシステムの正当性と普遍性を主張しようとする 言説で、一つの歴史哲学を含む――筆者)に対する不信感は至っている」[Lyotard, 1979, 8=1986, 9-10]。

この彼の言葉は、新自由主義的思想が蔓延し、経済のグローバル化が進んだ今日の状況 にこそ当てはまる。現在は、「システムの遂行性つまり効率を最適にする」ことが、世界的 規模で追求されている。その結果、「(生産コストを下げるためには)より少ない労働を、

そして同時に、(非就労人口の社会福祉経費を緩和するためには)より多くの労働が必要と される」という二律背反する課題に対しては、工場を賃金の安い海外に移転させることに よって解決がはかられている。生産コストを下げつつ、多くの労働力を行使できるからだ。

つまり、自国の非就労人口の社会福祉経費だけが切り捨てられたわけである。まさに「操 作的、つまり共約的であれ、さもなくば消えてしまえ」である。

リオタールは、続けて「メタ物語が崩れた後で、正当性はいったいどこに存するのか」

と問う。そしてその後に、「操作性という判断基準はテクノロジーのものだ。それは真なる もの、また正当なるものを判断するには関与的でない。ハーバーマスが考えるような、議 論を通じて得られるコンセンサスであろうか。コンセンサスは様々な言語ゲームの異質性 を踏みにじる。そして、新しいものの創出はつねに意見の相違から生まれてくるのである」

という[Lyotard, 1979, 8=1986, 10-11]。

ここにおいてリオタールは、ハーバーマスに対する懸念を表明する。すなわち、ハーバ ーマスの「討議倫理」は、対話による論証を通じて普遍的なコンセンサスを追及していく ことに正当性の源を求める。だが、そうした「討議」は、「すべての語り手が、言語ゲーム に対して普遍的に有効であるような規則ないしメタ規則に関して一致することができる」

[Lyotard, 1979, 106=1986, 160]ことを前提としており、これは様々な言語ゲームの異質 性・差異を抹消することになりはしないかというのだ。そしてリオタールは、次に自らが 何に正当性の根拠を求めるかを明らかにする。

「ポスト・モダンの知はけっしてただ単に諸権力の装置であるのではない。それは、差

異に対するわれわれの感受性をより細やかに、より鋭く、また共約不可能なものに耐える われわれの能力をより強くするのである。ポスト・モダンの知は、その根拠を専門家たち のホモロジー(homologie)のうちに見出すのではない。その根拠は発明家たちのパラロジー (paralogie)のうちに見出されるのである」[Lyotard, 1979, 8-9=1986, 11]。

リオタールによれば、現在の科学の言語行為論における想像力もしくはパラロジーの活 動は、メタ規制を明るみに出し、そのパートナーたちに他のメタ規制を受け入れるように 要求することを役割としている。メタ規制は、言語ゲームのそれぞれの《手》が受け入れ られるためには、どのようなものでなければならないかを規制する。だがリオタールによ れば、ヴィトゲンシュタインのいう言語ゲームでは、言表の様々なカテゴリーのひとつひ とつが、その特性を規定する規則とその用法によって決定される。それは、まさしくチェ ス・ゲームにおいて、駒の諸特性が駒の正しい移動の仕方を定める一群の規則によって定 義されるのと同じである。だから、すべての言表はあるゲームにおいて打たれた《手》と して考えられねばならない。だが、《手》の打ち方が一つに固定されてしまえば、ゲームは 成立しない。したがって、現在の科学の言語行為論における唯一の正当化は、「それは理念 を、言い換えれば新しい言表を生み出すだろう」という言葉に要約されるのである [Lyotard, 1979, 22-23, 105=1986, 29-30, 159]。(42)

しかし、コンセンサスは人を結束させる。コンセンサスが人々を団結させ、巨大な多国 籍企業と対決する力を生む。リオタールは、診断の適切さにもかかわらずこのようなコン センサスの持つ力を軽視しために、他のポスト・モダニストたちと同様、グローバル資本 に対抗しうる有効な処方箋を示しきれなかったのである。

だが、複数の言語ゲームの差異や異質性を尊重するという彼の視点は重要である。リオ タールは、「もしそれぞれのゲーム、またそこで打たれる《手》を定義するコンセンサスが 成り立つとしても、そのコンセンサスはローカルでなければならない、、、、、、、、

」[Lyotard, 1979, 107=1986, 161-162]という。メルッチもリオタールと同様の視点を持つ。なぜなら、メル ッチは新しい社会運動の中にアイデンティティを大切する姿勢を看取したが、それは差異 や異質性を尊重する姿勢でもあるからである。

ところで、ハーバーマスが重視した合理的なコンセンサスに基づく団結と、メルッチが 着目したアイデンティティを大切にする姿勢は、アメリカで生まれた「新しい労働運動」

に引き継がれる。アメリカは、グローバリゼーションを最も早くから積極的に推進した国 であるため、それに伴う新たな弊害が最初に立ち現れた国でもある。したがって、それに 対抗する労働運動も「新しい」闘い方を採用せざるをえなかった。

正義なき力は無意味であるが、力なき正義もまた無意味である。それゆえ、労働運動は 組織化を通じて個々人の力の結集をはかる必要があるが、従来の労働運動は経済的合理性 に基づくコンセンサスに団結の基礎を置いていた。だが、「新しい労働運動」は、経済的合 理性に基づくコンセンサスだけでなく、互いの人格を尊重する相互承認の上に成り立たつ。

ドキュメント内 コミュニティ再生の方位と原理 (ページ 53-86)

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