占︹
平 瓦
量 1 7,542.2 kg
重
軒 丸 瓦 計 軒 平 瓦 計
1 52
点 数1 76,671
表
3
第222次調査 出土瓦集計表すべ き課題 である。
土器類
墨書土器 が3点出上 してい る。1点は「式部省五 日」 とある須恵器杯で、
SE14690井 戸枠抜取 り穴 出土品である。 SE14690井 戸枠抜取 り穴 か らは主 に平 城
Ⅱ期 の上器 が出土 した。 また、SFl1960の 東側溝SDl1620か らも「式」、「□?曹」 の墨書 があ る須恵器 がそれぞれ1点づつ 出上 している。
木簡・ 木製 品
木簡・ 木製品 はSE14690井 戸 枠抜取穴 か ら出土 した。木簡 は、
考課 に関 わ る削 り屑 が多 く出土 してお り、式部省東前期役所 の遺構 を奈良時代 前 半 の式部省 関連 の役所 と考え る有力 な根拠 とな っている。主 な木簡 には、
「天平 元年八月五」
「小心謹卓執営幹」
「・ 別□司□
太政官
中務省 中宮職
□□□
・ 一番考□□
以前□」
な どがあ る。 また、木製品にはへ ら、杓子、箸、漆器匙、櫛、刀子形 、鏃形 な ど が ある。
金属製 品・ 土製品
後期式部省東役所 の鋳銅工房 の周辺 か ら銅片、銅滓、輔 羽 日、増塙 など鋳銅 に関連 した遺物が多数 出土 した。
5
まとめ最後 に、奈良時代初 めの平城宮東南部、す なわち第
2次
朝堂院南方 の区域 とそ の東方 に広が る区域 の区画 について試案 を提示 し (図22)、 またい くつか の問題 点 を指摘 して ま とめ とす る。南面大垣 に先行 す るとされ る掘立柱区画塀 の うち東西塀 SA1765・ 14400につ い て は、 これまで に第16・ 122・ 157・ 167・ 205。 206・ 216次調 査 で検 出 して お り、
SA1765は 朱雀門の東 か ら始 まって壬生門 の西 まで続 き、SA14400は 壬生門の東 か ら始 ま り、両者 は壬生 門 を挟 んで対称 の位 置 にあ ることが明 か とな って い る。
今 回 の調 査 で はSA14400の東端 部 を確 定 し、 さ らに そ こか ら南 北 に延 び る塀
SA
14680を 検 出 した。SA14680は SDl1990・ 12030Aを東・ 西 雨 落 溝 と し、塀 は式 部 省 東 第 二堂 の建 物 心 とほぼ同 じ位 置 を通 り、溝 は第 二堂 の東・ 西 側 柱筋 とほぼ同 じ 位 置 を流 れ
SD4100Aに
合流 す る。 第205次調 査 で は、 兵 部 省 西 第 二 堂 の下 層 で 、 第二 堂 の東・ 西 側 柱 とほぼ 同 じ位 置 を流 れ る南 北 溝SD13900。 12998を 検 出 して い る。SD12998につ いて は、第 175次 調 査 で 第2堂
の さ らに北 方 に延 びて い る こ とが確認 され て い る。兵 部省・ 式 部 省 下 層 で確 認 され た これ らの南北 溝 は、 壬 生 門 を挟 ん で左 右 対 称 の位 置 にあ り、 この こ とか らす る と、兵 部省 の調 査 で は見 つ か って い な いが、SD13900と 12998の 間 に も、壬 生 門 を挟 ん でSA14680と 対 称 の位 置 に南北 塀 が あ る と予想 で き る。 す な わ ち、奈 良 時 代 初 め に は これ ら2条 の南 北 塀 と東 西 塀SA1765。 14400と で、第2次
朝 堂 院 の南方 を大 き く区 画 して い た と考 え る ことが で き る。SD12998・ 13900間 の塀 は確 実 な もの が 見 つ か って い な い の で、両 溝 心 々間 の中心 を と り、 そ こに南 北 塀 を想 定 す る こ とにす る。 この よ う に して 、 各 南 北 塀 お よ び東 西 塀 と壬 生 門 との 関 係 を み る。 まず 、 南 北 塀 で はSA
14680と SD12998・ 13900間 の距離 が約
194.7m(550大
尺、1大 尺=194,7■ 550=0.354m)、
東 西塀SA1765の うちSD12998・ 13900間 の塀 か ら東 の部分 の長 さとSA14400
の長 さが と もに約
90.4m(255大
尺)、 SA1765と 14400の 間、 壬 生 門 の北 に あ た る 通 路 部分 の長 さが約14m(40大
尺)と
な り、 それぞれ大尺 で の完数値が得 られ る。この よ うに、SD12998 0 13900間 に南北塀 を想 定 す る ことで、奈良 時代初頭 の第 2 次 朝 堂 院 南方 にお いて、壬生 門 を 中心 とす る整 然 と した計 画 に基 づ く掘 立 柱塀 に
よ る区画 を描 き出す ことがで きる。 そ して、 そ の東 西 幅 は第
2次
朝堂 院 の東 西 よ り も若 干 広 くな って い る。SA14680の東 方 にお いて は、 これ まで の第32・ 155。 165次 調 査 にお い て 南 面 大 垣 に先 行 す る掘 立 柱 塀 の存 在 は確 認 され て い な い。 ま た今 回 の調 査 で は、
SA
14680が 南 面大 垣 心 の北約
85mま
で南下 して い る ことを確 認 した が、 これ が 南 面 大 垣 下 層 まで達 して い るのか は不 明 で あ る。 この区域 で注 目 され るの は、南 北 道 路SFl1960と そ の東・ 西側溝SDl1620 0 11970、 お よび第29次 調 査 で検 出 され て い次朝堂院
足 補区 次査 32調
図22 宮東南部区画計画
る
SD4575(4334か
)・ 4335であ る。 SD4575・ 4385は 時期 的 に は古 く考 え られ て お り、第32次調査 で は検 出 されて いないが、第29次調査 区を超 えて さ らに南 へ延 びて いると思 われ る溝 である。 この溝 の間 を南北道路 と考え、 これが南面大垣 の 北 約4.5mに あ るSD4100A(SF1761南
側溝)ま
で延 びて いた と仮 定 した場合、 そ れぞれの道路心 とSA14680お よび東面大垣(SA4340)心
との関係 をみ ると、非常 に興味深 い推定が導 き出せ る。 なお、SD4575・ 4335を 南 に延 長 して求 め た位 置 を、第32次調査 の遺構 と対照 して み る と、 そ の位 置 でSD4100が
わず か に北 へ張 りだ して い るのが認 め られ、あ るい は これが両溝 の延長 か とも思 われ る。 それ は と もか くと して、 ほぼSA14400の 東延長上 (国土 座 標X=‑145979)に
あ た る位 置 で のそれぞれの関係 は、 まず、SA14680と 東 面 大 垣 心 との間 が約143.3m(405
大尺)と
な り、1大尺=0.3538mの
値 が得 られ る。 これ は、SA14680と SD12998・13900間の塀 との距離、
194,7m=550大
尺 か ら導 き出 され た1大尺=0.354mと
ほぼ 同 じであ る。 また、SA14680と SFl1960心 との距 離 は約20.5m、 sFl1960心 とSD
4575・ 4335間の道路心 との間 は約107.Om、 sD4575・ 4385間の道路心 と東面大 垣 心 との距離 は約15.8mと な り、やや長短 が あ るが、側溝 の流路 の乱 れ な どを考 慮 す ると順 に60大尺、300大尺、45大尺 と見 る こ とが で き、大 尺 で の完 数値 が得 ら れ る。 この結果 と先 に第
2次
朝堂院南方 の区画塀 につ いて推定 した計画尺 とを あ わせて考 え ると、壬生門心か らSA14680ま で が275大尺(=255+20)、 SA14680
か ら東面大垣心 までが405大尺(=60+300+45)、
計680大尺 とな り壬 生 門心 か ら 東面大垣心 までの計画尺680大尺 に一致 す る。 この よ うに見 て くる と、 奈 良 時 代 初頭、SA14680と 東面大垣 の間 は、SFl1960お よ びSD4575・ 4335間 の道路 を計 画 的 に配 置 して、大 き く区画 していた とす る想定 が可能 となる。さて、今回の調査で も奈良時代前半 に遡 る式 部 省 の遺構 は、 いわ ゆ る式部 省 (奈良時代後半 の式部省
)の
区画内で は確認 で きなか った。 しか し、上 に述 べ た よ うな奈良時代初 めの壬生門を中心 と した整然 と した区画を想定 した場合、そ こ が全 くの空閑地 であ った とは考えに くく、む しろなん らかの役所などの施設があっ た とみ る方 が 自然である。 これまで も兵部省、式部省 の周辺 で は奈良時代前半 の「兵厨」墨書土器 や考課木簡 な どが出土 して お り、奈良時代前半 の兵部・ 式 部 省 が周辺 に存在 す ることを示唆 しているが、 とすれば、それ はこの区画内に存 在 し た可能性 があ る。 この区画内に奈良時代前半 の式部省があるな らば、今回発 見 し た式部省東前期役所 は式部厨 と考 え ること もで きる。
最後 に、上述 した区画塀 が南面大垣 に先行 す るとされ るのは、兵部省の西方 の 調査 でSA1765が 南面大垣建設時 に取 り壊 されたSCl1700よ りもさ らに古 い ことが 判 明 した ことによる。 ところで、第165次調査 の所 見 で はSD12030A・ 11990は
SD
4100Aに 合流 す るとされてお り、SA14680が 南面大垣 よ り古 い とすれ ば,宮内道 路 SF1761と 平城 Ⅱの土器 を出土す る南側溝
SD4100Aも
南面 大垣 に先 行 す る と見 な ければな らな い。 しか しSA1765と SCl1700と の切 り合 が認 め られ るの はSD12998 よ り西 の地点 であ り、SA1765の うちSD12998よ り東 の部分 がSCl1700取 り壊 し後 も残 った とす る可能性 は残 る。 これ らの塀 や溝 の存続時期 につ いて も、 さらに検 討 すべ きで あ ろ う。以上述 べて きた ことは、第
2次
朝堂院 の成立 に も関わ る問題 を含んでお り、今 後、近鉄線路 の北側で進 め られ る式部省お よび式部省 の東方域 の調査 により検証 し、明 らか に していかねばな らない重要 な課題 であ る。C/1ヽ
池伸彦)3 壬生 門北方 の調査
第224次1
は じめ に1987年以来、継続的 に発掘調査 を行 って きた第二 次朝堂 院南 方官衡 の調査 は、
近鉄線 の南側 につ いて は1991年6月 に ほぼ終了 した。 その結果 、壬生 門 の内側、
朝集殿院 との間で東西 に向 い合 う官行 の うち、西側 の官衛が律 令制下 の八省 の一 つ兵部省、東側が式部省であることが判 明 し、その規模や建物配 置が明 らか にな る とい う大 きな成果 をあげることがで きた。なかで も、兵部省東 門 と式部省 西 門 が礎石建 ちの八脚門であ り、壬生門か ら北 に続 く宮 内道路 に向 いた側 を正面 と意 識 していた ことが判 明 し (第206次、第220次調査)、 宮 内道路 が重 視 され て いた ことが注 目され る。次 に、壬生門北方 につ いて は、仮設 的な建物 や儀式 に関連 す る と思 われ る遺構 な どを検 出 し、多様 な利 用 を行 っていた ことが明 らかにな った
(第216次調査)。
ただ、 この地域 は官衡 の主要部 分 が近鉄線 で分 断 されて お り、
全体像 の解 明 には線路 の北側 の様相 を明 らか にす る必要がある。そ こで、今 回 は 第214次調査 の東隣地、第216次調査 (壬生 門北方
)の
北方、朝集 殿 院 との間 にあ た る部分 の調査 を実施 した。調査期間 は1991年 7月 1日 〜10月25日で、面積 は約 1600どで あ る。今 回 の調査 で は、第216次調査 と同様、兵部 省 と式 部 省 との間 に仮設 的 な建 物 や儀式 に関連 す ると思 われ る遺構 を検 出 し、朝集殿院の近 くまでの この地域 の利 用形態 が明 らか にな った。 また第216次調査 で は石包丁 の出土 やプラント・ オパー ル分析か ら弥生時代 の水 田遺構 の存在 を推定 したが、今回 は竪穴建物 や土坑 を検 出 し、平城宮造営以前 の状況 を知 る手 がか りも得 られた。