第 2 部 分析と検討
Ⅶ. 政策提言
存と幸福を確保すべきであるという考え方とがある。ヒト胚を保護することが人の尊厳を守る ことに通じるという考え方と、疾患等に苦しむ人々を救うための医療・研究、あるいは人の成 り立ちを知る発生の基礎研究の実施こそ、人の尊厳を尊重することであるという考え方が、対 立している。すなわち、ヒト胚に対する倫理観、道徳観、感情は様々であり、その多様性を認 めた上で、ヒト胚の使用と社会的受容を両立させる規制の在り方が模索されなければならない。
いずれにしても、個人を尊重しないところに人の尊厳、人間の尊厳があるはずもない。繰り返 し述べた通り、社会的規制は個人の生存と幸福に係る権利を故なく侵害しないように、社会的 受容の限界と個別的判断の余地も残した許容の可能性を適切に枠組みに取り入れる必要があ る。
ヒト胚使用の規制に関する社会システムを検討するに当たっては、以下のような点を勘案す る必要がある。
①規制は、保護されるべき個人の思想・良心の自由や、個人の生存・幸福追求の権利を尊 重すること。
②個別的な要求に応じて許容される科学技術の実施に関して、社会的受容の範囲の逸脱、
あるいは公益の侵害を生じないための監視・管理のシステムを有すること。
③規制ならびに社会的受容の範囲・基準は、国民の信託に基づき、その結論に理解・納得 が得られるような手続きであること。
par.80.社会的ガバナンスシステムの要件
適正な規制の実施には、①法律による拘束力を有すること。②学問・研究の自由が尊重され ること。③科学技術の進歩等に柔軟に対応できること。④社会的な信頼を得たルールであるこ と。⑤不必要に煩雑な手続き等で、実効性が損なわれることがないこと。⑥適切かつ継続的な 運用が行われること。などの点が挙げられる。
規制方式としては、査察や改善命令の権限は定められていても、それを適切に実施するシス テムがなければ意味をなさない。また、査察や、評価、審査等の手続きが、社会的な信頼をも って行われるために必要な、判断の場面における透明性の確保や、社会の意見を反映させるよ うなプロセスが明確とされていることが必要である。したがって、これらの機能を備えた制度 を考えなければならない。
規制における拘束性と非拘束性
生命科学技術に対する規制の方式は、例えば報告書案では、(1)法律に基づく規制(法律に 基づくガイドラインを含む)、(2)国のガイドライン、(3)学会等自主規制、の3方式に区別して いる。生命科学技術の規制の方式としては、拘束力を有し、かつ生命科学技術の発展や個別の 研究等の性質に即した柔軟性が求められているといえる。
本来、科学技術上の規制は、学問研究の自由の尊重からも、外からの押し付けではなく自律 的形式が望ましいといえる。さらに、どのような拘束力も、規定を遵守する自律的な態度がな ければ意味をなさない。生命科学技術では、特に、社会に対する影響力の大きさ、生命への直
接的な影響の可能性などから、社会への適切な情報の伝達、開示、説明責任が重要であると考 えられている。したがって、実施者が主体的に社会に対して「正直さと透明性」を示すという 観点から、適切に行われる自主規制には大きな意義がある。
しかし、ヒト胚の問題のように国内的にも国際的にも議論が分かれる重要な問題に関しては、
拘束力のある規制によって社会に対して適正な実施を保障すること、社会・国としてのスタン スが明示的であることが重要である。つまり、自主規制でありながらも、何らかの法的根拠を 有して、規制に係る学会等が強制加入の団体で懲戒などの強制力を働かせ得る形式でなければ、
十分な社会的信頼が得られないと考えられる(例えばドイツ、フランスの医師会など)。しか しながら、現時点では、わが国では、そのような強制加入の職能団体による拘束的な学会自主 規制の制度を、医療、生命科学技術の領域においては有していない(司法の領域では、弁護士 が必ず所属しなければならない弁護士会の制度がある)。さらに、例えば医学研究では医師、
非医師研究者、あるいは技術者、ときに大学院生等、実施に関与する対象者は単一ではない。
こうした実情から、倫理的・リスク的に社会への影響が重大な場合には、現状では学会自主 規制ではなく、拘束性のある方式で安全を確保することを社会から求められるといえ、その場 合、法的規制も考える必要がある。
また、例えば学会の自主規制が学会に所属する者を限定的に対象とするのに対し、行政(国)
のガイドラインの場合には、当該事項に関わる者一般が、対象とみなされるといえる。しかし ながら、ガイドラインには拘束性はないので、アウトサイダーを許すという点において、国民 一般に適用され、かつ、必要な場合に刑罰をも科すことが可能な法律とは異なることは言うま でもない。
アウトサイダーが容認される状況は、社会に対する安全の保障を困難にするばかりではなく、
科学技術というある側面において鎬を削る領域において、不公正な環境を作ることになる。善 意でガイドラインを施行するコミュニティーに参加することで、社会的責任を積極的に果たす ことが、他方、手続的、時間的、労力的コストにおいては、必ずしも、個別に生じる研究上、
産業上の競争を有利にするばかりではない場合があることも否定できない。社会全体の利益を 考えた社会制度を適切に運用していくには、正しい選択に向かうインセンティブが働く制度で あることも必要であるといえる。さらに、規制が重要かつ必要であるからこそ、コストをかけ て社会システムを構築して、すべての実施者に参加を促すのであるから、その枠組みとして、
明確な法律ではない形式を主張する根拠を見出すことは困難である。
以上において、強制加入職能団体のような拘束的な側面をもつ自主規制の観点(自律性の重 視)に即した規制方式としては、現状のわが国において取り得る選択として、例えば、ヒト胚 の取扱いにおいて提言したように、法的に「許可なく使用することができない」と規定するこ とで、すべての実施者が制度的にはもれなく規制の範囲に包含される制度を実現する選択があ る。かつ、ライセンス取得者として成立するコミュニティーにおいて、然るべき法的権限を受 けて、自律的かつ社会の信頼を得る形で、ガイドラインを用いた規制、及び懲戒(許認可の取 り消し等)を行う方式を、規制技術的に考慮すべきである。
par.81.社会的なガバナンスにおける法とガイドライン
わが国では現在、臓器移植と人クローンを除けば、指針・ガイドラインの形式で、生命科学 技術に関わるルールの枠組みが提示されている。
しかしながら、上述(par.80)のようにガイドラインは法的拘束力はなく、自主規制の支援 という枠組みを出るものではない(注165)。また、生命倫理に関わる重要事項に対しては、立法 による規制形式にすべきであるとの議論もなされている(注166)。
クローン法及び特定胚指針は、法律と、法律に基づく指針とによって包括的に対象を規制す る形式となっており、法律とガイドラインの連携の一型といえる。 [参考-10]を参照。
法律とガイドラインのそれぞれの特性を生かした社会的ルール(静的な規制の枠組み)と、実 効的な管理を実現する管理システム(動的な規制の枠組み)の両者を考え合わせて、生命科学 技術発展と社会の要請との双方に応える社会制度の枠組みの在り方を検討する必要がある。
社会のルールを新たに築く際には、国会の立法権限に委ねるという理念を原則とすることが 前提である。硬直的であると考えられがちな法律の柔軟性や即応性に関しては、法律も適時的 に定めることが可能であって、改訂もできるのであるから、科学技術が関連する規制も法律で 定めるべきである、という考え方がある。確かに、社会的受容のために社会からの信託を受け て制定される法律による規制が原則ではある。しかし、法規制それ自体のみでは、規制の実効 性を保障することはできず、また、実施の現場でどのように、運用されているかの実態を把握 することもできない。また、科学技術の進歩は、立法過程の対応力を遥かに凌ぐように思われ る。したがって、規制の実効性を確保する意味からは、法的枠組みに加えて、科学技術と社会 を仲介して、安全の確保やリスクの管理を軸とした規制の実施に携る運用、管理の仕組が必要 と考えられる。
実効性の確保のためには、運用・管理に係る動的な機能を有するシステムの整備と、やはり、
柔軟で即応的なガイドラインの活用とを、併用する必要がある。法的根拠を有する権限、当該 専門事項への対応能力等において限界のある既存の行政の裁量権に基づく規制は縮小し、社会 的要請に的確に応じる新しい規制体制の整備、構築が求められている(注168)。
生命科学技術の進歩や社会の変化に適切に対応するためには、ガイドラインの運用は柔軟に 行う必要がある。例えば、ガイドラインに沿った申請事項の許可のほか、ガイドラインに沿わ ない実施に対しても、個別審査で適否を判断する運用が必要である。これは恣意的に運用する ということではなく、社会から信頼を得た機関が、ガイドラインを明示しつつも、そこでの判 断に収まらない事例を適切に個別的に判断するということである。また、必要に応じてガイド ラインの改定を適時的に行うということである。
一部の法律論の立場から、従来からの「許可制」「届け出制」という枠組みの在り方から、
従来、「原則禁止、例外許可」といわれる許可制を、厳しい実施の制限とする意見がある。適 正な実施を目的とする、資格制度に類似した法的な審査の枠組み及び課題の個別対応の審査で あり、過剰に制限的となるという評価は妥当ではない。つまり、適切な実施の確保を目的とす る中立的な枠組みを構想すべきであるといえる。