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政治中心と文化中心の二元性

ドキュメント内 江戸儒学の近代学問論的展開について (ページ 32-42)

第一章 内藤湖南の近世文学史論に関する研究

3. 政治中心と文化中心の二元性

「江戸が天下文化の中心と為りしは、勢豈に元禄宝永より漸して、享保元文の際に全く 成る歟」(全集1巻、P.44)

湖南のこの論述には、徳川家が幕府を開いて、武家は政権の実権を握ったことより、政治 の中心が江戸の方にあったが、元禄になって初めて江戸が文化の中心となった。ということ で、江戸初期には東は政治、西は文化という中心二元性が現れた。これまで述べた文化中心 の形成、及び文化中心の移動には、「時代」、「風土」や中心地相互の関係などが文化的要素 とされて働きをしたと把握したため、政権中心の確立が文化中心の成り立つのに欠けない

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要素であると思わない。つまり、政治中心は必ずしも文化中心と同時に確立するとは限らな い。そして政治中心は必ずしも文化中心であるとは限らないと言えよう。

したがって、同一の歴史的な空間においては、政治中心と文化中心が両立して、二元構造 で多様な社会環境を構築することも可能であろう。そういう意識をもって、文化の歴史的流 れをもっと客観的に観察できるようになると考える。

(二) 地勢二元中心論

「儒学 下」は主に緯、即ち「土」の視点から近世文学を広く見極められて、近世文学の 地勢図が開かれてきた。まず目を引かれるのは中心地となって栄えていた東西二京の風土 である。また、地方における文学的発展はその地勢図を点綴して、江戸文学を彩った。さら に、この両者は東西二京の中心地位を築いた要因であると言うことができ、即ち、その中心 確立の二元であると思う。そこで、本論文は中心と地方という二つの角度から、さらに近世 文学の全貌を読み解いてみたい。

1. 東西二京の風土

この前に説明した「風土」には、土のことだけではなく、土における人間の諸活動や、時 間の概念も取り入れているため、すべてをまとめて立体的に考察する必要がある。

(1)地理的優位性

「わが邦の地形、…沃野極めて乏し、関東八州は其の最も大なる者、畿内諸国、地力厚 からずと雖も、河川縦横、又大裏海を控へ、漕運の便、此より便なりとするは莫し、故 に此の二方土なる者は、天下民物の匯集する所の處、文化の中心、彼に移り此に轉ずる も、竟に此の二方土の外に出づる能はざる者は之が為なり」(全集1巻、P.54)

「…平安の都には幽雅の山河いと多く、霞を分けて花にむせび、錦を践みて紅葉に狩り、

公けの暇もて心を慰め給うべき勝景風情に乏しいからぬをや」28

「…其(徳川氏)29家臣は…固結して離るべからず、此固結せる一体を以て関東形勝の 地に據りて以て海内英雄の名誉心を鎮圧せんとしたり」30

京都は川が多くて水運を主とした水上交通網が発達していた。都が奈良から遷都してか ら、長い間政治・文化中心として栄えていた。江戸も肥えた土が一番広く分布している関東 に位置している。そういう恵まれた地理的条件と自然環境は、ほかの地域に取って代わられ ない絶対的な優位性がある。そして、中心地とつながっている周辺地域が中心地に影響され

28 田口卯吉 『日本開化小史』(岩波書店、19649月)、P.39。

29 筆者による。

30 田口卯吉 『日本開化小史』(岩波書店、19649月)、P.133。

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て、京都は大阪をはじめとする畿内諸国、江戸は関東八州など、自身が繁栄していきながら、

また中心をささえ、中心・地方という関係の基盤をよりいっそう強固した。

(2) 文化的独自性

一般的に言うと、地理的優位性はもちろん、それ自身の文化的独自性を有している以上、

本当の意味での文化の中心であろう。「儒学 下」の論述によって、時代、人間、学問の発 明、気風などがその風土の独自性を醸成した文化的要素であると把握しようとする。

① 地気の歴史的蓄積

「地勢の人文と相関るや、或は地勢因たり、而して人文果たり、或は人文因たり、而し て地勢果たり」(全集1巻、P.117)

歴史の流れのなかで、普通、有利な地勢は文化的進展に大いに役に立つ一方、発展してき た文化は所在している地域の発展を成し遂げ、或は新たに有利な地理的条件を図るという ことになる。そのため、文化中心の確立と定着は地勢と人文の相互作用の結果であろう。

奈良は文化が繁栄であったが、盆地の地形では統治のゆきわたりや文化の普及が難しか ったため、豊かな自然環境や便利な航路を有している京都に遷都した。それから続々と伝来 してきた文化は文明の勃興を促進し、文学が成熟して、京・阪が文化中心となった。でも、

盛者必衰。京都のような地理的に広くない場所では長年にわたって蓄積された人的、物的資 源が飽和状態に達して、もう受け容れられなくなった。そして、王権は衰弱していったとと もに、武家政権は関東の地勢によって誕生したため、文化の中心が引き続き東へと移ってい った。平、源氏や足利氏を経て、徳川氏が天下の実権を握った。幕府は関東を政権中心に据 えて、京都にある公家政権と両立していた。京都から遠く離れた関東は平野なので、広がる 地形となっていて、四方からの敵を抵抗できて、さらに広い範囲に勢力を張ることもできる。

関東を占めると、政治の中心になると思われる。したがって、政治の中心になった江戸は、

気運が高まりつつあり、人々の目を引くようなことになった。

② 人間の作為

人々の活動は文化中心の形成において最も重要なのであると思う。各時期に活躍してい た儒者とその研究に関しては、前の「近世文学の螺旋循環進化」には詳しく論じたが、それ はただ縦の時間の流れによって人間活動を観察したのである。ここでは地域を通じて、もと より広い視野から東西二京における文化の担い手が文学の動向に与えた影響を検討してみ たい。

普通、文化の担い手とは、学者のことだと思われる。しかし、時の流れの中で一歩下がっ て遠くから眺めてみれば、文化中心期においても、段階によって文化を進める人も変わって いくのが分かる。

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「…官私の学、光既に虞淵に没して、…五山僧徒が禅餘に渉猟する、桂庵、文之、梅軒、

如竹が乱世に降説する…」(全集1巻、P.41)

「…洛は王臣の外、唯工賈之に居る、人に恒禄なし、唯末を是れ逐ふ…儒生の其の間に 寄する、亦生を為し難し、則ち舌耕肆を開き、百千群を成し、日給するに遑あらず、…

其の講業を以て生を為し…」(全集1巻、P.42)

鎌倉末期、禅僧は経書に触れ始め、文学の転落していた世に活躍していて、学問の草創に 役に立った。惺窩以降、伊藤仁斎、山崎闇斎、中江藤樹などが出、学問分業が始まって、学 風を一変した。そして、権力者の恩恵を受けなかった儒者たちは生活のために、私塾を開き、

庶民を対象として広く弟子を募った。それゆえ、学問がより一層世に広めていって、京都は 程・朱の学の中心として隆盛になった。それから見れば、仁斎のような関西の儒者は、無位 無官の「町儒者」(全集1巻、P.52)がほとんどで、かれらの弟子と同じように、庶民と認め られてもいいだろう。したがって、京中心の百年間にわたって文化活動を行っていたのは主 として庶民で、即ち、庶民は当時文化の担い手であったと考える。

「平安の都に移り給ひてより遊惰の気益々甚しく、文学より文字より其他 技芸に至 るまで、漸く艶麗になりて柔弱の性を含めり」(全集1巻、P.52)

京都の人々は自然環境にも文化芸術にも誇りを持って、美しい物を追及したり、学問や詩 文に熱中したりして、それ以外のことにあまり関心を持っていなかった。その結果として、

文運が進んでいって、学者たちは学問への考えがわりには単純素朴であり、学風が清節高雅 であった一方、権勢や政治と遠くて、「…習ひて以て意と為し、見る所既に卑し…」(全集1 巻、P.42)ということで、柔弱に見えた。しかし、このように醸成してきた気風のなかで、

学者は学問に専念でき、宋学の研究が大成するに至って、京も当時の文化中心として認めら れる。

また、その文学の気風が朝廷の実力者にも深い影響を及ぼした。

「…後水尾帝は三宅亡羊、松永昌三等を召し、後光明帝は朝山意林庵を召し、靈元帝は 仁斎の門人北村可昌を召して、経を進講せしめたまふ、就中後光明帝最も儒術を崇奉し たまひ、御製の序を惺窩文集に賜て之を刊行せしめたまふ、皇弟尚仁親王、亦学を好み、

栗山潜鋒、嘗て其の侍讀たり、保建大記を著して之を獻ぜり、其の他舊儀を興復し、故 例を修備すること、慶長以来、一二百年、史筆を絶たず」(全集1巻、P.42)

ということで、京中心の時期、中下層の庶民を中心となって、上層の方向へと積極的に推 し進められていったのが当時文学の実態であろう。

「…関東の諸国は京都よりも程遠く、往復の便利も悪しかりしかば、柔弱の弊風に染み

ドキュメント内 江戸儒学の近代学問論的展開について (ページ 32-42)

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