革
緒 胡 言
服 騎 射 と い う 一 種 の 変 革 は
、 戦 国 期 の 人 々 が 春 秋 期 ま で に 形 成 さ れ た 中 原 の 文 化 の み に
囚 わ れ ず
、 良 い 物 を 積 極 的 に 採 り 入 れ
、 発 展 し て い く 様 子 を よ く 物 語 る も の で あ る
。 そ し
て
、 こ の 変 革 は ま た
、 後 の 秦 漢 と い う 統 一 帝 国 の 形 成 段 階 に お い て
、 中 原 民 と 非 中 原 民 で
あ る 中 国 北 方 民 と の 関 係 に つ い て 考 察 す る 際 の 材 料 に も 為 り 得 る
。 従
来 の 研 究 で は
、 胡 服 騎 射 は 軍 事 的 な 改 革 と し て 捉 え ら れ て き た
1
。 し か し 近 年
、 靳 生 禾
氏 が 胡 服 騎 射 と い う 行 為 を 単 に 戦 法 の 変 革 と し て の み 扱 う の で は な く
、 中 国 北 方 民 と の 外
交 関 係 な ど も 含 め た 変 革 で あ る と し た
2
た め
、 胡 服 騎 射 は 複 合 的 な 改 革 と し て 捉 え ら れ
132
は じ め て い る
。 特 に 魏 建 震 氏 は
、「 胡 服」
す る こ と に よ っ て 北 方 民 と 友 好 関 係 を 築 き
、「 騎 射」 と
い う 趙 を 軍 事 大 国 へ 導 く た め の 技 術 の 導 入 を 目 的 と し た 改 革 と し て 胡 服 騎 射 を 捉 え
、 そ の
改 革 の 要 点 を 服 飾 礼 俗 に 関 す る
「 胡 服
」 に 置 く
3
。 こ の 研 究 は
、 胡 服 騎 射 を 服 飾 礼 俗 と 関
連 付 け た 見 解 と し て は 斬 新 で あ る が
、 そ の 目 的 が 趙 の 軍 事 的 強 化 と す る 点 に つ い て は
、 従
来 か ら の 研 究 に 従 っ た も の で あ る
。 一
方
、 日 本 に お い て も
、 橋 本 明 子 氏 が 魏 氏 の 見 解 を 受 け
、『
史 記
』 巻 四 三 趙 世 家 の 記 述 上 に
お い て
「 胡 服
」 と
「 騎 射
」 が そ れ ぞ れ 言 及 さ れ て い る 回 数 に 注 目 し
、 胡 服 騎 射 が
「 胡 服
」 を
焦 点 と す る 改 革 で あ っ た と す る
。 ま た
「 胡 服
」 の 役 割 が
、 趙 が 周 王 朝 の 礼 秩 序 か ら 離 脱 し
、「
胡 族
」 へ 歩 み 寄 り を 示 し て い た と す る
4
。 そ の 一 方 で 橋 本 氏 は
、 史 料 上 に こ の 改 革 以 降
、 趙 軍 が 強 化 さ れ た こ と を 明 確 に 示 す 記 事 が な い こ と か ら
、「
騎 射
」 の 効 用 に つ い て 疑 問
133
を 呈 し
、 従 来 の 軍 事 的 改 革 と す る 説 を 否 定 し た
。 し か し
、「
騎 射
」 と 同 時 に 述 べ ら れ て い る
「 舟 輯
」 と い う 言 葉 に つ い て は
、 全 く 検 討 さ れ て い な い こ と か ら
、 軍 事 的 改 革 説 を 否 定 す る
に は 不 十 分 で あ る と 思 わ れ る
。 こ
の よ う に 先 行 研 究 者 の 多 く が
、 胡 服 騎 射 の 改 革 の 意 義 を 述 べ る 場 合
、 主 に
「 胡 服
」 と
「 騎 射
」 を 分 け
、 ど ち ら に 重 点 が 置 か れ た 改 革 で あ る の か を 中 心 に 考 察 を 行 な っ て き た
。 こ
れ は 林 巳 奈 夫 氏 や 橋 本 氏 の 論 に も 見 ら れ る 風 潮 で あ る
5
。 し か し な が ら
、 あ ま り に
「 胡 服
」 及 び
「 騎 射
」 に 囚 わ れ 過 ぎ
、 こ の 改 革 を 正 確 に 捉 え る 事 が 出 来 て い な い
。 こ
の よ う な 研 究 状 況 の 中 で
、 近 年 出 版 さ れ た
『 戰 國 會 要
』 に お い て 胡 服 騎 射 は
、 商 鞅 の 変
法 等 の 代 表 的 な 変 法 改 革 記 事 と 共 に
、 巻 一 七
禮 七 嘉 禮
更 法 一 に 採 録 さ れ て い る
6
。 胡
服 騎 射 改 革 の 開 始 時 期 で あ る 紀 元 前 三
〇 六 年
7
よ り 以 前
、 戦 国 の 各 国 に お い て は 国 君
134
に よ っ て 有 能 な 人 材 が 登 用 さ れ
、 次 々 と 変 法 改 革 が 行 わ れ
、 国 力 の 増 強 を 図 ら れ た
。 こ れ ら
戦 国 初 期 に 行 わ れ た 変 法 改 革 の 中 で
、 最 も 成 果 を 挙 げ た の が
、 秦 に お け る 商 鞅 の 改 革 で あ
る
。 商
鞅 は 土 地 制 度 を 中 心 と し て 改 革 を 行 い
、 秦 に よ る 統 一 の 基 礎 を 築 い た
。 こ の 商 鞅 に よ る
改 革 は
、 武 霊 王 に よ る 胡 服 騎 射 の 改 革 の 約 五
〇 年 前 に 行 な わ れ た が
、 そ の 様 子 を 記 し た
『 史 記
』 巻 六 八 商 君 列 伝(
以 下
「 商 君 列 伝
」)
や
『 商 君 書
』 更 法 篇(
以 下
「 更 法 篇
」)
の 記 述 と
、『
史 記
』 巻 四 三 趙 世 家(
以 下
「 趙 世 家
」)
や
『 戦 国 策
』 巻 一 九 趙 策 二(
以 下
「 趙 策 二
」) に
お け る 胡 服 騎 射 の 改 革 の 記 述 表 現 に は 類 似 点 が あ る
。 こ の 記 述 表 現 の 類 似 問 題 に つ い て は
、 中 国 に お い て は 南 宋 の 鮑 彪 が
「 趙 策 二
武 霊 王 平 晝 閒 居
」 の 注 に お い て
、「
商 君 列 伝
」 と
の 記 述 表 現 に お け る 類 似 を 指 摘 し
、 列 伝 は 胡 服 騎 射 の 改 革 を 節 録 し て
、 商 鞅 の 変 法 改 革
135
に 適 合 さ せ た も の と の 解 釈 を し て い る
。 し
か し な が ら
、 前 述 し た 何 れ の 先 行 研 究 に お い て も
、 改 革 の 詳 細 を 記 す
「 趙 世 家
」 及 び
「 趙 策 二
」 の 史 料 問 題 に つ い て は 殆 ん ど 考 察 を 加 え る こ と な く
、 こ れ ら 史 料 を 用 い て 論 を 構
築 し て い る
。 そ こ で ま ず
、 既 存 史 料 に お け る 問 題 点 を 確 認 し た 上 で
、 戦 国 趙 に お け る 胡 服
騎 射 改 革 と 華 夷 共 生 社 会 の 関 連 に つ い て 述 べ る
。 第
一 節
変 法 記 事 と 胡 服 騎 射 記 事 の 相 違 点 胡
服 騎 射 の 記 述 が 見 ら れ る 基 本 史 料 は
、『
古 本 竹 書 紀 年
』、
『 史 記
』 巻 一 一
〇 匈 奴 列 伝(
以 下
「 匈 奴 列 伝
」)
及 び
「 趙 世 家
」 そ し て
、「
趙 策 二
」 の 四 史 料 で あ る
。 こ の 中 で
『 古 本 竹 書
136
紀 年
』 は 周 隱 王 十 三 年
( 紀 元 前 三
〇 二 年
) の 条 に
十 三 年
、 邯 鄲
、 吏 大 夫 の 奴 に 命 じ 九 原 に 遷 り
、 將 軍
・ 大 夫
・ 適 子
・ 戍 吏
、 皆 貉 服 す
。
8
と い う よ う に 邯 鄲
、 つ ま り そ の 地 に 都 を お い て い た 趙 が
、 貉 の 服 つ ま り 胡 服 を 導 入 し た と 記
述 さ れ て い る の み で あ る
9
。 ま た
、「
匈 奴 列 伝
」 を 見 る に
、
趙 の 武 靈 王 も ま た 俗 を 變 じ て 胡 服 し
、 騎 射 を 習 い
、 北 の か た 林 胡
・ 樓 煩 を 破 る
。
1 0
と あ る よ う に
、 胡 服 騎 射 を 導 入 し 北 方 の 林 胡
・ 樓 煩 を 破 っ た こ と は 記 さ れ て い る が
、 詳 細
137
に つ い て は 深 く 触 れ ら れ て は い な い
。 そ の た め 従 来
、 胡 服 騎 射 研 究 を 行 な う 際 に 主 に 用 い ら
れ た 史 料 は
、 そ の 改 革 の 詳 細 を 記 す
「 趙 世 家
」 及 び
「 趙 策 二
」 で あ る
。 し
か し
、 前 述 し た よ う に こ の 二 つ の 史 料 に は 問 題 が あ る
。 そ の 問 題 と は
、「
商 君 列 伝
」 及 び
「 更 法 篇
」 と の 記 述 表 現 の 類 似 性 で あ る
。 こ の 類 似 点 の 具 体 例 と し て は
、
【 胡 服 騎 射 記 事
】 疑
事 無 功
、 疑 行 無 名
。
「 趙 世 家
」・
「 趙 策 二
」(
肥 義 の 発 言)
【 変 法 記 事
】 疑
行 無 名
、 疑 事 無 功
。
「 商 君 列 伝
」(
商 鞅 の 発 言) 疑
行 無 成
、 疑 事 無 功
。
「 更 法 篇
」(
商 鞅 の 発 言)
138
等 が 挙 げ ら れ る
。 前
述 し た よ う に
、 南 宋 よ り 注 目 さ れ て き た 史 料 問 題 は
、 現 在 で は 胡 服 騎 射 研 究 を 行 な う 際
に お い て さ え あ ま り 注 目 さ れ て い な い
。 そ の 中 で
、「
趙 世 家
」・
「 趙 策 二
」・
「 商 君 列 伝
」・
「 更 法
篇
」 の 四 つ の 史 料 を 詳 細 に 比 較 し
、 考 察 を 行 な っ た の が
、 佐 中 壯 氏 で あ る
1 1
。 佐 中 氏 は
、 史 料 に お け る 類 似 箇 所 を 戦 国 時 代 に お け る 主 君 と 臣 下 の 間 に お い て
、 し ば し ば 用 い ら れ
て い た 常 套 句 と し て 解 釈 す る
。 し か し 佐 中 氏 以 降
、 胡 服 騎 射 を 考 察 す る 際 に
、 こ の 史 料 問
題 に つ い て 充 分 に 触 れ た 研 究 は 見 ら れ な い
。 ま た 橋 本 氏 も
、 既 に 藤 田 勝 久 氏 に よ っ て 史 料
的 信 頼 性 が 一 定 程 度 確 認 さ れ て い る
1 2
と し
、「
趙 世 家
」 の 記 事 を 中 心 に 検 討 を 進 め て い る
。 し
か し
、 商 鞅 変 法 改 革 を 考 察 す る 際 に は
、 従 来 指 摘 さ れ て き た 胡 服 騎 射 改 革 記 事 と 商 鞅
139
変 法 改 革 記 事 の 類 似 点 に つ い て は
、『
商 君 書
』 の 成 立 問 題 と い う 角 度 か ら 度 々 考 察 が 行 な わ れ
て き た
。 中 で も 近 年
、 詳 細 に そ の 問 題 に つ い て 考 察 を 行 な っ た の は
、 鄭 良 樹 氏 と 好 並 隆 司
氏 で あ る
。 鄭 氏 は 主 に
「 趙 策 二
」 と
「 更 法 篇
」 と の 類 似 点 に 注 目 し て い る
。 氏 は
「 趙 策 二
武 霊 王 平 晝 閒 居
」 で 武 霊 王
・ 肥 義 両 者 と 公 子 成 の 議 論 に 注 目 し
、用
語 と し て
、「 服
」・
「 禮
」・
「 俗
」 の 順 で 多 用 さ れ
、「
教
」 と
「 道
」 で ま と め ら れ て い る と 指 摘 す る
。 そ し て そ の 上 で
、 こ
の 類 似 点 に つ い て は
、 的 確 に 一 字 の み を 変 え て い る 部 分 が 多 く あ り
、 そ れ を
『 商 君 書
』 か
ら
『 戦 国 策
』 が 引 用 し た 結 果 と す る
1 3
。 そ し て 鄭 氏 の 説 を 受 け 吉 本 道 雅 氏 は
「 更 法 篇
」
の
法 は
、 民 を 愛 す る 所 以 な り
。 禮 は
、 事 に 便 す る 所 以 な り
。
1 4
140
と い う 記 述 と
、「
趙 策 二
武 霊 王 平 晝 閒 居
」 の
夫 れ 服 は
、 用 に 便 す る 所 以 な り
。 禮 は
、 事 に 便 す る 所 以 な り
。
1 5
と あ る 記 述 を 比 較 し
、「
更 法 篇
」 が
「 法
」「
禮
」 の 変 法 の 対 概 念 を 用 い る の に 対 し て
、「
趙 策 二
」 が 更 法 の 構 文 を 流 用 し つ つ 胡 服 を 論 ず る た め に
、「
服
」「
禮
」 と い う 本 来 一 対 に な り よ う
の な い も の を 無 理 に 対 に し て 不 自 然 を 呈 し て い る と 述 べ る
1 6
。 そ
の 一 方 で
、 好 並 氏 は 鄭 氏 の 説 に 否 定 的 な 立 場 に 立 ち
、 鄭 氏 の 説 が
、 武 霊 王 の 胡 服 騎 射 の
改 革 が 礼 制 の 変 更 で あ り
、 変 法 で は な い と い う 氏 の 見 解 が 潜 ん で い る と し て
、 改 め て 胡 服
騎 射 に つ い て 若 干 の 考 察 を 行 な っ て い る
1 7
。
141
こ の 考 察 の 中 で
、 好 並 氏 は 胡 服 騎 射 の 目 的 を 軍 事 的 変 革 の 試 み で あ っ た と し つ つ
、「
趙 世 家
」 武 霊 王 二 七 年(
紀 元 前 二 九 八 年)
の 条 の
二 十 七 年 五 月 戊 申
、 大 い に 東 宮 に 朝 し
、 國 を 傳 え
、 王 子 何 を 立 て 以 て 王 と 為 す
。 王
廟 見
の 禮 畢 え
、 出 で て 朝 に 臨 む
。 大 夫 悉 く 臣 と 為 り
、 肥 義 を 相 國 と 為 し
、 并 せ て 王 に 傅 た
り
。 是 れ 惠 文 王 為 り
。 惠 文 王 は
、 惠 后
呉 娃 の 子 な り
。 武 靈 王 自 ら 號 し て 主 父 と 為 る
。
1 8
と
い う
、武
霊 王 か ら そ の 子 の 恵 文 王 へ 王 位 が 譲 ら れ た こ と を 記 す 一 文 を 挙 げ
、「 大 夫 悉 為 臣
」 と
あ る 点 に 特 に 注 目 し て
、 旧 来
、 周 代 封 建 身 分 で あ っ た 大 夫 が 悉 く 臣 化 し
、 王 と 臣 と が 官
142
僚 体 制 に 編 成 替 え さ れ た と 解 釈 す る
。 そ し て こ れ を 趙 に お け る 変 法 と 解 釈 し
、 そ の 一 連 の 流
れ の 中 に 胡 服 騎 射 を 置 い て 考 え る
。 そ
し て
、 胡 服 騎 射 を 趙 に お け る 変 法 改 革 の 一 部 と し た 上 で
、「
更 法 篇
」 及 び
「 商 君 列 伝
」 に
お け る 商 鞅 の 名 称 表 記 の 比 較 を 行 っ て い る
。 そ こ で 好 並 氏 は
、「
更 法 篇
」 で は 商 鞅 は 常 に
「 公 孫 鞅
」 と い う 魏 国 に お け る 呼 称 が 用 い ら れ て い る こ と に 対 し
、「
商 君 列 伝
」 に お い て は
「 公 孫 鞅
」・
「 衛 鞅
」・
「 商 君
」 と い う 三 種 の 呼 称 が あ り
、 そ れ ぞ れ 魏 在 住 時
・ 入 秦 以 降
・ 封 邑
の 時 期 に 対 応 し て 用 い ら れ て い る こ と を 指 摘 す る
。 そ し て
、 こ れ は
『 商 君 書
』 が
、 後 人 の
作 で あ る 証 で あ り
、 文 章 に 類 似 が 見 ら れ る の は
、「
更 法 篇
」 が
「 趙 策 二
」 に 記 さ れ て い る 胡
服 騎 射 を 商 鞅 変 法 と 重 ね 合 わ せ て 編 集 し た と す る
。 こ
の 好 並 氏 の 説 に 依 れ ば
、 胡 服 騎 射 は
『 商 君 書
』 編 集 者 に と っ て も 実 に 変 法 的 な 改 革 で