、、−
ロ 西 ア 心
ス 洋
ガ )系
.A;ミ五六
他力信仰の性格
ll
御本典と和讃について||
長 田 智
︵
龍
誠 照 寺 派
︶ 抑も浄土真宗立教開宗の根本聖典たる教行信証文類は真仮に亘り一部六巻あるけれども︑
一一
一局
でい
えば
他力
信仰
宣布の書と云えるであろう︑これ信巻に特に別序を設けられた所以である︒そこで他力信心︵真実信楽︶
の思
想の
根源は本より三経七祖に依られたには相違ないが︑
その中心となるものを概観することから本論には入ろうと思 ぅ︒まず木典の教巻に﹁それ真実の教を顕わさば則ち大無量寿経是れなり
L
とあ
って
︑
その正依の経大経には弥陀
①
浄土の因果と衆生往生の因果とが説かれ︑所謂本願為宗︑名号為体を詮わした経典といわれる︒その第十八願には
②
至心信楽欲庄の三信と︑乃至十念の行を衆生往生の因と誓われている︒その三信とは他力︵願力廻向︶の信心であ
り︑十念の行とは称名である︒こh
を以て正信備には﹁木願名号正定業︑至心信楽願為因﹂と述べ給う︒また第十 八の願文を受けて同成就文には﹁諸有の衆生その名号を聞きて信心歓喜し乃至一念せん︑至心に廻向したまえり︒
彼の固に生まれんと願わば︑すなわち往生を得︑不退転に住せん︒唯五逆と正法を誹諒するをば除かん﹂と︒如来
他力信仰の性格
五.
4三
他力
信仰
の性
格
五八
まさだね
によって廻向せられた他力信心が凡夫往生の正因であることが︑釈尊によって証明せられたのである︒宗祖は﹁乃 至一念﹂を信の一念とし︑﹁至心廻向﹂を至心に廻向し玉へりと訓まれて願力の賜物と戴かれた︒更に本典の三経
じん
一異釈には︑大経の三信と観経の三心と小経の一心と違いありのの聞いに答えて﹁一二経の大綱顕彰隠密の義ありと 雄も︑信心を彰わして能入となす﹂と言い︑﹁今三経を按ずるに︑皆金剛の真心を以て最要と為せり︒
真心即ち是
れ大信心なり云々﹂︵化巻本︶と結論せられた︒また天親の浄土論における世尊我一心の一心を︑論主自替の詞︑行 者帰命の一心とし︑曇驚はこれを行者のおこす自力の一心ではなくして︑全く他力廻向の信心とせられた︵論註︶︒
し よ じ ん
唐の善導は観経疏︵散善義︶に観経の三心︵至誠心︑深心︑廻向発願心︶を釈し︑その深心釈に云く
﹁深心とは即ち是れ深く信ずるの心なり︒亦二種あり︑
とのかた
夫︵現在︶︑膿劫より己来常に没し常に流転して︵過去︶︑出離の縁有ること無し︵未来︶と信ず︒二つには決定
か お も ん ば か
して深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を撰受し玉うこと︑疑いなく慮りなく彼の願力に乗ずれば定んで往
一つには決定して深く︑自身は現に是れ罪悪生死の凡
生を
得と
信︑
ず﹂
と︒
一往二種深信に分けて説かれ︑宗祖はこの文を愚禿妙下巻に引用して︑善導は二種深信を説かれているが是は本よ
え 乙
り二種一具のものであって︑他力廻向の金剛不壊の信心であることを一不されて﹁今斯の深信は他力至極の金剛心︑
えん一乗無上の真実信海なり﹂と布約されている︒
なお此一か蛇足ではあるが他力信心について補足すれば︑他力信心とは叉利他真実の信心とも云われ︑その利他と
は曇鷺の他利々他の深義に某一ずくもので︑利他とは他に利益せられるとの意味である︒他力信心の他力の語につい
ては
行巻
に﹁
他力
と一
一一
一口
ふは
如来
の本
願力
也
Lとあって︑絶対帰依の心である︒帰依することをお聖教には帰命と言
われているが︑帰命に就ては善導の有名な六字釈がある︒摂論家の唯願無行の非難に対して善導は六字釈を以て対
決せられ︑願行具足の故に往生必定を論証したその六字釈に﹁南無と一一昌うは帰命なり︑亦発願廻向の義なり云々﹂
① め し
︵玄義ハ刀︶という︒即ち南無の二字は帰命の意である︑その帰命の意を宗祖は本願招喚の勅命と解し︑如来の召に
すがたかなうことhせられて︑信心獲得の相と味わh
れた
ので
ある
︒
よりとζろん
以上他力信仰の典拠について経論釈の諸家に一民って窺ったのであるが︑次に他力信仰の性格︵内容︶に関して少
しく検討を加えよう︒
それに就て今は親驚聖人の信仰体験の率直なる感情とも云うべき本典の三哉釈義と︑宗祖の
最後の著作とも考えられる正像末和讃の﹁いかYせん﹂の三首の和讃を対照して見るならば︑そこに他力信仰の性
格とも云うべきものが明確に浮かびあがって来ると思われる︒本典の三哉釈義とは総序の誠哉と︑
信巻末の悲哉
と︑
化巻
本︵
後序
︶
の慶哉の文を指すのであるが︑夫々順を追うて考察して見ょう︒
誠なる哉や︑摂取不捨の真一一首︑超世希有の正法︑間思して遅慮すること莫れ︵総序︶
あてこの﹁誠哉しの誠の文字は次下に﹁摂取不捨の真一一首しとあるから︑誠の字を宛て文体を調えられたものと想う︒
誠とは愚禿紗下に至誠心釈を引かれて﹁至とは真なり︑誠とは実なり︒即ち真実なり﹂とある如く︑誠とは真実の 意味である︒宗祖は文字の使用には日頃から慎重に扱われる御性格であって︑特に真実の語に対しては敬愛な態度 で取扱われていたようである︒和讃に依れば三帖和讃全体を通じて真実の言葉は凡そ三種に限られであるようで
ある
︒︵
最も
真実
明な
る語
もあ
るが
是は
如来
の徳
号と
して
Yあ
るか
ら論
外で
ある
︶即
ち本
願真
実と
︑
真実報土と︑真実信心の
三通りしか真実が与えられていない︒その中で真実信心が一番多い︒
それらを凶表にあらわせば次の通りである︒
他力信仰の性格
Ii. 九
他力
信仰
の性
格
六O
。
真実信心とは詳しく一一三ぱ鳥浄真実
一 浄 土
一讃
ぬ陀
偏一
大 本 願 一
︶
L
真 実 一
︵ 一
: 真 実
︶
L
報 土 一
︵
﹈ 真 実 一 一 信 心 一 一
なる信心の意味である︒その清浄とは
信仰の純粋性︑無我性を表わし︑
その
。
。
。
。
。
2
真実とは﹁真の言は偽に対し︑仮に対@ する也﹂︵信巻末︶と言われ︑実の言は
1
1
1
1
4
虚に
対す
る一
一一
日葉
であ
って
︑真
実と
は歎
異妙に所謂一無碍の一道Lとある絶対
性︑独自性を顕わすものと見ることが出来る︒
次に﹁摂取不捨﹂とは観経真身観の﹁念仏衆生摂取不捨﹂の文により︑愚禿紗上巻には﹁真実浄信心は内固なり
摂取不捨は外縁なり﹂と示され︑﹁真言﹂とは略文類の念仏偏には﹁唯信釈迦如実三口Lとあり︑次の﹁希有の正法﹂
あるが︑今は法に約して﹁よくよく聞思して呉れよ﹂との本願の仰せと頂くべきである︒ とは本願名目可を指す︒次に﹁聞思して遅慮すること莫れLとは︑聞思とは浬繋経の伝不具足の文に依られたもので
①
・
それに対して和讃の信知
の語は機受に約して︑名号伝受の表白である︒﹁遅慮すること莫れ﹂の遅慮とは︑
高僧
和讃
︵源
空讃
︶
の﹁疑情ノ
サハリニシクゾナキ﹂の疑情と同義語と見てよかろう︒
次に他力信仰の第二の性格について考えて見ょう︒まず本典信巻末の悲哉の釈に就て︑
悲しき哉愚禿鷲︑愛欲の広海に沈没し︑名利の大山に迷惑して︑定取県の数に入ることを喜ばず︑古︵証の証りに近
た の い た
ずくことを快しまず︑祉︑ずべし︑傷むべし︒
これらのお言葉と表裏一体をなすものに悲歎述懐和讃の前六首がある︒その代表とも云うべき第一首には﹁浄土真
宗一一帰スレドモ︑真実ノ心ハアリガタシ︑虚仮不実ノワガ身ニテ︑清浄ノ心モサラニナシLとあり︑また帖外和讃
には﹁是非シラズ︑邪正モワカヌコノ身ナリ︑小慈小悲モナケレドモ︑名利一一人師ヲコノムナリLと︑自ら深く慨
もんじよ悌せられ
τ
いる︒また右の文書とは多少趣きを具にするものに︑正像末和讃︵私は拶行和讃と呼ぶ︶の﹁いかYせん
L
の三
首の
和讃
があ
る︒
この和讃三首は夫々に詮わす所が異るけれども︑何れも逆説的表現とも受取れる特殊な言葉
使いである︒﹁いかY
せん
L
とは
︑
幌怖の感情と私は見ている︒これは三首あるがまづその第一首から摘記して味ってゆこう︒ 宗祖が凡愚なる人間としての深い自党に立たれて︑弥陀の大慈大悲を仰がれた
正法ノ時機トオモヘドモ
底下ノ凡愚トナレル身ハ
清浄真実ノコ︑ロナシ
発菩提心イカγ
セン
︵十
四︶
こ﹄に云う所の発菩提心とは次下の和讃で明かなように︑聖道自力の菩提心のことである︒我が心も言葉も到底
及ばない自力の菩提心に対して︑清浄真実の心なき凡愚底下の我が身を深く祉じながら︑かくの如き凡夫のために
成就しくだされた如来廻施の浄土の大菩提心︵真実信心︶に頼らねばならぬことを暗示されたのである︒この和讃
は次に引用する第二の悌怖の和讃と共に︑他力信仰の第二の特性たる人間性の追求と︑凡愚の自覚を顕わされたも
のであって︑前出の善導の機の深信の文意と全く同一の趣きがある︒本山地ハの悲哉の文中にある﹁定取県の数﹂と﹁真
証の証﹂とは︑如来の往相廻向に依る正定と減度の︑現当二世の利益を指すものである︒
仲代
相還
相ノ
廻向
他刀信仰の性格
」A
ノ
、