• 検索結果がありません。

」 ( 愛

ドキュメント内 戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配 (ページ 72-77)

知県 新城 市) の攻 略意 志を 示し たも ので ある

︒ この 二点 の武 田勝 頼書 状は

︑先 の卯 月晦 日付 け山 県昌 景書 状写 との 関連 より

︑元 亀二 年の 武田 氏に よる 三河 侵攻 の 際の もの と考 えら れ︑ 同年 に年 次比 定さ れて きた

︒そ して 元亀 二年 に武 田氏 によ る三 河侵 攻が 行わ れた と考 えら れて きた 典拠 は︑ 鴨川 氏が 指摘 する よう に︑

﹃家 忠日 記増 補﹄ 元亀 二年 四月 十五 日条 (

﹃大 日本 史料

﹄一

〇袞 六︑ 元亀 二年 四 月十 九日 条) の﹁ 信玄 兵ヲ 信州 ヨリ 発シ テ︑ 足助 ノ城 ヲ攻 ント 欲ス

︑城 主鈴 木喜 三郎 城ヲ 避テ 退ク

﹂と いう 記述 など によ る︒ しか し既 に鴨 川氏 も指 摘し てい るが

︑武 田勝 頼書 状の 二点 から 信玄 では なく 勝頼 がこ の軍 事行 動の 主体 とし てみ え るこ とを

︑ま ず重 視し なけ れば なら ない

︒勝 頼が 軍事 上の 主体 とな るの は︑ 当主 の時 でし かな い︒ 黒田 基樹 氏に よる と︑ 既に 信玄 が死 去し てい たに も拘 らず

︑政 治的 な対 応の ため 信玄 から の家 督相 続を 経て

︑勝 頼の 発給 文書 がみ られ だす のは

︑元 亀四 年六 月末 から であ る()

︒こ のこ とと 勝頼 によ る長 篠侵 攻を 考え 併せ ると

︑鴨 川氏 の指 摘す るよ うに

︑ 元亀 二年 四月 にお こな われ たと され る武 田氏 の三 河侵 攻は

︑天 正三 年(一 五七 五) のこ とと なろ う︒ また 卯月 二十 八日 付け 杉浦 紀伊 守宛 勝頼 書状 中に みら れる

﹁畢 竟織 田上 洛之 上︑ 大坂 へ取 懸候 由条

﹂と は︑ 天正 二 年以 降に みら れる 織田 信長 と大 坂本 願寺 との 政治 状況 であ る()

︒こ のこ とも

︑天 正三 年説 の傍 証と なろ う︒ そも そも 勝頼 の足 助進 出に 関し ては

︑﹃ 信長 公記

﹄第 八に

﹁( 天正 三年 )三 月下 旬︑ 武田 四郎 三州 之内 あす け口 へ相 働候

( 愛 一〇 七六 と) みえ

︑そ れは 徳川 家の 内紛 に応 じた 侵攻 の一 環と して 行わ れた もの であ った()

︒従 って この こと 11 から も︑ この 武田 氏の 三河 侵攻 は天 正三 年と 確認 でき る︒ その うえ で注 目し たい のは

︑武 田勝 頼の 三河 国足 助進 出以 降︑ 野田 落城

︑吉 田へ の進 出と 二連 木落 城を 経て

︑長 篠 への 侵攻 に至 る経 過が

︑次 の史 料

﹃当 代記

(

﹃史 籍雑 纂 当代 記・ 駿府 記()

﹄) の天 正三 年の 記事 と合 致す るこ とで ある

10

︻史 料

︼﹃ 当代 記﹄ 天正 三年 条( 返り 点は 省略 ) 四月

︑武 田勝 頼

(天 正三 年)

三川 国足 助表 出 張︑ 所々 令放 火︑ 自其 作手 筋 相移

︑野 田へ 押寄 可相 果之 旨相 議す

︑彼 地は 去々 年信 甲衆 令破 却之 後︑ 普請 無之

︑只 任古 郷立 帰居 住之 間︑ 則河 向 退散 之処

︑信 甲衆 追詰

︑野 田衆 数多 討死

︑ 自其 吉田 相 働︑ 二連 木を 始︑ 所々 放火

︑吉 田に は家 康公 御

(徳 川)

移令 居玉 ふ︑ 町中 へは 敵不 押入 引退

︑ 五月 朔日

︑武 田四 郎長 篠

(勝 頼)

を取 詰︑ 竹た はを 以仕 寄︑ 所所 より 金鑿 を入

︑不 舍昼 夜責 之︑ 以上 から

︑元 亀二 年四 月に おこ なわ れた とす る武 田氏 の三 河侵 攻は

︑鴨 川達 夫氏 が指 摘さ れる よう に︑ 天正 三年 で ある こと が改 めて 確認 でき よう()

11 鴨川 氏は

︑こ の武 田氏 の三 河侵 攻の 検討 と︑ この 時点 では 友好 関係 にあ る織 田信 長と

︑敵 対す る相 模北 条氏 との 関 係よ り︑ 三河 国の みで なく 遠江 国へ の侵 攻も なか った と結 論す る︒ では

︑こ れま で元 亀二 年二 月~ 三月 にお こな われ たと され てき た武 田氏 の東 遠江 侵攻

・遠 江高 天神 城攻 撃︑ そし て同 年に 武田 氏へ 従属 し遠 江・ 三河 侵攻 の展 開に 寄与 した とさ れる 遠江 国衆 天野 氏お よび 三河 国衆 奥平

・田 峯菅 沼・ 長篠 菅沼 三氏 たち 山家 三方 衆の 従属 時期 はい つの こと であ ろう か︒ これ らの 事象 に関 して も再 検討 した うえ で︑ 元亀 二年 の武 田氏 によ る遠 江・ 三河 侵攻 の実 否に 関し て考 えて いく 必要 があ ろう

︒そ こで

︑以 下こ れら の事 象に 関し て検 討し てい く︒ まず

︑こ れに 関す る史 料と して は︑ 史料

が あげ られ る()

12

︻史 料

︼武 田信 玄判 物写 (

﹁橘 家文 書﹂ 戦武 一六 五七 ) 覚 一︑ 氏政 向

(北 条)

御厨 相詰

︑無 功退 散候

︑然 者不 図遠 州 令出 馬候 事︑ 一︑ 去年 以来 申届 候筋 目︑ 此節 候之 条︑ 早速 手合 事︑

一︑ 向小 山抜 本取 出事

︑ 以上 二 ︑ 月廿 三日

(元 亀二 年)

信玄 (花 押影 )

(武 田)

下条 讃岐 守 これ によ ると

︑信 玄は 下条 讃岐 守へ

︑こ の頃 敵対 する 北条 氏の 御厨 (静 岡県 御殿 場市 )攻 略に 伴い 遠江 国へ 侵攻 し︑ 小山 城(静 岡県 吉田 町) を攻 略す る意 向を 示し てい るこ とが わか る︒ 遠江 小山 城は

︑大 井川 を経 た徳 川領 国と の境 目領 域に ある 城で

︑松 平庶 家の 大給 松平 真乗 が管 轄し てい たこ とが 確認 でき る(

﹃松 平乗 承家 蔵古 文書

﹄愛

一二 一九 )︒ 但 11 し実 際に 実行 され たか に関 して は︑ その 後の 状況 を伝 える 同時 代史 料が ない

︒ま た同 城が 境目 領域 に立 地す ると ころ に留 意す ると

︑侵 攻が なさ れた とし ても

︑そ れは 駿河 平定 に付 随す る性 格の もの であ った と考 えら れる

︒つ まり

︑本 格的 な遠 江侵 攻の 実施 では ない ので ある

︒ では

︑こ の直 後の 三月 にお こな われ たと する 武田 氏に よる 高天 神城 攻撃 はど うで あろ うか

︒こ れに 関し ては

︑﹃ 甲 陽軍 鑑﹄ など 編纂 物の みに みえ

︑同 時代 史料 では 確認 する こと がで きな い︒ 現在 のと ころ

︑同 時代 史料 から

︑武 田氏 の高 天神 城攻 撃を 想定 でき るの は︑ 既に 黒田 基樹 氏が 指摘 して いる よう に()

︑元 亀三 年十 月で ある

︒そ こで

︑こ のこ と

13

に関 わる 史料

に 関し て検 討し たい

︻史 料

︼武 田信 玄書 状(﹁ 武市 通弘 氏所 蔵文 書﹂ 戦武 一九 七六 ) 不違 兼日 之首 尾︑ 各忠 節誠 感入 存候

︑於 向後 者︑ 追日 可令 入魂 存分 候︑ 弥戦 功専 要候

︑当 城主 小笠 原

(氏 助)

悃望 候間

︑ 明日 国中 へ進 陣︑ 五日 之内 越天 竜川 向浜 松出 馬︑ 可散 三ケ 年之 鬱憤 候︑ 猶山 県三 郎兵 衛尉

(昌 景)

可申 候︑ 恐々 謹言

︑ 十月 廿一 日

(元 亀三 年)

信玄 (花 押)

(武 田)

道紋

(奥 平定 勝)

史料

︑信 玄が 奥平 道紋 (定 勝) へ兼 約通 りの 忠節 を賞 すと とも に︑

﹁当 城主 小笠 原悃 望﹂ の状 況に つき

︑明 日遠 江国 中へ 進軍 し︑ その 後五 日以 内に 浜松 (静 岡県 浜松 市) へ至 り三

年 にわ たる 徳川 氏へ の鬱 憤を 晴ら すこ とを 記し た もの であ る︒ 最初 に注 目し たい のが

︑﹁ 当城 主小 笠原 悃望

﹂で ある

︒﹁ 当城 主小 笠原

﹂と は︑ 当時 の遠 江状 況か ら考 え て︑ 高天 神城 主小 笠原 氏助 (の ちの 信興 )の こと であ る()

︒こ の時 の小 笠原 氏助 は︑ 同月 十九 日に 高天 神領 内の 華厳 院( 静

14

岡県 掛川 市) へ武 田家 禁制 が発 給さ れて いる こと から (

﹁華 厳院 文書

﹂静 五 三四()

︑) 武田 氏に より 本城 高天 神城 が攻 撃さ

15

れて いる 状況 下が 考え られ

︑彼 によ る﹁ 悃望

﹂と は︑ 既に 黒田 基樹

・平 山優 両氏 が指 摘す るよ うに()

︑降 伏の 願い 出と

16

推察 され る︒ 信玄 はこ の小 笠原 氏助 の降 伏の 願い 出を 受け たう えで

︑遠 江国 中地 域へ の侵 攻予 定を 記し てい るの であ る︒ ここ から 元亀 三年 十月 に武 田氏 によ る高 天神 城攻 撃が 確認 でき たが

︑こ れま で元 亀二 年三 月と され てき た説 との 関 係は どう であ ろう か︒ そこ で改 めて 注目 した いの が︑ 史料

﹁可 散三 ケ年 之鬱 憤候

﹂と の記 述で ある

︒ 本史 料を 初め て紹 介さ れた 須藤 茂樹 氏は

︑﹁ 三ケ 年之 鬱憤

﹂と は永 禄十 二年 (一 五六 九)

~元 亀二 年の 今川 領国 をめ ぐる 武田

・徳 川両 氏の 関係 を指 すと し︑ 鬱憤 を晴 らす とい うこ とか ら遠 江国 の領 国化 が元 亀三 年十 月か らの 信玄 の軍 事行 動の 目的 とし た()

17 しか し最 初の 年を 一年 目と して 数え

︑﹁ 三ケ 年﹂ に注 目す ると

︑こ の書 状が 発給 され た三 年前 の元 亀元 年十 月と い う時 期が 重視 でき る︒ 元亀 元年 十月 は︑ 同月 八日 に徳 川家 康が 越後 上杉 謙信 へ起 請文 を発 給し て(

﹁上 杉家 文書

﹂上 越 九四 二)

︑徳 川氏 が武 田氏 との 関係 を﹁ 手切

﹂と し︑ 武田 氏の 宿敵 であ る越 後上 杉氏 と同 盟を 成立 させ た時 期で ある()

18 信玄 は︑ この 徳川 氏の 対応 を意 識し て︑

﹁可 散三 ケ年 之鬱 憤﹂ と記 して いる ので ある

︒つ まり

︑こ の元 亀三 年十 月か

らの 信玄 の軍 事行 動が 対徳 川氏 への

﹁三 ケ年 之鬱 憤﹂ を散 じる こと に目 的が ある のな ら︑ この こと は同 時に この 時期 まで 徳川 氏と の本 格的 な戦 争は なか った とい うこ とを 示し てい よう

︒従 って 武田 氏に よる 本格 的な 遠江 侵攻 も︑ 三河 侵攻 と同 様に

︑元 亀二 年に はお こな われ てい ない ので ある

︒ では

︑遠 江国 衆天 野氏

︑三 河国 衆奥 平・ 田峯 菅沼

・長 篠菅 沼三 氏た ち山 家三 方衆 の従 属時 期の 件は どう であ ろう か︒ まず 遠江 国衆 天野 藤秀 の武 田氏 への 従属 時期 であ るが

︑元 亀四 年十 一月 十五 日の 武田 勝頼 判物 (

﹁布 施美 術館 所蔵 文 書﹂ 戦武 二二

〇七 に)

﹁従 法性 院殿 被渡

(武 田信 玄)

置候 本領 新地

﹂と ある こと から

︑信 玄時 であ るこ とが 確認 でき る︒

﹃甲 陽軍 鑑﹄ 本文 巻八 には

︑天 野藤 秀の 従属 に関 わる 人質 提出 に関 して

︑﹁ 永禄 拾一 年霜 月︑ 遠州 ノ侍 天野 宮内 右衛 門

(藤 秀)

︑秋 山 伯耆 守

(虎 繁)

取次 をも つて

︑人 質ニ 子息 を︑ 忍て 甲府 へ進 上申 候﹂ とみ える()

︒し かし 天野 藤秀 は︑ 永禄 十二 年二 月二 十四 日

19

の時 点に おい ても

︑今 川氏 に従 属す る国 衆と して みら れる ので (

﹁天 野文 書﹂ 静 三六 二三

︑)

﹃甲 陽軍 鑑﹄ の記 す従 属 時期 は誤 りで ある

︒但 し︑ この 時に

﹁取 次﹂ を務 めた とさ れる 秋山 虎繁 は︑ 後述 のよ うに 元亀 三年 十月 以降 の遠 江・ 三河 侵攻 の際 に信 濃方 面か ら天 野氏 の支 配領 域で ある 北遠 地域 に進 出し てい るの で︑ この 事実 を永 禄十 一年 十一 月で はな く元 亀三 年十 月以 降で 考え てみ る必 要が ある

︒そ こで 注目 した いの が︑ 元亀 三年 十月 二十 一日 に天 野氏 の﹁ 同 心﹂ の奥 山友 久へ 発給 され た武 田家 朱印 状(﹁ 奥山 家文 書﹂ 戦武 一九 七八 で) ある()

︒そ こで 奥山 友久 は︑ 武田 氏よ り﹁ 忠

20

節﹂ によ り﹁ 家康 宛行 候所 領 本領

﹂を 安堵 され てい るの であ る︒ 従っ てこ の﹁ 忠節

﹂と は︑ 徳川 氏か ら武 田氏 に属 した こと に他 なら ない

︒﹁ 同心

﹂の 奥山 友久 が︑ この 時に 武田 氏に 従属 し所 領を 安堵 され てい るこ とか ら考 えて

︑天 野氏 の従 属も 元亀 三年 十月 と考 える こと がで きよ う︒ また 天野 氏の 支配 領域 内に 属し

︑関 係の 深い 秋葉 寺( 静岡 県浜 松市 天竜 区) への 信玄 によ る社 領安 堵が 同年 十一 月二 日に おこ なわ れて いる こと も(﹁ 徳川 林政 史研 究所 所蔵

﹃古 編年 簡﹄ 三﹂ 戦武 一九 八三 )︑ この 傍証 とな ろう()

︒以 上の 検証 から

︑遠 江国 衆天 野氏 の従 属時 期は

︑元 亀三 年十 月で ある こと を

21

ドキュメント内 戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配 (ページ 72-77)

関連したドキュメント