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【 史 料

ドキュメント内 戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配 (ページ 83-90)

︼武 田信 玄書 状 珍札 披見 快然 候︑ 如来 意︑ 今度 到遠 参発 向︑ 過半 属本 意候

︑可 御心 安候

︑抑 公方 様被 対

(足 利義 昭)

信長 御

(織 田)

遺恨 重畳 故︑ 為御 追伐

︑被 立御 色之 由候 条︑ 此時 無二 可被 励忠 功事 肝要 候︑ 以公 儀御 威光 信玄 も

(武 田)

令上 洛者

︑異 于他 可申 談候

︑仍 寒 野川 弓 到来

︑珍 重候

︑委 曲附 与彼 口上 候之 間︑ 不能 具候

︑恐 々謹 言︑ 五月 十七 日

信玄 (花 押)

(武 田)

岡周 防守 殿 史料

︑武 田信 玄が 松永 久秀 の家 臣岡 周防 守へ

︑遠 江・ 三河 両国 での 戦況 を伝 え︑ 室町 幕府 将軍 足利 義昭 が織 田 信長 に対 し討 伐の 態度 を明 確に され たの で︑ 忠功 に励 まれ るこ とを 心得 るべ きと して

︑公 儀の 要請 に基 づき 信玄 が上 洛し た際 には

︑何 より も互 いに 申談 すべ きこ とを 求め たも ので ある

︒こ の史 料

で︑ 将軍 義昭 や松 永氏 が信 長へ 敵対 し︑ 信玄 が上 洛へ の意 識を 示し てい るこ とよ り︑ 元亀 二年 時に おけ る信 長包 囲網 の展 開と 信玄 の上 洛意 志が 注目 され

︑ 同三 年十 月か らの 武田 氏の 遠江

・三 河侵 攻は

︑こ の西 上の なか での 軍事 行動 とさ れて きた

︒ しか し史 料

は︑ 元亀 二年 の年 次比 定で よい ので あろ うか

︒既 に鴨 川達 夫氏 が﹁ 今度 到遠 参発 向︑ 過半 属本 意候

﹂ とい う状 況に 関し て︑ 元亀 二年 には 遠江

・三 河侵 攻は 事実 とし てな いこ とか ら︑ 年次 を元 亀四 年と する()

︒筆 者も

︑こ

37

の鴨 川氏 の年 次比 定に は︑ 第一 節で の検 討よ り賛 同す る︒ しか しな がら 他に 根拠 とし て︑ 史料

に みら れる 将軍 義昭 の﹁ 対信 長御 遺恨 重畳 故︑ 為御 追伐

︑被 立御 色之 由候 条﹂ とい う状 況が

︑元 亀四 年二 月二 十一 日付 け穴 山信 君宛 浅井 長政 書状 (

﹁土 屋家 文書

﹂戦 武四

〇六 四) にお ける

︑﹁ 公方 様被 立御 色︑ 被成 御内 書候 間︑ 令進 献候

﹂が 前提 とな って いる こと

︑ま た実 際に 将軍 義昭 の信 長へ の敵 対が 確認 でき るの は元 亀四 年二 月以 降で ある こと をあ げた い()

︒さ らに 三好

38

松永 両氏 との 交渉 は︑ 元亀 四年 三月 十四 日付 け信 玄宛 本願 寺顕 如書 状案 (

﹃顕 如上 人御 書札 案留

﹄戦 武四

〇六 七) によ る

と︑ まだ

﹁調 略半

﹂の 状況 であ る︒ 従っ て元 亀二 年の 段階 で︑ 松永 氏と の間 にこ のよ うな 外交 関係 が展 開し てい たと は考 えら れな い︒ 以上 から

︑筆 者も 鴨川 氏と 同様 に︑ 史料

の 年次 は元 亀四 年の もの とす る︒ 周知 のよ うに

︑信 玄は 同年 四月 十二 日に 死去 して いる ので

︑史 料

は死 去後 の発 給と なる

︒従 って 史料

を もっ て︑ 信玄 が上 洛へ の意 識を 示し てい ると はい えな い()

39 また

︑こ こで 確認 して おき たい のは

︑元 亀三 年十 月の 信玄 の遠 江・ 三河 侵攻 の開 始時 点で

︑将 軍義 昭や 三好

・松 永 両氏 との 提携 はな いこ とで ある

︒彼 らと の提 携は

︑遠 江・ 三河 侵攻 の展 開の なか で形 成さ れた もの であ った

︒従 って 渡辺 世祐 氏以 来の 将軍 義昭 を中 核と した 信長 包囲 網に 基づ く信 玄の

﹁西 上﹂ 説は

︑以 上の 考察 によ り︑ 検討 の余 地が ある そ ︒ れで は︑ 局地 説は どう であ ろう か︒ 筆者 も︑ 第二 節で 遠江

・三 河侵 攻こ そが

︑当 初か らの 信玄 の行 動目 的で あっ たこ とを 指摘 した

︒し かし

︑こ の侵 攻は 外交 関係 との 関わ りの うえ での 検討 は︑ これ まで 充分 にな され てい ない

︒そ のた め︑ この こと を視 野に 入れ て︑ この 侵攻 の意 図︑ そし て展 開に 関し て検 討を 加え てい く必 要が あろ う︒ 特に 鴨川 氏が 指摘 され た︑ 元亀 四年 二月 十六 日付 け東 老軒 常存 宛武 田信 玄書 状に

﹁今 度任 于大 坂 朝倉 義景 催促

︑至 遠州 出馬 候

( 山口 市歴 史民 俗資 料館 所蔵

﹃万 代家 手鑑

﹄﹂ 戦武 二〇 二一 と) ある よう に︑ 越前 朝倉 氏・ 大坂 本願 寺と の外 交関 係の もと 武田 氏の 遠江

・三 河侵 攻が 実行 され てい るこ と︑ また 両者 との 外交 の展 開上 から

﹁信 長為

(織 田)

当敵 動干 戈

(

﹁徳 川黎 明会 所蔵 文書

﹂戦 武一 九八 九・ 一九 九〇 と) 織田 信長 への 敵対 を記 して いる こと は充 分に 考慮 する 必要 があ る︒ そこ で︑ 越前 朝倉 氏・ 大坂 本願 寺と の外 交関 係に 関し てみ てい きた い︒ まず 越前 朝倉 氏・ 大坂 本願 寺の 置か れて いる 状況 に関 して であ るが

︑こ の時 とも に織 田信 長と は敵 対関 係に あり

︑ 特に 大坂 本願 寺は 元亀 三年 七月 には

︑信 長に より

﹁今 度対 天下

︑本 願寺 企遠() 意次 第︑ 前代 未聞

︑無 是非 候

(

﹁専 福寺

文書

﹂信 長文 書三 三〇 )と 天下 (

﹁将 軍﹂ の政 治領 域) に対 し造 意の 企て をお こな う存 在と して

︑世 間へ 表明 され てい た()

40 信玄 は︑ この 大坂 本願 寺と 縁戚 関係 もあ った が︑ 特に 対越 後上 杉氏 への 押さ えか ら関 係を 保持 し続 けて きた (

﹃顕 如上 人御 書札 案留

﹄戦 武四

〇三 二)

︒ま た越 前朝 倉義 景は

︑大 坂本 願寺 との 永禄 十年 (一 五六 七) の加 越和 睦以 来の 関係 強化 とし て︑ 元亀 二年 には 義景 娘と 本願 寺法 主顕 如の 子息 教如 との 婚儀 が成 立し てい た()

︒従 って 信玄 と朝 倉義 景と の関 係

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は︑ 大坂 本願 寺と の関 係を 基に 結ば れた もの であ った

︒ 次に

︑こ の三 者間 の軍 事協 力を 前提 とす る同 盟に よる

︑信 玄の 遠江

・三 河侵 攻に 関す る展 開を 確認 して おき たい

︒ 元亀 三年 八月

・九 月に 将軍 義昭 の命 令に より 信玄 は︑ 信長

・大 坂本 願寺 間の 和睦 仲介 をお こな って いる (

﹁本 願寺 文書

﹂︑

﹁津 金寺 文書

﹂︑

﹁﹃ 雑録 追加

﹄三

﹂︑

﹃顕 如上 人御 書札 案留

﹄戦 武一 七三 三・ 一七 三四

・一 七四 一・ 四〇 五二()

︒) しか も九 月十 日

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付け 信玄 宛本 願寺 顕如 書状 (

﹃顕 如上 人御 書札 案留

﹄戦 武四

〇五 二) は︑

﹁信 玄よ り大 かた 案文

﹂に 基づ き︑ 信玄 の和 睦仲 介を 受け 入れ る旨 を記 すと いう 状況 にあ った

︒こ のこ とは

︑こ の時 点で は信 玄は 将軍 義昭

・信 長と は敵 対関 係を 避け るよ う動 いて いた こと がわ かる()

︒し かし

︑そ の一 方で

︑九 月上 旬に は越 前朝 倉氏

・大 坂本 願寺 との 同盟 関係 上か ら関

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係を 有す る江 北浅 井氏 のも とに

︑同 月二 十日 以前 に遠 江侵 攻を 約束 した 信玄 の誓 詞が 届い てい るこ とが 史料 上か ら確 認で きる (

﹁百 々保 氏所 蔵文 書﹂ 愛 一〇

〇三

︒) つま り信 玄は

︑信 長・ 大坂 本願 寺間 の和 睦仲 介を おこ ない つつ も︑ こ 11 の活 動を 媒介 に遠 江侵 攻の ため の同 盟関 係を 強化 させ てい たの であ る︒ これ は信 玄に とっ て対 越後 上杉 氏と の関 係が

︑ これ から 軍事 行動 をお こな う相 手の 徳川 氏へ の対 策と して 不可 欠で あっ たか らで あろ う︒ この 時期

︑第 一節 でみ た通 り︑ 徳川 氏は 越後 上杉 氏と 軍事 協力 を前 提と する 同盟 関係 にあ った

︒だ が︑ この ため 越前 朝倉 氏・ 大坂 本願 寺と の同 盟関 係を 保持 して いく 以上

︑両 者が 敵対 する 信長 との 敵対 は避 けら れな いも のと なる

︒恐 らく 信玄 とし ては 信長 との 敵対 を避 けた いた め︑ 信長

・大 坂本 願寺 間の 和睦 仲介 にあ たっ たの であ ろう が︑ 結局 この 和睦 は成 立し た兆 候が ない

従っ て武 田氏 の遠 江・ 三河 侵攻 は︑ この よう に越 前朝 倉氏

・大 坂本 願寺 との 同盟 関係 の保 持か ら︑ 結果 とし て信 長へ の敵 対も 含み 実行 され るこ とと なっ たの であ る︒ では

︑な ぜこ のよ うな 同盟 関係 の保 持を 基と した うえ

︑信 玄は 遠江

・三 河両 国へ 侵攻 しな けれ ばな らな かっ たの か︒ この 意図 を︑ 改め て検 討し てい く必 要が あろ う︒ それ には

︑信 玄と 織田

・徳 川両 氏と の関 係︑ さら には この 三者 の関 係す る足 利義 昭政 権の 問題 を視 野に 入れ て検 討し なけ れば なら ない

︒ これ まで

︑足 利義 昭政 権の 成立 と武 田信 玄の 関係 に関 して は︑ あま り注 目さ れて いな い︒ しか し永 禄十 一年 (一 五 六八 )七 月二 十九 日付 け上 杉輝 虎( 謙信 )宛 織田 信長 書状 (

﹁志 賀槙 太郎 氏所 蔵文 書﹂ 上越 六一

〇) には

︑﹁ 甲州 与此 方間 之事

︑ 公方 様御 入洛 供奉 之儀 肯申 之条

︑隣 国除 其妨 候︑ 一和 之儀 申合 候︑ 其以 来者

︑駿

・遠 両国 間自 他契 約子 細候

﹂と の記 述が みら れる

︒こ れに よる と︑ 武田 氏と 織田 氏は 足利 義昭 (以 下︑ 実名 が﹁ 義秋

﹂時 の出 来事 も含 むが 義昭 で統 一す る) の 入洛 供奉 のこ とで 承知 しあ い和 睦へ と至 った こと

︑そ して それ 以来

︑今 川領 国(﹁ 駿・ 遠両 国﹂ の) こと に関 して 両者 間 で取 り決 めが あっ たこ とが わか る︒ 両者 間で の今 川領 国に 関す るで 取り 決め とは

︑こ の後 の事 態の 推移 から 考え て︑ 今川 領国 への 侵攻 であ ろう

︒こ の関 係が いつ でき たか であ るが

︑こ れま では この 書状 が発 給さ れた 年︑ すな わち 永禄 十一 年に おい て史 料上 に散 見さ れる とし か指 摘さ れて いな い()

︒し かし

︑足 利義 昭の 入洛 供奉 要請

︑こ れに 伴う 武田

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織田 両氏 間の 和議 と今 川領 国へ の侵 攻に 関す る取 り決 めと には

﹁其 以来

﹂と 時間 差が ある こと を考 慮し たい

︒つ まり

︑ 足利 義昭 の入 洛供 奉交 渉︑ これ に伴 う武 田・ 織田 両者 間の 和議 とは

︑今 川領 国の こと に関 して 両者 間で 取り 決め があ った 時点 (永 禄十 一年 )以 前の こと とし て考 える 必要 があ る︒ 武田

・織 田両 氏間 の関 係と して

︑﹃ 甲陽 軍鑑

﹄に よる 永 禄八 年九 月か ら交 渉が 始め られ

︑十 一月 に信 長養 女の 信玄 息勝 頼へ の入 嫁が 知ら れて いる

︒し かし

︑こ れに 関し ては 他に 関連 史料 がな いた め︑ 正確 な時 期を 確認 する こと が難 しい

︒そ こで 改め て注 目し たい のが

︑こ の両 者間 の和 議の

ドキュメント内 戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配 (ページ 83-90)

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