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』 ( 愛

ドキュメント内 戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配 (ページ 167-171)

知県 岡崎 市) に 伝わ る年 代記

﹃王 稔合 集記

( 愛 一四 五) にも

﹁大 洪水

︑コ ノ年 二・ 三度 降︑ 人皆 ナ死 ス﹂ と記 録さ れる ほど

︑大 規 12 模な もの であ る︒ また

︑こ の大 雨・ 大洪 水は

︑﹃ 家忠 日記

﹄に みら れる 水害 と治 水に 関し て検 討し た畑 大介 氏に よっ て既 に注 目さ れて いる が()

︑こ こで は︑ 改め て﹃ 家忠 日記

﹄の 記述 を具 体的 にみ てい きた い︒

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まず

︑前 者の 天正 十一 年五 月十 三日

・十 四日 の大 雨・ 大洪 水だ が︑ 十三 日の 酉刻 (午 後六 時) より 降り 始め た雨 が翌 十四 日寅 刻(午 前四 時) に大 雨と なり 降り 続け た結 果︑

﹁大 水出 候︑ 田地 そん し候

﹂と いう 大洪 水と それ によ る田 地の 流損 を招 き︑ 深溝 松平 家忠 は徳 川氏 の本 拠浜 松へ 使者 を遣 わし て︑ 被害 状況 を報 告さ せて いる

︒ そし て︑ これ を上 回る 被害 をも たら した のが

︑七 月二 十日

・二 十三 日の 大雨 と大 洪水 であ る︒ 七月 二十 日の 大雨 は︑ 家忠 が﹁ 五十 年已 来﹂ と記 す程 の大 洪水 をも たら し︑ 二十 二日 条に よる と深 溝領 内の 中島 (愛 知県 岡崎 市)

・永 良( 同西

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廿

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尾市 )を はじ め︑ 三河 国中 の堤 を決 壊さ せた

︒中 島・ 永良 は広 田川 沿い の氾 濫原 に位 置す る︑ 家忠 の祖 父松 平好 景以 来の 深溝 領内 の要 地で ある()

︒ま た︑ この 大雨

・大 洪水 によ り︑ 北条 氏直 と家 康娘 督姫 の婚 礼︑ また 同月 六日 に予 定さ

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れて いた 家康 の信 濃国 川中 島( 長野 県長 野市 )へ の出 陣が 十二 日に 延期 され てい る︒ さら に︑ それ に追 い打 ちを かけ る よう に︑ 二十 三日 夜の 大雨 によ り二 十日 の時 以上 の大 洪水 がも たら され

︑翌 二十 四日 条に よる と再 び中 島・ 永良 の堤 三︑ 四

所が 決壊 して

︑﹁ 田地 一円 不残 そん

(

)

候︑ 家ひ し

(

)

候﹂ とい う田 地・ 家屋 の流 損を 招き

︑結 果﹁ 無所 務

(同 月 二十 七日 条) とい う︑ 収穫 不能 の状 況に まで 至っ てい る︒ この ため

︑家 忠は 二十 七日 には

﹁小 兵

( 小兵 衛() を)

︑二 十九

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日に も人 を浜 松へ この 大雨

・洪 水の 被害 に対 する 訴願 (

﹁御 訴訟

﹂) のた めに 遣わ して いる

︒こ れに より

︑使 者が 浜松 よ り帰 還し た八 月三 日条 によ ると

︑家 康よ り﹁ 縦御 普請 候共 御赦 免﹂

︑つ まり

﹁御 普請 役﹂ の免 除を 得て

︑大 雨・ 洪水 の被 害か らの 復興 に努 める よう 処置 をさ れた こと がわ かる

︒ これ らの 記載 より

︑こ の時 の相 次ぐ 水害

︑特 に家 忠が

﹁五 十年 已来

﹂と 記す 七月 の相 次ぐ 水害 によ る被 害の 甚大 さ が窺 えよ う︒ この 大雨 は三 河国 だけ でな く︑ 甲斐 国︑ その 後は 関東 地域 でも 被害 をも たら し()

︑特 に同 年八 月八 日付 け

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で相 模北 条氏 に宛 てら れた 古河 足利 家奉 行人 連署 状写 (

﹁喜 連川 文書 案二

﹂﹃ 戦国 遺文 古河 公方 編﹄ 一四 七五

・一 四七 六) によ ると

︑下 総国 古河 (茨 城県 古河 市) 周辺 地域 にお いて も﹁ 廿ケ 年已 来﹂ とさ れる 古河 近辺 をは じめ 関宿 (千 葉県 野田 市)

・高 柳( 埼玉 県久 喜市 )・ 柏戸 (同 加須 市) など の堤 決壊 に伴 う大 洪水 によ る甚 大な 被害 をも たら した こと が確 認で き る︒ 徳川 領国 では 史料 上か らは 三河

・甲 斐両 国し か窺 えな いが

︑第 一節 でみ た遠 江国 井伊 谷で の徳 政状 況の 発生 を考 える と︑ 少な くと も遠 江国 にも 深刻 な被 害を もた らし たこ とが 想定 でき る︒ そし て︑ この 大雨

・洪 水に よる 収穫 不能 とい う再 生産 活動 の危 機的 状況 が︑ 翌年 春に 対処 を求 める 徳政 状況 の発 生へ と繫 がっ たの であ ろう

︒ 以上 の検 討を ふま える なら ば︑ 徳政 令発 令の 背景 に︑ この 前年 の三 河・ 遠江 両国 にお ける 大雨

・大 洪水 によ る甚 大

なる 被害

︑と りわ け収 穫不 能と いう 再生 産活 動の 危機 的事 態が より 直接 的な 要因 とし て考 えら れよ う︒ つま り︑ この 前年 の三 河・ 遠江 両国 にお ける 大雨

・洪 水に よる 地域 の再 生産 活動 の危 機的 事態 の展 開が

︑同 地域 での 羽柴 秀吉 との 戦争 を間 近に 控え る状 況も 併せ て﹁ 国家

﹂存 立へ の支 障と なり

︑徳 政状 況を 発生 させ

︑こ の事 態へ の領 主の 勧農 責務 とし て同 地域 に徳 政令 が発 令し たと 位置 づけ るこ とが でき よう

︒ 三 徳政 令の 特質 と効 用 これ

まで の第 一節

・第 二節 での 検討 から

︑天 正十 二年 (一 五八 四) 三月 の三 河・ 遠江 両国 に対 する 徳政 令は 前年 の同 地域 にお ける 大雨

・大 洪水 によ る再 生産 活動 の危 機︑ 羽柴 秀吉 との 戦争 を間 近に 控え ると いう 状況 下に おけ る同 地域 の徳 政要 求を 受け

︑﹁ 国家

﹂存 立へ の支 障対 処と して 実施 され

︑こ れに より 徳川 氏は 大名 権力 とし ての

﹁国 家﹂ 存立 の保 持と いう 責務 を果 たそ うと した こと が指 摘で きよ う︒ 従っ てこ の徳 政令 発令 を︑ 単純 に小 牧・ 長久 手合 戦に 伴う 領国 支配 の強 化︑ つま り領 国総 動員 体制 の構 築像 に結 びつ ける こと には 再考 を要 しよ う()

︒で は︑ この 徳政 令の 特質 と

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効用 は如 何な るも ので あっ たの であ ろう か︒ まず

︑徳 政令 の特 質と 効用 を考 える に際 して は︑ 新行 紀一 氏が 指摘 した

︑こ れに 伴う

﹁経 済混 乱﹂ にも 注目 する 必 要が ある

︒確 かに 自然 災害 によ る村 落の 再生 産の 危機 に際 し︑ 例え ば年 未詳 七月 三十 日付 け大 和惣 国百 姓等 申状 (

﹁法 隆寺 文書

﹂﹃ 中世 政治 社会 思想

﹄下

︑三 一七 頁() )に みら れる よう に︑ 領主 への 徳政 要求 がな され た︒ しか し︑ 特に 自然 災

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害・ 飢饉 や戦 争で 社会 にお ける 再生 産が 破壊 され る状 況に あっ た中 世社 会に おい て︑ 債権

・債 務関 係は 相互 扶助 によ り再 生産 を復 興さ せて いく ため に必 要不 可欠 な社 会シ ステ ムで あっ たこ とを ふま える なら ば()

︑徳 政は 同時 に﹁ 経済 混

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乱﹂ によ る再 生産 への 支障 とい う逆 効果 も伴 うこ とと なる こと にも 注意 を要 しよ う()

︒実 際︑ よく 知ら れる 弘治 四年

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(一 五五 八) 二月 二日 付け 大和 国宇 治郡 百姓 等連 判状 (

﹁三 箇家 文書()

﹂) から は︑ 徳政 要求 (徳 政状 況の 展開 に) より 金融 業者

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が﹁ 一向 ニ無 之﹂ とい う状 況が 生じ

︑逆 に村 落の 再生 産( 成り 立ち )に 支障 を来 す事 態が 想定 され る︒ 従っ て鈴 木将 典 氏が 指摘 する よう に︑

﹁徳 政令 が発 令さ れる こと で地 域の 経済 が混 乱に 陥り

︑金 融が 止ま り︑ 債務 者側 も米 銭を 借り られ なく なっ て︑ 結果 的に

村 の成 り立 ち

に悪 影響 を及 ぼす()

﹂と いう 徳政 のも つ特 質を ふま えて

︑効 用を 考え てい

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かな けれ ばな らな い︒ 永禄 七年 (一 五六 四) の三 河一 揆終 結時 にお ける 徳川 氏( 永禄 九年 十二 月以 前は 松平 氏だ が︑ 史料 を除 き本 章で は徳 川氏 で 統一 する に) よる 徳政 撤回 とい う事 態も

︑こ の徳 政の もつ 特質 がも たら した 効用 より 考慮 すべ き事 例で あろ う︒ これ に関 わる 史料

を 次に 掲げ る︒

︻史 料

︼松 平家 康判 物写 (

﹃譜 牒余 録﹄ 愛 三四

〇) 11 就今 度別 而御 馳走 候︑ 其方 一身 閙 中徳 政之 儀︑ 任望 同心 候︑ 永代

・祠 堂物 相除

︑当 借・ 久 借・ 年記

・本 物・ 本 直等 之下 地・ 米銭 可被 下候 ハ仭

︑自 然土 呂・ 針崎 其外 敵方 之者 無事 之上 申事 候共

︑可 為右 同前 候︑ 縦前 々自 今以 後徳 政除 之判 形雖 出方 有之

︑今 度之 御忠 節異 他候 間︑ 可為 無除 者也

︑ 永禄 七年

蔵人

(松 平)

正月 廿八 日

家康 御判 松平 主殿 助

(伊 忠)

参殿

︻史 料

︼水 野信 元書 状(

﹁本 光寺 常盤 歴史 資料 館所 蔵文 書﹂ 愛 四〇 二) 11

猶以 深溝 家中 上下 之借 儀︑ 右之 分ニ 候︑ 深溝 へも 達 異見 を申 候︑ 此外 不申 候︑ 深溝 米銭 旧借 付而

︑去 年中 一揆 之刻

︑不 可有 返弁 之一 札を 深溝 被 出候

︑然 処当 春属 無事 之時

︑如 前々 と土 呂其 外ヘ 一札 被出 候︑ 只今 御相 論如 何候 間︑ 来年 中ニ 本米

・本 銭を 以︑ 従深 溝返 弁被 成候 へ︑ 当年 之儀 ハ一 円納 所成 間敷 候︑ 此旨 岡諸 宿

崎 脱

合仕 申定 候︑ 双方 之御 為︑ 第一 国之 御為

︑旁 以家 康も

(松 平)

祝着 可申 候︑ 国中 何方 之家 中も 同前 候︑ 但永 地計 相除 候︑ 其外 借義 一切 ニ本 を以

︑来 年中 ニ可 有其 沙汰 候︑ 岡崎 同心 之衆 点を 被合 候︑ 各不 及御 異乱

︑御 合点 可被 成候

︑恐 々謹 言︑ 十二 月朔 日

(永 禄七 年)

信元 (花 押)

(水 野)

(

ドキュメント内 戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配 (ページ 167-171)

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