知県 岡崎 市) に 伝わ る年 代記
﹃王 稔合 集記
』
( 愛 一四 五) にも﹁大 洪水
︑コ ノ年 二・ 三度 降︑ 人皆 ナ死 ス﹂ と記 録さ れる ほど
︑大 規 12 模な もの であ る︒ また
︑こ の大 雨・ 大洪 水は
︑﹃ 家忠 日記
﹄に みら れる 水害 と治 水に 関し て検 討し た畑 大介 氏に よっ て既 に注 目さ れて いる が()
︑こ こで は︑ 改め て﹃ 家忠 日記
﹄の 記述 を具 体的 にみ てい きた い︒
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まず
︑前 者の 天正 十一 年五 月十 三日
・十 四日 の大 雨・ 大洪 水だ が︑ 十三 日の 酉刻 (午 後六 時) より 降り 始め た雨 が翌 十四 日寅 刻(午 前四 時) に大 雨と なり 降り 続け た結 果︑
﹁大 水出 候︑ 田地 そん し候
﹂と いう 大洪 水と それ によ る田 地の 流損 を招 き︑ 深溝 松平 家忠 は徳 川氏 の本 拠浜 松へ 使者 を遣 わし て︑ 被害 状況 を報 告さ せて いる
︒ そし て︑ これ を上 回る 被害 をも たら した のが
︑七 月二 十日
・二 十三 日の 大雨 と大 洪水 であ る︒ 七月 二十 日の 大雨 は︑ 家忠 が﹁ 五十 年已 来﹂ と記 す程 の大 洪水 をも たら し︑ 二十 二日 条に よる と深 溝領 内の 中島 (愛 知県 岡崎 市)
・永 良( 同西
巳刻 ニ地 震候
︑中 島へ こし 候 月
日26 大雨 降︑ 五十 年已 来大 水ニ 候︑ 御祝 言も 延候
︑ 月
日20 雨降
︑所 々大 水出 候︑ 田地 そん し候
︑浜 松へ 人を つか ハし 候︑ 月
日14 酉刻 より 雨ふ り出 候て
︑大 雨寅 刻ふ り候
︑ 月
日13 大雨
降︑ 水出 候︑ 天正 年 月 日 12
23
雨降
︑申 酉間 ニ地 震候
︑夜 大雨 降︑ 大水 出候
︑廿 日之 水よ りひ ろ高 く候
︑ 月
日23 雨降
︑大 南風 吹候
︑家 そん し候
︑大 風也
︑ 霜月 日18 地震 以外 は︑ その 規模 およ び被 害状 況に より 摘出 した
︒
尾市 )を はじ め︑ 三河 国中 の堤 を決 壊さ せた
︒中 島・ 永良 は広 田川 沿い の氾 濫原 に位 置す る︑ 家忠 の祖 父松 平好 景以 来の 深溝 領内 の要 地で ある()
︒ま た︑ この 大雨
・大 洪水 によ り︑ 北条 氏直 と家 康娘 督姫 の婚 礼︑ また 同月 六日 に予 定さ
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れて いた 家康 の信 濃国 川中 島( 長野 県長 野市 )へ の出 陣が 十二 日に 延期 され てい る︒ さら に︑ それ に追 い打 ちを かけ る よう に︑ 二十 三日 夜の 大雨 によ り二 十日 の時 以上 の大 洪水 がも たら され
︑翌 二十 四日 条に よる と再 び中 島・ 永良 の堤 三︑ 四
ヵ
所が 決壊 して︑﹁ 田地 一円 不残 そん
(損
し)
候︑ 家ひ し
(拉
け)
候﹂ とい う田 地・ 家屋 の流 損を 招き
︑結 果﹁ 無所 務
」
(同 月 二十 七日 条) とい う︑ 収穫 不能 の状 況に まで 至っ てい る︒ この ため︑家 忠は 二十 七日 には
﹁小 兵
」
( 小兵 衛() を)︑二 十九
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日に も人 を浜 松へ この 大雨
・洪 水の 被害 に対 する 訴願 (
﹁御 訴訟
﹂) のた めに 遣わ して いる
︒こ れに より
︑使 者が 浜松 よ り帰 還し た八 月三 日条 によ ると
︑家 康よ り﹁ 縦御 普請 候共 御赦 免﹂
︑つ まり
﹁御 普請 役﹂ の免 除を 得て
︑大 雨・ 洪水 の被 害か らの 復興 に努 める よう 処置 をさ れた こと がわ かる
︒ これ らの 記載 より
︑こ の時 の相 次ぐ 水害
︑特 に家 忠が
﹁五 十年 已来
﹂と 記す 七月 の相 次ぐ 水害 によ る被 害の 甚大 さ が窺 えよ う︒ この 大雨 は三 河国 だけ でな く︑ 甲斐 国︑ その 後は 関東 地域 でも 被害 をも たら し()
︑特 に同 年八 月八 日付 け
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で相 模北 条氏 に宛 てら れた 古河 足利 家奉 行人 連署 状写 (
﹁喜 連川 文書 案二
﹂﹃ 戦国 遺文 古河 公方 編﹄ 一四 七五
・一 四七 六) によ ると
︑下 総国 古河 (茨 城県 古河 市) 周辺 地域 にお いて も﹁ 廿ケ 年已 来﹂ とさ れる 古河 近辺 をは じめ 関宿 (千 葉県 野田 市)
・高 柳( 埼玉 県久 喜市 )・ 柏戸 (同 加須 市) など の堤 決壊 に伴 う大 洪水 によ る甚 大な 被害 をも たら した こと が確 認で き る︒ 徳川 領国 では 史料 上か らは 三河
・甲 斐両 国し か窺 えな いが
︑第 一節 でみ た遠 江国 井伊 谷で の徳 政状 況の 発生 を考 える と︑ 少な くと も遠 江国 にも 深刻 な被 害を もた らし たこ とが 想定 でき る︒ そし て︑ この 大雨
・洪 水に よる 収穫 不能 とい う再 生産 活動 の危 機的 状況 が︑ 翌年 春に 対処 を求 める 徳政 状況 の発 生へ と繫 がっ たの であ ろう
︒ 以上 の検 討を ふま える なら ば︑ 徳政 令発 令の 背景 に︑ この 前年 の三 河・ 遠江 両国 にお ける 大雨
・大 洪水 によ る甚 大
なる 被害
︑と りわ け収 穫不 能と いう 再生 産活 動の 危機 的事 態が より 直接 的な 要因 とし て考 えら れよ う︒ つま り︑ この 前年 の三 河・ 遠江 両国 にお ける 大雨
・洪 水に よる 地域 の再 生産 活動 の危 機的 事態 の展 開が
︑同 地域 での 羽柴 秀吉 との 戦争 を間 近に 控え る状 況も 併せ て﹁ 国家
﹂存 立へ の支 障と なり
︑徳 政状 況を 発生 させ
︑こ の事 態へ の領 主の 勧農 責務 とし て同 地域 に徳 政令 が発 令し たと 位置 づけ るこ とが でき よう
︒ 三 徳政 令の 特質 と効 用 これ
まで の第 一節
・第 二節 での 検討 から
︑天 正十 二年 (一 五八 四) 三月 の三 河・ 遠江 両国 に対 する 徳政 令は 前年 の同 地域 にお ける 大雨
・大 洪水 によ る再 生産 活動 の危 機︑ 羽柴 秀吉 との 戦争 を間 近に 控え ると いう 状況 下に おけ る同 地域 の徳 政要 求を 受け
︑﹁ 国家
﹂存 立へ の支 障対 処と して 実施 され
︑こ れに より 徳川 氏は 大名 権力 とし ての
﹁国 家﹂ 存立 の保 持と いう 責務 を果 たそ うと した こと が指 摘で きよ う︒ 従っ てこ の徳 政令 発令 を︑ 単純 に小 牧・ 長久 手合 戦に 伴う 領国 支配 の強 化︑ つま り領 国総 動員 体制 の構 築像 に結 びつ ける こと には 再考 を要 しよ う()
︒で は︑ この 徳政 令の 特質 と
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効用 は如 何な るも ので あっ たの であ ろう か︒ まず
︑徳 政令 の特 質と 効用 を考 える に際 して は︑ 新行 紀一 氏が 指摘 した
︑こ れに 伴う
﹁経 済混 乱﹂ にも 注目 する 必 要が ある
︒確 かに 自然 災害 によ る村 落の 再生 産の 危機 に際 し︑ 例え ば年 未詳 七月 三十 日付 け大 和惣 国百 姓等 申状 (
﹁法 隆寺 文書
﹂﹃ 中世 政治 社会 思想
﹄下
︑三 一七 頁() )に みら れる よう に︑ 領主 への 徳政 要求 がな され た︒ しか し︑ 特に 自然 災
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害・ 飢饉 や戦 争で 社会 にお ける 再生 産が 破壊 され る状 況に あっ た中 世社 会に おい て︑ 債権
・債 務関 係は 相互 扶助 によ り再 生産 を復 興さ せて いく ため に必 要不 可欠 な社 会シ ステ ムで あっ たこ とを ふま える なら ば()
︑徳 政は 同時 に﹁ 経済 混
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乱﹂ によ る再 生産 への 支障 とい う逆 効果 も伴 うこ とと なる こと にも 注意 を要 しよ う()
︒実 際︑ よく 知ら れる 弘治 四年
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(一 五五 八) 二月 二日 付け 大和 国宇 治郡 百姓 等連 判状 (
﹁三 箇家 文書()
﹂) から は︑ 徳政 要求 (徳 政状 況の 展開 に) より 金融 業者
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が﹁ 一向 ニ無 之﹂ とい う状 況が 生じ
︑逆 に村 落の 再生 産( 成り 立ち )に 支障 を来 す事 態が 想定 され る︒ 従っ て鈴 木将 典 氏が 指摘 する よう に︑
﹁徳 政令 が発 令さ れる こと で地 域の 経済 が混 乱に 陥り
︑金 融が 止ま り︑ 債務 者側 も米 銭を 借り られ なく なっ て︑ 結果 的に
村 の成 り立 ち に悪 影響 を及 ぼす()﹂と いう 徳政 のも つ特 質を ふま えて
︑効 用を 考え てい
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かな けれ ばな らな い︒ 永禄 七年 (一 五六 四) の三 河一 揆終 結時 にお ける 徳川 氏( 永禄 九年 十二 月以 前は 松平 氏だ が︑ 史料 を除 き本 章で は徳 川氏 で 統一 する に) よる 徳政 撤回 とい う事 態も
︑こ の徳 政の もつ 特質 がも たら した 効用 より 考慮 すべ き事 例で あろ う︒ これ に関 わる 史料
・ を 次に 掲げ る︒︻史 料
︼松 平家 康判 物写 (
﹃譜 牒余 録﹄ 愛 三四
〇) 11 就今 度別 而御 馳走 候︑ 其方 一身 閙幷 中徳 政之 儀︑ 任望 同心 候︑ 永代
・祠 堂物 相除
︑当 借・ 久〔旧〕 借・ 年記〔季〕
・本 物・ 本 直等 之下 地・ 米銭 可被 下候 ハ仭
︑自 然土 呂・ 針崎 其外 敵方 之者 無事 之上 申事 候共
︑可 為右 同前 候︑ 縦前 々自 今以 後徳 政除 之判 形雖 出方 有之
︑今 度之 御忠 節異 他候 間︑ 可為 無除 者也
︑ 永禄 七年
子甲
蔵人
(松 平)
正月 廿八 日
家康 御判 松平 主殿 助
(伊 忠)
参殿
︻史 料
︼水 野信 元書 状(
﹁本 光寺 常盤 歴史 資料 館所 蔵文 書﹂ 愛 四〇 二) 11
猶以 深溝 家中 上下 之借 儀︑ 右之 分ニ 候︑ 深溝 へも 達而 異見 を申 候︑ 此外 不申 候︑ 深溝 米銭 旧借 付而
︑去 年中 一揆 之刻
︑不 可有 返弁 之一 札を 深溝 被江 出候
︑然 処当 春属 無事 之時
︑如 前々 と土 呂其 外ヘ 一札 被出 候︑ 只今 御相 論如 何候 間︑ 来年 中ニ 本米
・本 銭を 以︑ 従深 溝返 弁被 成候 へ︑ 当年 之儀 ハ一 円納 所成 間敷 候︑ 此旨 岡諸 宿
〔崎 脱ヵ
老〕
談与 合仕 申定 候︑ 双方 之御 為︑ 第一 国之 御為
︑旁 以家 康も
(松 平)
祝着 可申 候︑ 国中 何方 之家 中も 同前 候︑ 但永 地計 相除 候︑ 其外 借義 一切 ニ本 を以
︑来 年中 ニ可 有其 沙汰 候︑ 岡崎 同心 之衆 点を 被合 候︑ 各不 及御 異乱
︑御 合点 可被 成候
︑恐 々謹 言︑ 十二 月朔 日
(永 禄七 年)
信元 (花 押)
(水 野)