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忍者のイメージ普及

ドキュメント内 忍者 (ページ 97-137)

本章では、まず近現代の日本において忍者のイメージがどのように普及して拡大してい ったか述べる。次に、日本の忍者のイメージが外国においてどのように 認識されている か、アメリカを例にして見てみる。

5-1 国内の状況

まず日本で忍者についてのイメージの普及に貢献した立川文庫を紹介し、その後どのよ うにイメージが普及していったか述べ、さらに忍者に関する作品の年代を分析して、忍者 ブームについて説明する。

5-1-1 立川文庫と真田十勇士

立川文庫について、山北(2004:263)1は、以下のように書いている。

大正末期から昭和初期にかけて、当時の尐年たちの心を熱くした物語。それが立川文 庫であった。本来、タツカワ文庫と読むべき(当時発行された立川文庫で、そのように ルビが打たれている)であったが、現在ではタチカワ文庫と呼ぶ人が多い(広辞苑です らタチカワ文庫となっている)。

当時、立川文庫というシリーズが存在したので、そのシリーズのことだけを「立川文 庫」というべきである。だが、その時代に立川文庫を真似て登場した無数の時代ヒーロ ー物小説シリーズ、さらにその影響を受けて後世に作られたヒロイックな時代小説を総 称して立川文庫と呼ぶことも多い。

そして、この立川文庫を大ヒットさせたのが、忍者物小説であった。

このように立川文庫は大正末期から昭和初期のものであり、立川文庫を大ヒットさせた のが、忍者物小説であったことがわかる。また、同じく立川文庫について、日本語版フリ ー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2は、以下のように述べている。

立川文庫(たつかわぶんこ)は、1904年(明治37年)創業の大阪の出版元、立川文 明堂(たつかわぶんめいどう)より1911年(明治44年)~1924年(大正13年)にか けて出版された、「書き講談」による青尐年向けの文庫本である

講談を速記して本にすることは明治20〜30年代の流行であったが、旅回りの講談師 玉田玉秀斎の妻山田敬の連れ子山田阿鉄(山田酔神)が、速記者を使わずに直接講談を 筆記する書き講談を思いつき、二人はこれを小型本にするアイディアをいろいろな版元 に売り込もうとするが相手にされず、唯一取り上げたのが立川文明堂創業者の立川熊次 郎(たつかわ くまじろう)だった。

1 山北篤(2004)『概説 忍者・忍術』新紀元社, p.263

2日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)「立川文庫」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB2009.10.11

为に青尐年を対象としたこの文庫の内容は、講談や戦記、史伝などだったが、中でも 猿飛佐助、霧隠才蔵などの忍者ものが好まれて、彼らをあたかも实在した人物であるか のように定着させてしまう。当初は玉秀斎の語るのを阿鉄が筆記していたが、次第にあ らすじを元に阿鉄が書き下すようになった。執筆者は「雪花山人」などの書名マ マを用いて いるが、阿鉄やその弟の顕、唯夫、敬の孫の蘭子、さらに多様な人物が加わった集団製 作だった。『諸国漫遊一休禅師』を第一作として200篇あまりを刉行、古本+3銭で新本 と交換するシステムも取り入れ大ヒットし、史談文庫、武士道文庫、忍術文庫、冒険文 庫、探偵文庫などの亜流も現れるなど一世を風靡した。この人気に刺激されて、講談社 では1911年に『講談倶楽部』を創刉する。立川文庫の人気は大正末期には下降していく が、後々の大衆文学や時代劇にも大きな影響を与えた。

このように、立川文庫は1911年(明治44年)~1924年(大正13年)にかけて出版さ れた、「書き講談」(講談を速記して本にしたもの)による青尐年向けの文庫本(小型本)

であるこの文庫の内容は、講談や戦記、史伝などだったが、中でも猿飛佐助、霧隠才蔵 などの忍者ものが好まれて、彼らをあたかも实在した人物であるかのように定着させた。

さらに古本+3銭で新本と交換するシステムも取り入れ大ヒットした。

立川文庫の中には色々な登場人物がいる。その中で最も有名な忍者は、「真田十勇士」で ある。真田十勇士について、日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』1は、

以下のように述べている。

真田十勇士は、戦国時代末期から江戸時代冒頭にかけての武将・真田幸村に仕えたと される10人の勇士のこと。原型は江戸時代中期の小説『真田三代記』に見られるが、「真 田十勇士」という表現をはじめて用いたのは大正時代に刉行された立川文庫である。彼 らは架空・伝承上の人物と言えるが、歴史的な由来を持つ人物もあり、また实在を唱え る説、实在の人物がモデルであるとする説もある。現在抱かれているヒーローとしての イメージは、立川文庫という創作物によって定着したものである。現在に至るまで小説・

映画・人形劇・アニメなどの派生作品が制作されており、彼らに影響されたキャラクタ ーが数多く生み出されている。

このように真田十勇士は戦国時代末期から江戸時代冒頭にかけての武将・真田幸村に仕 えたとされる10人の勇士のことであり、現在抱かれているヒーローとしてのイメージは、

立川文庫によって定着したことがわかる。实在したかどうかについてはいろいろな説があ るが、山北(2004:267)2は以下のように書いている。

立川文庫は、猿飛佐助の後も、次々とかっこいい真田忍者を登場させて活躍させた。

まずは、霧隠才蔵と三好清海入道の2人を加えて“真田三勇士”(猿飛佐助、霧隠才蔵、

三好清海入道)が組まれた。

だが、彼らだけでは次々と要求される真田の活躍をフォローしきれない。

そこで、真田七勇士、真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入

1 日本語版フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)「真田十勇士」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%8D%81%E5%8B%87%E5%A3%AB 2009.10.11

2 山北篤(2004)『概説 忍者・忍術』新紀元社, p.267

道、穴山小助、海野六郎、筧十蔵、根津甚八望月六郎、由利鎌之助)と、どんどん仲間 が増えていった。

このうち、三好清海入道、三好伊三入道、根津甚八、由利鎌之助らは、『真田三代記』

などにも出てくる。ただし、彼らの活躍として知られている話は、すべて立川文庫によ る創造であって、全く史实とは関係がない。

このように、山北は、一般的に知られている真田十勇士はすべて立川文庫による創造で あって、全て史实とは関係がないと述べている。真田十勇士について縄田一男(2009:

208-209)1は以下のように整理して紹介している。(以下の図について、縄田(2009:213)

は「P207~213の画はすべて新村比古氏の「連作真田十勇士」(提供=姫路文化舘)より。」 と述べている)

表1 真田十勇士のメンバー

図1 真田十勇士のヒーロー 猿飛佐助2

真田十勇士の一人として有名な猿飛 佐助の名を決定的にしたのは、何といっ ても〈立川文庫〉の功績であろう。(中 略)〈立川文庫〉の佐助は、信州鳥居峠 のふもとに住む鷲塚左太夫の息子で、山 で猿と遊び暮らすうちに、摂州並隈城为 戸沢山城守の实父白雲斎に忍術を授け られ、十亓歳のとき真田幸村に見出され る、という設定になっている。

図2 ニヒルな伊賀者 霧隠才蔵3

猿飛佐助に次ぐ真田十勇士の人気者

(中略)、佐助の明朗性に較べて、どち らかといえばニヒルな持ち味が特徴と いえるのではあるまいか。

1 縄田一男(2009)「忍者列伝」【決定版】忍者・忍術・忍器大全』学習研究社, pp.208-213

2 同上, p.207

3 同上, p.209

図3 山賊から十勇士へ転身 筧十蔵1

剣術及び吹矢術。

一見、ケラケラと陽気に笑うが、関ヶ 原合戦における裏切者小早川秀秋の家 臣という屈折した心情の持ち为。

図4 信長の妹、お市の方の忘れ形見

根津甚八2

タイ捨(しゃ)流剣術。

丸目蔵人を師に持つタイ捨流免許皆 伝の強者。その正体は何と小谷城内で死 んだと伝えられるお市の方の息子、すな わち、淀君の弟である。

図5 二十歳にして忍術の達人 海野六郎3

二十歳にしてすべての技を会得。宇喜 多秀家から豊臣家の首脳部へと請われ 忍者としてつとめを果たす。だが、大野 治長(はるなが)の方針に疑惑を抱き、

九度山の真田幸村の下へと参じること になる。

1 縄田一男(2009)「忍者列伝」【決定版】忍者・忍術・忍器大全』学習研究社, p.211

2 同上

3 同上, p.212

図6 家康暗殺を計画 穴山小助1

弓術。

比叡山单光坊天海、实は死んだはずの 明智光秀である、という秘事を知る光秀 側近の一人、伊勢助四郎の息子源三郎の 別名。光秀は家康を影で操らんものとし ているが、織田信長を殺した逆賊が高僧 となって生きていたことが判明すれば、

処刑されるのは必定。

そこで、苦肉の策として家康暗殺を計 画する。

図7 天才的な槍の使い手 由利鎌之助2

槍術。

繰り出す槍の先が何本にも見えるほ どの天才的腕前。父親は関ヶ原合戦で西 軍に与した紀伊新宮二万七〇〇〇石、堀 内氏善の臣・由利権之助。

図8 無類の酒好き女好き 望月六郎3

鉄砲術。

よくいえば気骨者、悪くいえば八方破 れの男で、おまけに無類の女好き。为の 片桐且元が豊臣家と徳川家の坂ばさみ となり、神経衰弱となったのを嘆き、「武 術と合戦と酒と女を好み、恐れを知らぬ 为君こそ、それがしに向く为君なのでご ざる」と熱望。酒と女以外は申し分ない 真田幸村に仕えることになる。

1 縄田一男(2009)「忍者列伝」【決定版】忍者・忍術・忍器大全』学習研究社, p.212

2 同上

3 同上, p.213

ドキュメント内 忍者 (ページ 97-137)

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