言葉の大切さを嚙みしめる 平成 3 年生 18 歳 ♀
漢方を求めてしばしばやって来る。おばあちゃん,父 親, 母親と,一家全員が当院に通院している。身長 161
㎝,体重 67㎏の肥満体。
22 年2月2日,一年の間が空いてひょっこりやって来 た。明日,大学入試がある。かぜ引いた,とのこと。桂 麻各半湯(桂枝湯〈エキス〉+麻黄湯〈エキス〉)を投与。
5 月 12 日,来院。最近上半身が重くて,だるい。首すじ,
肩,背中が張って痛む。寝付きが悪く,考え込んでし まう。悪い夢ではないが夢が多い。生欠伸がよく出る。
食欲はよいのに便通が悪く,三日に一度。しかし,時に,
逆に下痢することもあって,お腹が痛む。俯き気味に,
ポソポソとこの如きを訴える。
腹証は,全体にやや膨満し,特に下腹部がかたい。実 証腹である。甘麦大棗湯(エキス)2包を起床時に服し,
厚朴三物湯(大黄 2.0)を夕方学校から帰宅した時と,
夜の二回に分けて服しましょうと,7日分を処方した。
5分から 10 分煎じを指示。
うつ病態が感じられたので,次のようなことを話した。
「誰でも気分の高まる時と,その逆のことがある。それ が生きていくということではないか。気分の落込んだ時,
頑張れといったって,頑張れないのだから,それにまか せ,じっと我慢する。それしかないと私は思う。辛い けど仕方ない。でもそうすることが,そこから早く抜 け出すベストの方法である。そのことをしっかり受け 入れましょう。○○さんだけではないのだから。それと,
お腹の中のきたないもの … 便をきれいに出すようにし ましょう。お腹がすっきりすれば,気分だって晴々して
くるから」
6 月 1 日,母親が自分の薬を取りに来て,事後の様子 を報告してくれた。「有り難うございました。娘はよく なりました。先生の言葉がよかったみたい。お薬は二,
三日服しただけで,ふっ切れたみたいに元気になりま した。それと,漢方で便がうんと出て,気持ちがよかっ たみたいです」
先生の言葉がよかったみたいと言われたのが嬉し かった。(『東靜漢方研究室』33〈4〉:50,2010)
「頑張れ」ではなく「辛抱しましょう」
治療に於ける,耐えること,辛抱することにつき,考 えてみる。うつ病の患者に,頑張れという言葉は余り 掛けない方がよいという。賛成である。頑張ろうとし ても頑張れないのがうつ病である。単なる怠けではな い。以前は,患者の訴えを黙って聞くことが多かったが,
このところ,しばしば本症例のように辛抱しましょうね,
と語りかける。
“ 耐える ” “ 辛抱する ” と “ 頑張れ ” は違う。“ 耐える ”
“ 辛抱する ” には受動的ニュアンスがあるが,“ 頑張れ ” は能動的ニュアンスが強い。その根は同じでも,働き掛 けが異なっている。“ 耐える ” “ 辛抱する ” は患者により 寄り添うが,“ 頑張れ ” は患者と距離を置く。“ 頑張れ ” とはっぱを掛けるのは,すくなくとも患者の上位,優位 にたつものである。こうしたことで “ 耐える ” “ 辛抱する ” と “ 頑張れ ” とは,その性質を大きく異にすると思う。
治療に於けるこの耐えることの意味,重要性を改めて 考えるのは,秋田の病院で出会った,一人の女性の結核 患者に学んだことを思い出すからである。この患者につ いては今迄何度も記したが,再度記す。
56 ●
忘れられない秋田での一人の患者
生まれは中部地方の愛知だが,若い頃,東北に長くい たので,私は今も東北が好きだ。仙台で 10 年,秋田で 4年を過ごした。仙台から秋田に移る時,そこでさえ遠 い仙台から,更に離れた秋田と聞いて,母親は数日寝込 んでしまった,と後に聞いた。しかし秋田のその病院は,
院長を初め皆若々しく活気にみち溢れ,充実した生活を 送ることが出来た。
その病院で 2 年間結核病棟を受け持った。結核は既 に斜陽の病気であったが,なお 50 名近くが入院してい た。10 年以上の長期入院の強者も多く,今考えても,
未熟な私がよく勤まったものだ。そこに一人の 40 歳く らいの女性患者がいた。カリエスで脊椎をやられ背が まるまっていた。不思議と回診の度に何か人間的に惹 かれるものを感じるのであった。小学校4年生で発病し,
以後ずっと病院生活を送っているという。以前はよく母 親が来て,“ この子を残しては死に切れない ”,そういっ てベッドの隣で寝泊りしていたが,その母親も他界し て今は訪れる者が殆んどいないのだと看護婦(あえて 師でなく婦と呼ぶ)さんから聞いた。彼女は一度として,
そのこと,自分の境遇を愚痴ることはなかった。3人部 屋で丁度同じ年頃の女性が同居していた。その患者も 逆の面で印象に残るが,機あるごとに我が身の不幸を 愚痴っていた。“ なんで自分はこんな病気になったのか ”
“ 皆は面白そうに外で生きているのに自分はなんでこん な所で横になっていなくてはならないのか ” と。そして しばしば看護婦さんとトラブルを起こした。それは早朝 であろうと夜中であろうと時かまわずである。午後9 時の消灯後に看護婦さんと大声でどなり合うのを彼女 は隣のベッドで耳をふさいでじっと我慢していたであ ろう。自分の境遇を嘆いたところで,愚痴ったところで,
どうなるものではない。生きるにはじっと耐えるしかな いことを賢明な彼女は悟っていたのである。小学校4 年迄の学歴なのに彼女の文章はしっかりし,達筆であっ た。看護婦詰所で読めない字のある時は,彼女に教わっ て来なと言い合ったものだということも古い看護婦さ んから聞いた。
耐えて耐えて,耐え抜いて,魂が研ぎ澄まされてい
たのであろう。何か人間的なものに惹かれたというのは,
その魂が放つオ−ラであったのだろう。
秋田を離れてしばらくして,彼女から一通の手紙を受 け取った。便箋2枚に達筆で近況が記されていた。体 調がすぐれず何日もかけてやっと書き上げましたとの 文面で始まり,毎日看護婦さんに支えられトイレに行っ ている,そのトイレの手洗いの窓から今盛りの桜の花 を見ることが出来て,しみじみ生の喜びを感じました,
と書かれていた。
あの体で,そしてトイレの手洗いの小さな窓越しの桜 の花にしみじみ生の喜びを感じるということ,思わず目 頭が熱くなった。まず彼女の不遇に思いを馳せた。もし 結核がなかったなら彼女は素敵な妻に,そして賢明な母 親にも成り得た女性である。それなのに,である。しかし,
研ぎ澄まされた彼女の魂だからこそ,窓越しの一枝の桜 にも “ しみじみと生の喜び ” を感じ得るということ,つ まりこういう者にのみ,神は大自然の生の息吹に深く感 応し得る能力を与えるのではないか。溢れる情報に追い 立てられるかのように,ただただ忙しく生きることが 本当の生であるのか。“ 静 ” に徹することを忘れてしまっ ているのではないか。彼女の手紙を読み返し,この思い に耽る。自分の思い通りにならないと,すぐ切れて簡単 に人も殺める昨今の世相のなか,人間としての正しい生 き方の一つを教わったのは,今にして思えば掛け替えの ない彼女からの贈り物であった。彼女はその後しばら くして喀血で亡くなった,と耳にした。臨終の脈をとっ てあげられなかったことが悔やまれる。
*
彼女を思い出し,“ ね,辛抱しましょう。私もよいお 薬を処方するよう頑張りますから ”,と診察時口にする ことが多くなった。耐える,辛抱することで,初めて我々 はより大きな貴重なものを手にし得る。この真理を彼女 に教わったからである。
*
今年(平成 22 年)は冠雪が遅かった。11 月になって,やっと頂上付 近に僅かに白いものを見るのみであった。それが,先日肌寒い雨の日が あって,一夜明けると4合目まで真っ白く雪に被われていた。毎年見慣 れている富士山だが,一夜にして姿を変えるのも珍しい。(11 月 27 日記)
三島便り・漢方のある日々/漢方だけではない,” 心 ” への対応が重要だ
研究会リポート
千葉大学東洋医学研究会 自由講座
2010 年 10 月 28 日 千葉大学医学部附属病院 3階第2講堂
全国に数ある学生研究会のなかでも,千葉大学東洋医学研究会は戦前に設立され た,おそらく最も古い会である。多くの優れた漢方の臨床家を次々と輩出してきた 歴史がある。それらの先生方は,学内外で大きな活躍をされ,「千葉古方派」と呼ば れて尊敬をあつめている。今回は,研究会の活動の1つである「自由講座」を取材
させていただき,OB の並木隆雄先生や会長を務める学生さんにお話をうかがった。 並木隆雄先生
◆
研究会は 70 年,自由講座は 60 年の歴史
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有名な OB から講義を受ける◆
学生時代は自由に学ぶのがよい 東洋医学研究会の設立は 1939 年。当時,千葉医科大学(千葉大学医学部の前 身)の同級生だった故・藤平健先生と故・
長濱善夫先生が意気投合して発足に奔走 し,東洋医学に造詣が深かった眼科教室 の故・伊東彌惠治教授を会長(顧問教官)
として立ち上げた。以後,70 年以上に わたって連綿と受け継がれてきた。和漢 診療学講座准教授の並木隆雄先生ご自身 も在学中の1982年には会長を務められ,
現在は,O B として学生のサポートをさ れている。
「私も最初は学生のサークルですから趣 味的な集まりだと思っていたのですが,
設立の経緯を知ると,そうではないこと がわかりました。たぶん,日本で最初に 大学内で正式な手続きを経て創会された のがこの研究会で,それは東洋医学が大 学アカデミズムと出合った最初の歴史と もいえるのです。今でこそ他の大学でも 似たような会ができていますが,戦前か ら続いているのは珍しいと思います」
そういう特殊な経緯で始まった会だ が,すぐアジア・太平洋戦争のために一 時休止の状態に追い込まれている。しか
し戦後すぐに活動が再開され,戦争に行 かれていた藤平先生たちも復員してき て,1947 年からは自由講座が開始された。
「自由講座は名前の通り,学生が自由に 選択して聴講できる講座です。発足時は,
教授会の承認のもとで課外授業の形態を とって行われていました。講師陣は藤平 先生と小倉重成先生を中心に,和田正系 先生,伊藤清夫先生も加わっていたと記 録されています。今も漢方に詳しい O B を中心とした先生方から直接講義を受け られるカリキュラムになっています」
1947 年以降,毎年休みなく続いてい るというから驚く。2010 年度の講師陣 には, 学外からも大学 O B の秋葉哲生先 生,今田屋章先生,伊藤隆先生,三潴忠 道先生,土佐寛順先生などの錚々たる顔 ぶれが並んでいる。
「O B の先生方にはすべてボランティ アで来ていただいています。藤平先生 や小倉先生も長い間手弁当で教えてくだ さっていました。みんなその恩返しをし たいという気持ちなのです。私も大学に 籍を置く O B として,学生のアドバイ ザー役を務めさせていただいています」
取材当日の講師は,並木先生ご自身で あった。『傷寒論』の条文について,多 くの症例をまじえながら,初心者にもわ かりやすく講義をされていた。
会場となった教室の中では,さまざま な年齢層の方たちがみられた。自由講座 が始まった当初は学内の学生のみを対象 をしていたが,1970 年頃からは公開形 式になって現在に至っている。学生のほ かに,開業医や薬剤師の先生方も多く参 加され,わざわざ県外から足を運ぶ方も いるという。
並木先生ご自身が漢方に取り組まれる ようになった理由をお尋ねしてみた。
「多くの先生方は,西洋医学とは全く違 うものを東洋医学に求めて始められるの だと思うのですが,私の場合は,もとも と漠然と東西の医学を統合した方がよい のではないかと考えていたところ,入学 後にこの東洋医学研究会に出合ったので す。試しに見学に行ったら想像した以上 に系統立った構成だったので,これは勉 強する価値があると思って入りました。
お世話になった寺澤捷年先生も西洋医学 と東洋医学を統合して,より素晴らしい