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“ 心 ” への対応が重要だ

ドキュメント内 0125_1_no5 (ページ 58-62)

言葉の大切さを嚙みしめる  平成 3 年生 18 歳 ♀

 漢方を求めてしばしばやって来る。おばあちゃん,父 親, 母親と,一家全員が当院に通院している。身長 161

㎝,体重 67㎏の肥満体。

 22 年2月2日,一年の間が空いてひょっこりやって来 た。明日,大学入試がある。かぜ引いた,とのこと。桂 麻各半湯(桂枝湯〈エキス〉+麻黄湯〈エキス〉)を投与。

 5 月 12 日,来院。最近上半身が重くて,だるい。首すじ,

肩,背中が張って痛む。寝付きが悪く,考え込んでし まう。悪い夢ではないが夢が多い。生欠伸がよく出る。

食欲はよいのに便通が悪く,三日に一度。しかし,時に,

逆に下痢することもあって,お腹が痛む。俯き気味に,

ポソポソとこの如きを訴える。

 腹証は,全体にやや膨満し,特に下腹部がかたい。実 証腹である。甘麦大棗湯(エキス)2包を起床時に服し,

厚朴三物湯(大黄 2.0)を夕方学校から帰宅した時と,

夜の二回に分けて服しましょうと,7日分を処方した。

5分から 10 分煎じを指示。

 うつ病態が感じられたので,次のようなことを話した。

「誰でも気分の高まる時と,その逆のことがある。それ が生きていくということではないか。気分の落込んだ時,

頑張れといったって,頑張れないのだから,それにまか せ,じっと我慢する。それしかないと私は思う。辛い けど仕方ない。でもそうすることが,そこから早く抜 け出すベストの方法である。そのことをしっかり受け 入れましょう。○○さんだけではないのだから。それと,

お腹の中のきたないもの … 便をきれいに出すようにし ましょう。お腹がすっきりすれば,気分だって晴々して

くるから」

 6 月 1 日,母親が自分の薬を取りに来て,事後の様子 を報告してくれた。「有り難うございました。娘はよく なりました。先生の言葉がよかったみたい。お薬は二,

三日服しただけで,ふっ切れたみたいに元気になりま した。それと,漢方で便がうんと出て,気持ちがよかっ たみたいです」

 先生の言葉がよかったみたいと言われたのが嬉し かった。(『東靜漢方研究室』33〈4〉:50,2010)

「頑張れ」ではなく「辛抱しましょう」

 治療に於ける,耐えること,辛抱することにつき,考 えてみる。うつ病の患者に,頑張れという言葉は余り 掛けない方がよいという。賛成である。頑張ろうとし ても頑張れないのがうつ病である。単なる怠けではな い。以前は,患者の訴えを黙って聞くことが多かったが,

このところ,しばしば本症例のように辛抱しましょうね,

と語りかける。

 “ 耐える ” “ 辛抱する ” と “ 頑張れ ” は違う。“ 耐える ” 

“ 辛抱する ” には受動的ニュアンスがあるが,“ 頑張れ ” は能動的ニュアンスが強い。その根は同じでも,働き掛 けが異なっている。“ 耐える ” “ 辛抱する ” は患者により 寄り添うが,“ 頑張れ ” は患者と距離を置く。“ 頑張れ ” とはっぱを掛けるのは,すくなくとも患者の上位,優位 にたつものである。こうしたことで “ 耐える ” “ 辛抱する ” と “ 頑張れ ” とは,その性質を大きく異にすると思う。

 治療に於けるこの耐えることの意味,重要性を改めて 考えるのは,秋田の病院で出会った,一人の女性の結核 患者に学んだことを思い出すからである。この患者につ いては今迄何度も記したが,再度記す。

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 忘れられない秋田での一人の患者

 生まれは中部地方の愛知だが,若い頃,東北に長くい たので,私は今も東北が好きだ。仙台で 10 年,秋田で 4年を過ごした。仙台から秋田に移る時,そこでさえ遠 い仙台から,更に離れた秋田と聞いて,母親は数日寝込 んでしまった,と後に聞いた。しかし秋田のその病院は,

院長を初め皆若々しく活気にみち溢れ,充実した生活を 送ることが出来た。

 その病院で 2 年間結核病棟を受け持った。結核は既 に斜陽の病気であったが,なお 50 名近くが入院してい た。10 年以上の長期入院の強者も多く,今考えても,

未熟な私がよく勤まったものだ。そこに一人の 40 歳く らいの女性患者がいた。カリエスで脊椎をやられ背が まるまっていた。不思議と回診の度に何か人間的に惹 かれるものを感じるのであった。小学校4年生で発病し,

以後ずっと病院生活を送っているという。以前はよく母 親が来て,“ この子を残しては死に切れない ”,そういっ てベッドの隣で寝泊りしていたが,その母親も他界し て今は訪れる者が殆んどいないのだと看護婦(あえて 師でなく婦と呼ぶ)さんから聞いた。彼女は一度として,

そのこと,自分の境遇を愚痴ることはなかった。3人部 屋で丁度同じ年頃の女性が同居していた。その患者も 逆の面で印象に残るが,機あるごとに我が身の不幸を 愚痴っていた。“ なんで自分はこんな病気になったのか ” 

“ 皆は面白そうに外で生きているのに自分はなんでこん な所で横になっていなくてはならないのか ” と。そして しばしば看護婦さんとトラブルを起こした。それは早朝 であろうと夜中であろうと時かまわずである。午後9 時の消灯後に看護婦さんと大声でどなり合うのを彼女 は隣のベッドで耳をふさいでじっと我慢していたであ ろう。自分の境遇を嘆いたところで,愚痴ったところで,

どうなるものではない。生きるにはじっと耐えるしかな いことを賢明な彼女は悟っていたのである。小学校4 年迄の学歴なのに彼女の文章はしっかりし,達筆であっ た。看護婦詰所で読めない字のある時は,彼女に教わっ て来なと言い合ったものだということも古い看護婦さ んから聞いた。

 耐えて耐えて,耐え抜いて,魂が研ぎ澄まされてい

たのであろう。何か人間的なものに惹かれたというのは,

その魂が放つオ−ラであったのだろう。

 秋田を離れてしばらくして,彼女から一通の手紙を受 け取った。便箋2枚に達筆で近況が記されていた。体 調がすぐれず何日もかけてやっと書き上げましたとの 文面で始まり,毎日看護婦さんに支えられトイレに行っ ている,そのトイレの手洗いの窓から今盛りの桜の花 を見ることが出来て,しみじみ生の喜びを感じました,

と書かれていた。

 あの体で,そしてトイレの手洗いの小さな窓越しの桜 の花にしみじみ生の喜びを感じるということ,思わず目 頭が熱くなった。まず彼女の不遇に思いを馳せた。もし 結核がなかったなら彼女は素敵な妻に,そして賢明な母 親にも成り得た女性である。それなのに,である。しかし,

研ぎ澄まされた彼女の魂だからこそ,窓越しの一枝の桜 にも “ しみじみと生の喜び ” を感じ得るということ,つ まりこういう者にのみ,神は大自然の生の息吹に深く感 応し得る能力を与えるのではないか。溢れる情報に追い 立てられるかのように,ただただ忙しく生きることが 本当の生であるのか。“ 静 ” に徹することを忘れてしまっ ているのではないか。彼女の手紙を読み返し,この思い に耽る。自分の思い通りにならないと,すぐ切れて簡単 に人も殺める昨今の世相のなか,人間としての正しい生 き方の一つを教わったのは,今にして思えば掛け替えの ない彼女からの贈り物であった。彼女はその後しばら くして喀血で亡くなった,と耳にした。臨終の脈をとっ てあげられなかったことが悔やまれる。

 彼女を思い出し,“ ね,辛抱しましょう。私もよいお 薬を処方するよう頑張りますから ”,と診察時口にする ことが多くなった。耐える,辛抱することで,初めて我々 はより大きな貴重なものを手にし得る。この真理を彼女 に教わったからである。

 今年(平成 22 年)は冠雪が遅かった。11 月になって,やっと頂上付 近に僅かに白いものを見るのみであった。それが,先日肌寒い雨の日が あって,一夜明けると4合目まで真っ白く雪に被われていた。毎年見慣 れている富士山だが,一夜にして姿を変えるのも珍しい。(11 月 27 日記)

三島便り・漢方のある日々/漢方だけではない,” 心 ” への対応が重要だ

研究会リポート

千葉大学東洋医学研究会 自由講座

2010 年 10 月 28 日 千葉大学医学部附属病院 3階第2講堂

 全国に数ある学生研究会のなかでも,千葉大学東洋医学研究会は戦前に設立され た,おそらく最も古い会である。多くの優れた漢方の臨床家を次々と輩出してきた 歴史がある。それらの先生方は,学内外で大きな活躍をされ,「千葉古方派」と呼ば れて尊敬をあつめている。今回は,研究会の活動の1つである「自由講座」を取材

させていただき,OB の並木隆雄先生や会長を務める学生さんにお話をうかがった。 並木隆雄先生

研究会は 70 年,

  自由講座は 60 年の歴史

有名な OB から講義を受ける

学生時代は自由に学ぶのがよい  東洋医学研究会の設立は 1939 年。当

時,千葉医科大学(千葉大学医学部の前 身)の同級生だった故・藤平健先生と故・

長濱善夫先生が意気投合して発足に奔走 し,東洋医学に造詣が深かった眼科教室 の故・伊東彌惠治教授を会長(顧問教官)

として立ち上げた。以後,70 年以上に わたって連綿と受け継がれてきた。和漢 診療学講座准教授の並木隆雄先生ご自身 も在学中の1982年には会長を務められ,

現在は,O B として学生のサポートをさ れている。

 「私も最初は学生のサークルですから趣 味的な集まりだと思っていたのですが,

設立の経緯を知ると,そうではないこと がわかりました。たぶん,日本で最初に 大学内で正式な手続きを経て創会された のがこの研究会で,それは東洋医学が大 学アカデミズムと出合った最初の歴史と もいえるのです。今でこそ他の大学でも 似たような会ができていますが,戦前か ら続いているのは珍しいと思います」

 そういう特殊な経緯で始まった会だ が,すぐアジア・太平洋戦争のために一 時休止の状態に追い込まれている。しか

し戦後すぐに活動が再開され,戦争に行 かれていた藤平先生たちも復員してき て,1947 年からは自由講座が開始された。

 「自由講座は名前の通り,学生が自由に 選択して聴講できる講座です。発足時は,

教授会の承認のもとで課外授業の形態を とって行われていました。講師陣は藤平 先生と小倉重成先生を中心に,和田正系 先生,伊藤清夫先生も加わっていたと記 録されています。今も漢方に詳しい O B を中心とした先生方から直接講義を受け られるカリキュラムになっています」

 1947 年以降,毎年休みなく続いてい るというから驚く。2010 年度の講師陣 には, 学外からも大学 O B の秋葉哲生先 生,今田屋章先生,伊藤隆先生,三潴忠 道先生,土佐寛順先生などの錚々たる顔 ぶれが並んでいる。

 「O B の先生方にはすべてボランティ アで来ていただいています。藤平先生 や小倉先生も長い間手弁当で教えてくだ さっていました。みんなその恩返しをし たいという気持ちなのです。私も大学に 籍を置く O B として,学生のアドバイ ザー役を務めさせていただいています」

 取材当日の講師は,並木先生ご自身で あった。『傷寒論』の条文について,多 くの症例をまじえながら,初心者にもわ かりやすく講義をされていた。

 会場となった教室の中では,さまざま な年齢層の方たちがみられた。自由講座 が始まった当初は学内の学生のみを対象 をしていたが,1970 年頃からは公開形 式になって現在に至っている。学生のほ かに,開業医や薬剤師の先生方も多く参 加され,わざわざ県外から足を運ぶ方も いるという。

 並木先生ご自身が漢方に取り組まれる ようになった理由をお尋ねしてみた。

「多くの先生方は,西洋医学とは全く違 うものを東洋医学に求めて始められるの だと思うのですが,私の場合は,もとも と漠然と東西の医学を統合した方がよい のではないかと考えていたところ,入学 後にこの東洋医学研究会に出合ったので す。試しに見学に行ったら想像した以上 に系統立った構成だったので,これは勉 強する価値があると思って入りました。

お世話になった寺澤捷年先生も西洋医学 と東洋医学を統合して,より素晴らしい

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