舎 私記
』『 瑜祇 経西 決
』に つい て 第
一節 序言
『瑜 祇経
』は
、 金剛 智訳
( 異説 あ り) とさ れる 金剛 界 系経 典の 一 であ り、 五大 院 安然 の 撰 述で ある
『八 家秘 録
』に よ る と、
『瑜 祇経
』は 弘法 大 師空 海、 慧雲
、宗 叡に よ って 将来 さ れ
1
、 台東 密ど ち らに おい ても 重 要な 経典 の一 つ とし て位 置 づけ られ て いる
。 本経 の注 釈書 と して は、 東 密に おけ る『 一 切如 来 大勝 金剛 頂最 勝 真実 三昧 耶品 次 第観 念』 と
、真 寂親 王( 八 八六
―九 二 七) 撰
『瑜 祇總 行私 記』 が 最初 に挙 げ られ
、次 い で台 密に お け る安 然の
『金 剛 峰楼 閣一 切 瑜伽 瑜祇 経修 行 法』
( 以下
『瑜 祇 経疏
』) が 挙げ られ る
。 中世 に至 ると
、東 密 にお いて は
、実 運 撰『
崎 祇 舎
秘决
』 二巻
、道 範撰
崎
『祇 舎
口 決
』五 巻、 性 心 撰『 瑜祇 秘要 決』 十 二巻
、頼 瑜撰
『 瑜 祇経 拾古 鈔
』三 巻等 が知 ら れて いる
。 台 密に おい ては
、 聖一 国師 円 爾弁 円
(一 二〇 二― 一二 八
〇) 秘書
『 瑜祇 経見 聞
』一 巻、 応 長 二年
( 一 三一 二) 頃成 立と 考 えら れる
『瑜 祇経 口決 抜 書』 八巻
( 尾 欠)
、澄 豪の 講 述口 決 を 弟子 が書 き留 め たも のと さ れる
『 瑜祇 経聴 聞抄
』三 巻 等が 伝わ っ てい るが
、ま だ 多く は 活 字化 が進 んで い ない
。 台密 にお いて
『 瑜祇 経』 は
、仏 頂 尊、 仏眼 仏母 を主 と 考え てい る
「金 剛吉 祥大 成 就品 第 九
」の 中で 説か れ る「 大悲 胎 蔵頓 証 八字 真言
」に 関す る こと が重 要 視さ れ、 な かで も慈 鎮 和 尚慈 円( 一一 五 五― 一二 二 五) の いわ ゆる 仏眼 信仰 は
、周 知の 通 り密 教教 学 上多 くの 研 究 対象 にな って い る
2
。慈 円 が幼 少期 に 入寺 した 青蓮 院 の吉 水 蔵聖 教は
、 現存 する 最古 の 密 教聖 教と され
、 平安 時代 中 期に 谷 阿闍 梨皇 慶の 時代 に 成立 し、 青 蓮院 初代 門跡 行 玄の と き に現 在の 姿に 整 えら れた と され る
3
。 この 吉水 蔵に 収 めら れ た『 瑜祇 経
』に 関す る書 物 は 大変 価値 が高 い と考 えら れ ては い るが
、未 だそ の内 容 の詳 細検 討 はあ まり なさ れ てい な い
4
吉 。 水 蔵聖 教類 を まと めた
『 青蓮 院門 跡 吉水 蔵聖 教目 録
』に よれ ば
、『 瑜 祇経
』に 関 連す る で あろ う書 は第 五 十四 箱に 収 蔵さ れて おり
、 十九 の書 目が 確 認で きる
。 前章 では
、『 瑜 祇 経』
「一 切 仏頂 最 上遍 照王 勝義 難摧 摧 邪一 切処 瑜 伽四 行攝 法 品第 六( 四 攝 行品
)」 に説 か れる
「 壊二 乗 心」 につ いて 考 究し
、そ の中 で安 然 の『 瑜 祇経 疏
』以 降の 東 台 密諸 師の 章疏 類 から
「壊 二 乗心
」 の印 相に つい て探 求 を行 った
。 これ ら章 疏類 中 に、 青 蓮 院吉 水蔵
『瑜 祇 経母 捺羅
』に は
、「 壊 二乗 心 印事
」と 題 した この 印 相の 何ら か の伝 承に 関 す る切 紙様 の書 面 が内 包さ れ てい る
。そ のた め、 本書 が 如何 なる 書 なの か考 察す る 必要 が あ ると 考え られ る
。そ こで
、 筆者 は まず
『瑜 祇経
』に 関 連す る青 蓮 院吉 水蔵 の 聖教 類の 中 か ら『 瑜祇 経母 捺 羅』 と、 それ と同 時 代に 書写 さ れた もの と考 え られ る『
崎 祇 舎
私 記
』、
『 瑜祇 経西 決』 の 三本 につ い て整 理・ 解析 を 試み た。 第二
節 青蓮 院吉 水 蔵『 瑜 祇経 母 捺羅
』『 崎 祇舎
私記
』奥 書に つい て 青
蓮院 吉 水 蔵『 瑜 祇 経母 捺 羅
』『
崎 祇 舎
私 記』
『瑜 祇 経 西決
』 の 奥 書が ど の よう な も の か、 諸先 生方 の 先行 研究 を 踏ま え、 内容 等 の再 確認 と解 析 を推 し進 めた い
5
。
111
三 本の 内
、『 瑜祇 経 母 捺羅
』『
崎 祇 舎
私 記
』 は、 一 冊 にま と め ら れた 合 綴 本で あ る
。 こ の二 書合 綴本 の 奥書 は、 全 て『 瑜祇 経 母捺 羅』 内に の み確 認す るこ と がで き、
『
崎 祇 舎
私 記』 には 奥書 は 記さ れて い ない
。『 瑜 祇経 母捺 羅
』奥 書を 示 すと 次の 通り で ある
。
・ 天仁 二年 六 月二 十三 日
、於
二因 幡州 高 庭浦 上清 冷
一院 記
レ之
。比 丘薬 仁矣
。
・ 書本 云。 安 元三 年
酉丁
七月 二十 七 日、
二於 鎮西 肥(筑カ
前)
州今 津誓 願
一寺
、
二以 如如 房弟 子 玄語
房本 伝 領之 人(本カ
)
、花 蔵 房之 本一
為
二書 本一 云云
。
・治 承四 年庚 子十 一 月三 日、
二於 備前 州 日応 山瑜 伽寺
一
、以
二
件 鎮西 之本
一不 意 之外 書了
。 或 修行 者之 持 本也
云云
。
基好
・ 嘉暦 三年 三 月二 日、 以
二伯 州基 好
自筆
一本 書了
。 件正 本、 在
二岡
一崎 耳
6
。 まず
、一 つ目 の 奥書 には
、 天仁 二 年( 一一
〇九
)に 因 幡州 高庭
( 荘) 浦上 清冷 院
(現 鳥 取 県鳥 取市 付近
。詳 細不 明。
)に て 薬仁 が記 した とあ る
。ま た
、二 つ目 の奥 書に は
、こ の 書 本 は安 元三 年( 一 一七 七) 鎮 西肥
( 筑) 前州 今津 誓願 寺
(現 福岡 県 福岡 市) にて 如 如房 の 弟 子玄 語房 に伝 わ る本 と花 蔵 房の 本 によ る書 本で ある こ とが 記さ れ てい る。 さ らに
、三 つ 目 の奥 書に は、 治 承四 年( 一 一八
〇
)に 備前 州日 応山 瑜 伽寺 で、 偶 然に も修 行 者が 所持 し て いた 本が 前の 鎮 西で の書 本 で、 そ れ を基 好が 書 写し たと ある
。そ し て、 四つ 目の 奥 書に
、 現 存す るこ の写 本 は、 嘉暦 三 年( 一 三二 八) 伯州 の基 好 の自 筆の 本 を( 青蓮 院付 近 の) 岡 崎 で書 写し た旨 が 述べ られ て いる
。 薬仁 につ いて は
、実 導仁 空
(一 三
〇九
―一 三八 八
)談
『伝 法 要決 鈔』
7
や 東 密の
『 十八 道 口決
』
8
等 に
、「 叡山 の長 寿 房( ま た は坊
)薬 仁」 とい うそ の 名を 確認 で きる
。薬 仁の 名 は
、智 泉 流 の血 脈に も列 ね られ てお り
9
、さ ら に、
『伝 教大 師 全集
』所 収『 合 壇 灌頂 記』 の 奥 書に
、「 有 人 云。 本 書、 祖 山長 寿 房薬 仁、 依
二谷 之 合行 記
一而 撰
レ之
。
……
10
」 と 記さ れ
、 薬 仁が この
『合 壇 灌頂 記』 を
、谷 流 の「 合行 記」 なる 書 に基 づい て 撰著 した と あり
、薬 仁 が 谷流 の法 脈に 属 され る密 教 僧で あっ たこ と が理 解さ れる
11
。ま た
、『 瑜 祇経 母 捺羅
』・
『
崎 祇 舎
私 記』 共 に表 題 に「 長 寿房
」と 題さ れて い るこ とか ら も、 薬 仁に より 記 され た内 容 で ある こと が強 調 され る。 二つ 目の 奥書 に みえ る今 津 誓願 寺 は、 葉上 房栄 西が
、 九州 に渡 っ た時 に滞 留し た 地と し て 知ら れる
。『 誓 願寺 縁起
』に よれ ば
、安 元 元 年( 一 一 七五
)十 月に は、 すで に この 地に 在 っ たよ うで ある
12
。 ま た、 三
・四 つ目 の奥 書 にみ える 基 好と は
、栄 西の 密 教の 師の 一人 で あ り、 栄西 が誓 願 寺に 留ま っ てい た 年と 照ら し合 わせ る と、 二つ 目 の奥 書は
、人 物 が記 さ れ てい ない が、 栄 西に よる も ので あ ると 考え られ る。 安 元三 年( 一 一七 七) に、 如 如房 の 弟 子玄 語房 が如 何 なる 人物 か は不 明 であ るが
、栄 西が 薬 仁よ り伝 わ る本 を書 写 した こと が 理 解で きる
。 基好 は、 先学 の 研究 によ れ ば、 大 山寺 の僧 で、 習禅 房 と称 し、 台 密に おけ る 覚超 の系 統 の 川流 の念 覚、 皇 慶の 系統 の 穴太 流 の祖 聖昭
、ま た前 述 の同 谷流 の 薬仁 の法 脈 から 鳥取 の 大 山の 兼慶 など を 通じ て受 法 し、 そ れを 栄西 に伝 法し た 師で ある
。 また
、慈 円 とも 関係 が 深 い人 物で ある
13
。 基 好は
、 栄西 の故 郷 でも あり
、帰 唐 後の 修 行や 伝法 の 拠点 の一 であ っ た 岡山 の日 応山 瑜 伽寺
(現 日応 寺
)で
、居 合わ せた 修行 者 が所 持し て いた 本書 を発 見 して
、 そ れを 書写 した と あり
、現 存 本は こ の本 をさ らに 書写 し たも のの よ うで ある
。ま た
、基 好
112
は『 瑜祇 経』 の 特 に、
「 大悲 胎 蔵八 字 真言
」に 関 する 口 伝や
、仏 眼 法 につ いて 造 詣が 深か っ た よう で、
『 瑜祇 経
』に 関す る意 識 はこ の奥 書 にも 顕れ てい る
。 薬仁
、基 好
、栄 西の 伝法 に関 し ては
、先 学 が 指摘 する
『 台 密血 脈譜
』、 尾張 密蔵 院 印信 類
「 合行 密印 谷 建 仁寺 流血 脈 阿忍 流
」よ り、 法脈 上か ら もそ の繋 が りを 確認 する こ とが で き る。
『台 密血 脈譜
』
14
慈 覚大 師― 安 惠…
(中 略
)… 景雲
― 皇慶
―勝 範
― 覚嚴
―敬 誉
―顕 意― 栄西
―頼 昭― 薬仁
― 兼慶
―基 好― 栄 西 尾張 密蔵 院印 信 類「 合行 密 印 谷建 仁 寺流 血脈 阿忍 流」
15
弘 法― 真雅
― 源仁
―益 信
―真 寂
―延 勢― 叡就
―清 助
―寂 昭― 皇 慶― 頼昭
― 覚範
―薬 仁
― 兼慶
―基 好
―栄 西…
… 第三
節
『瑜 祇経 西 決』 奥 書に つ いて
『瑜 祇経 西決
』 は前 の二 本 と同 様 薬仁 の記 が元 本で あ り、 奥書 に は『 瑜祇 経 西決
』の 由 来 が以 下の 通り 記 され てい る
。
・ 承 徳二 年 壬 九月 七 日
、依
レ
難
レ背
二
丁 寧請
一
、於
二
備 前州 児 嶋 請(諸カ
)
興 寺一
、 延 暦寺 比 丘 薬仁 記
レ之
。願
、
二以 此良
一縁
、
レ期
二為 来 浮生
一矣
。
・治 承四 年
子庚
四月 下 旬、
二於 五 条櫛
一ケ 書了
。
・書 本ハ
、白 川金 剛勝 院 之僧 三 位闍 梨圓
之長
本也
。但
、去 長 寛年 中
、彼 闍 梨
、為
二修 行 巡
一礼 令
レ参
二伯 大
一山
。基 好 草 室ニ
数月 同宿
、其 間真 言書 等 少少 被
二書
一写 了。 其 内
ノ
書也
。 基好 其カ
時 書本
、ハ
治 承己 亥年 四月 中
、為
二伯 耆 在庁 元(基カ
) 一安
、 大山 騒動 之 時
、顕 密聖 教 等尽 数、 為二
軍兵
一
被レ
取了
。其 内 如レ
此書 籍 等失 了。 仍重 所レ
尋 書也
。 基 好カ
書 本ハ
、先 年修 行 之時
、於
二多 武峰
一
、以
二慶 深嚴 浄 房本
一書 了
。修 行之 趣如
レ
此
云云
。
・嘉 暦三 年 三月 三日
、
二以 伯州 基好 自 筆本
一在 岡
書崎
写了
。( 花 押)
16
この
『瑜 祇経 西 決』 の元 本 は、 一 つ目 の奥 書に よる と
、前 の合 綴 本の 奥書 に 記さ れた 時 代 より 少し 遡っ た 承徳 二年
( 一〇 九 八) に、 備前 州児 島 の請
(諸
) 興寺
(現 岡山 県 倉敷 市 木 見。 現 在 廃寺
。) にて
、薬 仁 が記 した もの と ある
。そ して
、二 つ目 の奥 書に は
、治 承四 年
( 一一 八〇
)に そ の本 を( 後 に詳 述 する が) 京都 の五 条 櫛笥 にて 書 写し たこ とが 記 され て い る。 これ に続 け て、 三つ 目 の奥 書 に、 この 書本 は元 々 白川 金剛 勝 院の 円長 阿闍 梨 の本 で あ り、 円長 が長 寛 年中
(一 一 六三
~ 一一 六四
)に 大山 に 修行
・巡 礼 のた め立 ち 寄っ た時
、 大 山の 基好 がこ の 本を 書き 写 した
。 しか し、 この 書本 は
、治 承三 年
(一 一七 九
)に 伯耆 の 在 庁官 人で ある 小 鴨基 康と 大 山と の 騒乱 によ る兵 火で
、 大山 の聖 教 類と 共に 失わ れ てし ま っ た。 その ため
、 基好 は多 武 峰に て
、慶 深の もつ 嚴浄 房 本を 用い て 書写 した
。 現行 本は
、 四 つ目 の奥 書の 嘉 暦三 年( 一 三二 八
)に この 基好 の書 本 を書 写し た もの であ ると 記 され て い る。 二つ 目の 奥書 に みえ る、 治 承四 年
(一 一八
〇) の記 述 につ いて は
、栄 西は この 時 期、 今