心 に
―
第 一節 序言
『陀 羅尼 集経
』 は、 台密 に おい て
、最 澄が
『内 証仏 法 相承 血脈 譜
』中
、金 剛道 場 大牟 尼 尊 から 始ま る「 雑 曼荼 羅相 承 師師 血 脈譜
」に 本経 の訳 者 であ る阿 地 瞿多 の系 譜が 列 ねら れ て いる こと に始 ま り、 後に 安 然が
『 八家 秘録
』や
『教 時 問答
』に お いて この 経典 を 採り 上 げ たこ と等 から
、 その 後の 台 密事 相 に少 なか らず 影響 を 及ぼ すほ ど
、重 要な 経典 で ある
。 し かし
、安 然は
『 陀羅 尼集 経
』に おけ る 修法 に関 する 具体 的 な記 録を 遺し て いな い。 また
、『 陀羅 尼 集経
』は
、従 来最 澄撰 とさ れ た『 灌 頂 七日 行事 鈔
』の 成 立に
、そ の 修法 が 基 盤と なっ たこ と が記 され て いる
。し か し、 前 章 まで に論 じ てき たよ うに
、『 灌頂 七日 行 事 鈔
』は
、最 澄の 撰 著と する に は疑 わ しく
、少 なく とも 安 然以 降に 撰 述さ れた 書で あ ると 推 定 され る。 安然 以 降の 撰著 か どう か
、よ り詳 細に 解明 す るに は『 灌 頂七 日行 事 鈔』 の成 立 過 程の 追跡 が必 要 と考 え、 そ の基 と なっ た『 陀羅 尼集 経
』の 依用 状 況に つい て 調査 を進 め て いき たい
。 かか る観 点 から
、本 章で は
、台 密に おい て
『陀 羅尼 集 経』 に由 来 する 何ら かの 修 法が 行 わ れた かど うか に 着目 して
、『 陀 羅尼 集 経』 の 訳者 とそ の周 辺
、そ して
、日 本 にお ける 依 用 を 奈良 時代 から み てい き、
『 灌 頂七 日行 事鈔
』の 成 立年 代 を類 推 する 有力 な根 拠 と成 り得 る よ うな 件の 資料 を 精査 し、 そ の考 究を 試み た
。 第二
節
『陀 羅尼 集 経』 に つい て 第
一項 経典 の構 成
『陀 羅尼 集経
』 は、 唐永 徽 四~ 五 年( 六五 三~ 六五 四
)に 阿地 瞿 多に よっ て訳 さ れた 経 典 で、 全十 二巻 で
、諸 々の 仏 等の 経 軌を 集約 し構 成さ れ てい る。 そ の経 軌中 に 陀羅 尼呪
・ 印 契・ 壇法
・画 像 法等 が説 か れて い る。 例え ば、 巻一 は
「大 神力 陀 羅尼 経釈 迦 仏頂 三昧 陀 羅 尼品 一巻 於大 部 巻第 一」 と 題し て
、そ の中 に、 数種 類 の印 呪・ 曼 荼羅 法・ 画像 法
・壇 法 が 説か れ、 巻三 で は「 般若 波 羅蜜 多 大心 経」 とい う経 典 の中 に、 画 像法
・壇 法
、そ して い く つか の印 呪が 説 かれ てい る
。ま た
、題 され てい る印 契 や壇 法以 外 にも この 経文 中 には い く つか の作 法が 説 かれ てい る
。 本経 は、 巻 一・ 二 に仏 部、 三 か ら六 に菩 薩 部
(
巻 三は 特 に般 若)
、七 か ら 九 に金 剛 部
、十
・ 十 一に 天部
、十 二 に灌 頂普 集 会壇 法 とい うよ うに
、各 尊 格が それ ぞ れの 巻ご と に配 され
、 そ れぞ れに 関す る 作法 が説 か れて いる
。経 と 名 づけ られ て いる が、
『陀 羅尼 集経
』中 に様 々 な 経典 や作 法が 含 まれ てい る ため
、 この 経典 は儀 軌的 な 性格 を有 し てい るこ とが う かが え る
。
66
第 二項
『陀 羅尼 集 経翻 訳 序』
『陀 羅尼 集経
』の 漢 訳者 で ある 阿地 瞿 多の 伝記 は、
『 仏 説陀 羅尼 集 経翻 訳序
』に 詳 述さ れ る
1
。阿 地 瞿多 とは
、「 有
二高 徳 沙門
一。 厥号
二阿 地 瞿多
一。 是中 天 竺人 也
2
。」 と、 中 イン ド か ら来 た訳 経僧 で ある
。さ ら に、 阿地 瞿 多の 経歴 は次 のよ う に記 され る。 法 師聰
レ
慧超
レ群
。徳 邁 過レ
人。 弱冠 慕
レ道
、歴
二五 竺
一而 尋レ
友。 低心 躍 步而 諮
二法 要一
。 故 能精
二
練五 明一
、妙
二
通 諸部
一。 意 欲下
運
二西 域之 法 水一
、潤
中
東 夏之 渴仰
上。 判
レ
身許 于 険 難。 務
二存 弘 道之 心
一。 跋
二山 巖
一而 不
レ
疲。 渉
二沙 流
一而 無
レ倦
。 頂
二戴 尊経
一
、向
二
斯 漢
一地
。 永徽 二年 正月
、
二屈 于長 安
一。
レ奉 勅
二住 慈門
一寺
3
。 阿地 瞿多 は五 明 等様 々な 仏 教の 諸 学に 通じ
、若 くし て 仏道 を志 し
、五 天竺 を歴 訪 した
。 五 竺と は五 天竺 の こと で、 イ ンド を 東西 南北 と中 央の 五 つに 分け た 称の こと で ある
。五 明 と は、 イン ドで 用 いら れて い た学 問 の分 類法 であ る。 仏 教で は、 仏 教徒 の学 ぶ 内と
、世 俗 一 般の 外と に分 け られ
、内 の 五明 は
、声 明・ 工巧 明・ 医 方明
・因 明
・内 明、 外の 五 明は
、 声 明・ 工 巧 明・ 医 方明
・ 呪 術明
・ 符 印明 と され て い る。 そ し て、 永 徽二 年
(
六 五 一)
の正 月 に 経典 を持 って 苦 難を かえ り みず 長安 に入 り、勅 命を 受け て 慈門 寺に 住し た
。 そし て、
『 陀羅 尼 集経
』に 関す る 修法 を行 っ た事 績が 記さ れ てい る。
但 法師
、含
レ
珠未
レ
吐。 人、 莫レ
別
二于 懐
レ珍
一。 雅辯 既宣
二
方知
一レ
有
レ宝
云云
。故 能 決二
衆 疑
一、 言 皆
レ当 理
。然 則
、 経律 論 業伝 者 非
レ一
。 唯 此法 門 未
レ興
二斯 土
一
。所 以 丁 寧三 請 方
二許 壇 法
一。 三 月上 旬
、
二赴 慧 日寺 浮 図 院內
一、 法師 自 作
二普 集 会壇
一
。大 乗 琮 等一 十 六 人。 爰及
三英 公・ 鄂 公等 一十 二 人、
二助 成壇 供
一。 同願
。皇 基 永固
。常
二臨 万国
一
。庶 類 同沾
。皆
二成 大益
一
。其 中 霊 瑞。
レ恐 繁不
レ述
。余
、慶
レ逢
二
此法
一。
レ不
二勝 忻
一躍
。躬 詣
二翻
レ経 所
一レ
悕翻
二
広本
一。 屢 值事 鬧。
レ不 及
二陳
一請
。恐
三
幻質 遷 謝
、失
二
于 大利
一
4
。 この 中 で
、阿 地 瞿多 は
、 永徽 二 年
(
六 五一)
三 月 上旬 に、英 公
・ 鄂公
( 玄 悰・ 李 世勣
) 等 十 二人 の要 請に よ って
、慧 日 寺 浮図 院で 灌頂 を 修し たこ と が記 され
、( この 一文 は
)唐 に お い て『 陀羅 尼集 経
』の 基と な る「 普 集会 壇」 の灌 頂が 行 われ たこ と を示 唆す る 資料 と考 え ら れる
。 最後 に、
『 陀羅 尼 集経
』の 訳出 に 関す るこ と が示 され る。
便請
二
法 師于 慧 日
一寺
、 宣 訳
二梵 本
一、 且 翻
二
要抄
一
一 十二 巻
。
二竪 興 国 之洪 基
一
、存
二
隆 民 之秘
一宝 歟
。従
二
四年 三 月十 四日 起
一首
、至
下
永 徽五 年歲 次
二甲
一寅 四月 十 五日
上畢
。以 後
、頻 頻 勅追
二法 師
一入 内、 邂逅 之 間、 無
レ暇
二復
一校
。此 経
、出
二
金剛 大道 場経
一
大明 呪 蔵 分之 少分 也
。今 此略 抄擬
二
勘詳 定
一。 奏請
下流
二
通天
一下
、 普聞
上焉
5
。 これ によ って
、阿 地 瞿多 は 永徽 四 年( 六五 三
)三 月 か ら翌 年 五月 にか けて
『 陀羅 尼集 経
』 を 漢訳 し、 その
『 陀 羅尼 集経
』と は「 金剛 大道 場 経」 なる 経典 の 抄訳 であ り、
「金 剛 大道 場 経
」は
「大 明呪 蔵
」の 少分 で ある こ とが 確認 され る。
「 金剛 大 道場 経」 に つい ては
、『 開 元 釈 教録
』6
や、
『 貞 元目 録』
7
に も 同内 容の 記 述が みら れる
。安 然
8
も 同 趣意 の文 を記 し て い るが
、原 本 は 現存 して いな い
。「 大明 呪蔵
」に つ い ては
、唐 僧 の義 浄 の『 大 唐西 域 求法 高 僧 伝』 下に みえ る 道琳 伝に
、 義浄 が 耽情 的に 呪蔵 の研 究 を行 って い た道 琳に 対し て の試 論 に 次の よう な記 述 が確 認さ れ る。 夫 明呪 者、 梵云
二
毘睇 陀羅 必棏 家
一。 毘睇 訳為
二明 呪
一、 陀羅 是持
、必 棏家 是 蔵。
レ応 云
67
二
持 明呪 蔵
一
。然 相 承 云
二此 呪 蔵
一。 梵 本
、有
二
十 万頌
一
。 唐 訳、 可
レ
成
二三 百
一巻
。 現 今 求 覓、 多失 少
レ全
。…
…
9
(「 大 明呪 蔵」 の 記述 では ない が
、)
「 明呪
」と は「 毘 睇 陀羅 必棏 家」 即 ち「 持 明呪 蔵」 で あ り、 完全 に遺 っ ては いな い が、 本 来は 梵本 だと 十万 頌
、唐 訳は 三 百巻 にも なる も ので あ る と記 され てい る
。「 大 明呪 蔵」 も 同様 に、 多 くの 真言 が 包括 され たも の と考 えら れる
。ま た
、『 大 唐西 域求 法 高僧 伝』 下 には 道琳 が那 爛 陀寺 にお い て大 乗の 経 論を 捜覧 した こ とが 記 さ れ、
「 持明 呪蔵
」は
、中 イ ン ドの 那爛 陀寺 に 蔵さ れた もの と 推察 でき る
。阿 地 瞿多 はま さ に この 中イ ンド の 人で あり
、「 大 明呪 蔵」 乃 至『 陀羅 尼集 経
』は
「持 明呪 蔵」 と 同様 に、 中 天 那爛 陀の 密教 に 配さ れる
。そ れ に加 え て、
『 陀羅 尼集 経
』四 所説 の「 十 一 面観 世音 神 呪経
」 は
、玄 奘( 六〇 二
―六 六四
) 訳『 十 一面 神呪 心経
』の 異 訳経 典で あ り、 この 玄奘 も また 那 爛 陀寺 で学 んだ 僧 侶で ある こ とか らも
、「 大 明 呪蔵
」と 中 イン ドの 密 教と の関 連性 が裏 づ け ら れよ う
10
。 以上
、『 陀 羅尼 集 経』 とは
、『 陀 羅尼 集経 翻 訳序
』に よ れば
、 あら ゆる 学問 に 長け た中 天 出 身の 僧で ある 阿 地瞿 多が
、「 大 明呪 蔵
」の 少 分で ある
「 金剛 大道 場経
」を 抄 訳し た経 典 で あ る。 また
、訳 者の 阿 地瞿 多は 永 徽二 年
(
六五 一)
に『 陀 羅 尼集 経』 と も大 きく 関連 す る「 普 集 会壇」を 実 際 に修 した こと も 示さ れて い る。 こ れら の 伝記 は、
『開 元釈 教録
』の
「 陀羅 尼 集 経十 二巻
11
」 に も同 取意 の 文が 示さ れて い るが
、こ れ 以外 に 記述 は無 く、 ど のよ うに 修 法 を行 って いた の かど うか 等 多く は不 明で あ る。 第三
節
『陀 羅尼 集 経』 の 依用 に 関す る 概略 第
一項 奈良 期に お ける
『 陀羅 尼 集経
』 の依 用 次に
、日 本に お ける
『陀 羅 尼集 経
』の 依用 につ いて 概 観し てい く
。そ もそ も『 陀 羅尼 集 経
』は
、奈 良 時代 には す でに 日本 に 伝わ って い た経 典 で ある
12
。先 学の 研究 に よれ ば、
『 正 倉 院文 書』 に は、
『 陀羅 尼集 経
』を
「 笠山 寺」
・「 内裏
」・
「紫 微中 台
」・
「 外嶋 院
」・
「 玄 昉」 が 奈 良時 代に 所蔵 し てい たこ と
、「 内 裏」
・「 紫 微 中台
」は
、『 陀 羅 尼集 経』 一 所収
「大 神力 陀 羅 尼経 釈迦 仏頂 三 昧陀 羅尼 品 一巻 於 大部 巻第 一
13
」と の 関連 性 がう かが わ れる
「大 仏頂 陀 羅 尼経
」や
14
、 巻 四所 収「 十 一面 観世 音神 呪 経
15
」と 異 訳関 係に 相 当す るで あ ろう
「十 一 面 神呪 経」
・「 十一 面 神呪 心経
」等 の 所蔵 者 とし ても 記さ れ てい る こと が掲 げら れ てい る
16
。 そ れゆ え、
『 陀羅 尼 集経
』に 関連 す る何 らか の 修法 が行 われ て いた こと が予 想 され る。 また
、奈 良時 代 にお ける
『 陀羅 尼 集経
』の 依用 に関 し ては
、す で に三 﨑良 周 博士 が論 ぜ ら れて いる
。そ の 要を 概す る と、 天 平勝 宝五 年( 七五 三
)の
『正 倉 院文 書』 には
、 この 時 代 にお いて 唯一 弁 才天 女の 壇 法が 説 かれ ると され る顕 教 経典 であ る
『金 光明 最 勝王 経』 と 密 教経 典で ある
『 陀羅 尼集 経
』が 奉 請さ れた こと が記 さ れて いる こ と、 つづ けて
『 正倉 院 文 書』 には
、十 一 面悔 過所 に
『陀 羅 尼集 経』
・『 法 華経
』 と玄 奘訳
『 十一 面神 呪 心経
』を 奉 請 して いる 記載 が ある こと を 示し
、密 教 の修 法と や や性 格の 異 なる 悔過 法に
、
『 陀羅 尼 集経
』 が 用い られ てい る こと を指 摘 して い る。 さら に、 天平 宝 字八 年( 七 六四
)に は
、泊 瀬( 長 谷
)の 上山 寺悔 過 所に
『陀 羅 尼集 経』 を 奉請 して い る記 録を 例 証の 一と して 挙 げ、
『 陀羅 尼 集 経』 の内 容の 多 面性 が理 解 され
、各 方面 に 依用 され てい た こと を指 摘す る
17
。