• 検索結果がありません。

′ 島

ドキュメント内 r^l Lll 'r ii ( lre3) I (ページ 38-41)

(122s) 37

 

内村は不幸 に終 った最初の結婚か ら大きな精神上の 試練 を受 けてお り,彼がアメ リカにや って来た理由の 一 つ も

,そ

こか ら逃れ ようとしてであった。内村はよく自 分 を困難な立場 に置いた人であるが,精神薄弱児の世話 は,彼をます ます憂 うつにし袋小路のよ うな ところに追 いこんでいった らしい。内村は親 しい友人 との間に筆ま めに長い手紙 をや りとりする人であった.この内村 と新 島 との間が どんなふ うであったか とい うことも今迄はあ ま りよく判 らない ことであった

近年, 2人の間にとり交 された手紙が発見 されて,だ

いぶ新 しい事実が明 らかになってきている。 この頃

,内

村はいつ もとり交 している数人の友人への手紙 を中止 し て,  もっばら新島を文通の相手 とするようになった。そ うなるきっかけには,新渡戸 も一枚加わっての ことであ るが。 この時,新島は彼が一昔前に出たアーモス ト大学 に入ることを, この精神的に苦 しみの底にあった内村に すすめるのである

 

内村は新島の このすすめに従 ってア ーモス トに学ぶ ことを決心する.

内村は新島の紹介状 をたず さえて,当時,総長であっ たシー リー(T o H o Seelye)博士 を訪ねた

 

シー リー総 長はニ ユーイングラン ド切 っての秀れた数育者 といわれ ていた人であったが

,そ

の頃は60歳に近 く学識,人格 と

もに円熟の城に達 していた。簡単には近附 きに くい人だ ったが,人格の暖か さか ら来る親 しは誰にで も通 じた 内村は

,は

じめて会 った時か らシー リーに非常な暖か さ を感 じた ことを書 きじるしている

新島

 

       

内村

 

鑑三

文化人 切手にあ らわれ る新島襄 と内村鑑三 2人は同 じアメ リカのアーモス ト大学 を出た が, もう1人の 日本 の文化人

,新

渡戸稲造 と 偶然

,新

島襄が出会わなかつた ら内村 をアー モス ト大学 に世話す ることも出来なかつたろ うし内村 もその生涯 に決定的 と云われ るシー リー総長の感化 もうけ られなかつたであろ う その新渡戸稲造 も文化人切手の1人に選 ば れてい る。

内村は このコネテ ィカッ ト河流域の小高い丘に立 って いる大学の察の 4階 にある屋根裏部屋に住ん で勉 強 し た

 

このアーモス トでの生活で内村は自分の信仰をはっ きりと深め確かに した

内村は1887年

,あ

とに来た樺山愛輔 よりも2年 早 くア ーモス ト大学を卒業 した

もし偶然 さきに新渡戸が新島に内村の ことと,彼の陥 っていた「憂 うつな」状態のことを,相談 しなか ったな ら, そして新島が これを開いて内村にアーモス ト大学に 入ることをすすめていなか ったら

,内

村がその後に日本 文化の中で及ぼ して きた影響は違 った ものになっていた か も知れない。

只 一つ の 大 い な る遺 産

現代 日本への内村の影響は計 り知れないほ ど著 しい も のである

 

無教会運動の創始者 として,  また多 くの著書 を通 じて働 きかける彼の思想は現代「 日本の良心」 とま でいわれているのである

 

その うえ彼か ら教えを受 けた 人達の記録が,  また彼の生 きた遺産なのである。 ここ二 代の東京大学総長は内村の弟子 としてよく知 られている し,又戦後か ら現在に至 るただ 1人 の最高裁判所長官, 戦後の内閣での 2人 の卓越 した文部大臣, 3人の外国駐 在大使, 3人の傑出 した自然科学者な ど

,そ

の他の分野 において数少なか らぬす く'れた人 々が続いているのであ る

 

現代の 日本が益 々民主 々義国家 として発展す ること に成功すればするほ ど,  日本 において「良心」 と個人の 自由についての内村の感化は無視す ることの出来ない も のなのである。

内村が多 くの著書 を残 しているのに比べて,新島は1

冊の まとまった著作 もしなか った

 

新島は唯一の子 とし て彼の全生命を打ちこんだ同志社を残 したのであった。

自 由 を 掲 げ て

新島が国禁 を犯 して 日本 を脱出 し,船の水夫 にまじっ て仕事を しなが ら苦労のすえアメリカのボス トンにた ど りついたのは1865年 (慶応元年)のことである

 

彼はそ こで乗 って行った船の持主であつたノ`―デイ家の好意に よってア ン ドヴァーのフイ リップス・ アカデ ミーか らア ーモス ト大学に進むことができた.

当時のアーモス ト大学は創立後半世紀 をへていて徐 々 に興隆の道を辿 りつ ヽあった

 

先にふれたように新島が 精神的な苦 しみの うちlCあった内村 を托 したシー リー博 士 も哲学の教授 として教 えていた

.深

い学識の背後にゆ るぎのない宗教的確信 を秘めたシー リー教授の人格教育 が殊 に新島の心に強 くうったえたのは「自由」について

38

(l2so) THE ROTARY NO‐

TOMO

新島

,神

田方武, 内村

,樺

山愛輔 ら が学 んだ当時 のア ーモス ト大学前景

の考え方である

新島がアーモス トにいる間に明治維新が起 つたのであ ったが,万一発見 されれば死罪に処せ られる危険 を冒 し て まで も,彼が 日本 を脱出 した目的は聖書 を日本語に翻 訳する為に,充分な英語 を身 につけることであつた

 

彼 の この動機は文化的な又愛国的な考え方 とい くらか混 り 合 っていたが

,そ

こには彼がただ単 に日本が西洋に追い

つ くことを望んでいたとい うことだけでは説明 しきれな い,動的な自由についての考え方 とい うべ き一つのひら めきがあった

 

このひらめ きはアーモス トでシー リーの 教えを受けることによつて確かな ものに育っていった

新島のこの考え方があらわれている一つの例 として外 国の事情 を視察す るためr̲派遣 された岩倉全権使節団に

は じめて会 った ときの話がある

新島はその学識 と人格 を高 く評価 されて使節団lC加わ るように頼 まれたのであったが,彼は自分の立場 を「身 分の高い」政府の高官に対 して何のへ り下 りもな く堂 々

と述べている

 

話 をもちかけた当時,最初の 日本の駐米 公使であった森有礼に,新島は「 自分が個人的に勉強を 進めていたのであ り

,自

rt対して要請 され る仕事はい かなるものであれ, 日本政府に対 して,  どの ような義務 をも負わな くていいことを認める契約に基いていなけれ ばならない」 ことを前 もって

,は

っきりと求めていた.

いよいよ使節団の,  ときの文部大輔

,田

中不二麿の面 前jへ12名の政府の給費学生 と一緒に案内された時,新島 は他の もの達が 日本式に頭 を下げている間中,「部屋の隅 に真直に立 っていた」.なお その上に新島は彼 自身が用意 していた先の覚 え書 どお り,森公使が自分の地位 を説明 して くれ るように頼んだのであ つた

新島は この ときの情景 を手紙の中で活 き活 きと描 き出

ロ ー タ リー の 友‑1月

している

新 島 の 手 紙

大輔直立せ る余 を見たる時,森氏lC問うて曰 く,

「偶 に立てるは新島君な りや」 と

 

大輔,  これ を確か むるや自席 よ り立 ちて余の方 に進み,余の 手 を 握 り

て, いとも上品にしてかつ大いに威厳 を保 ちたる礼を な し,余に友 とならむ ことを求めた り

 

大輔,60度lC 身をかがめたれば余 もまた等 しき礼 を返せ り

 

この部 屋にて後列隅に立てるものの斯 くネし遇 され しに,余,

心中にて失笑 を禁 じ得ず

 

大輔,貴国をめ く・りて諸学 校を視察せん とするにあた り

,余

に己の通 訳 官 と な り,貴国の学校制度につき語 らん ことを命 じた り

.余

もし命ぜ らるにあればこれを拒否 したき旨を大輔に告 く・,余を日本政府 よ り給費を受けおる他の者達 と区別 せんが故な り

 

され どもし余,幾許な りの俸給 をもち て これ をなすを懇請 きるるにあれは,進みて大輔の為

にいかなる便宜 をもはか らん とすべ き旨を告 ぐ

 

文部 大輔,森氏に余の求めたる粛1く 余を遇 し,迎え人 るる よ う命 じた り

さらに彼は次の ように も記 している

。・ 。大輔,余の もとに来 りて余の何処に住 まいおる やを問い,彼を個人的に訪ねん ことを求めた り

 

人輔 その後余の手 を握 り,70度の礼 をなして、余の身体の ますます健やかな らん ことを願え り

 

余,己を一か ど の人物な りと思いたることな く,常に公衆に知 られ ざ らん ことを望みいたれば,己のか くも日本人中にて特 に区別 さるるに失笑 を禁 じ得ず

 

か くて客間に至れ る ときも,余は己の権利 を守 らん と願いて他の者 よ り離 れて隅にたち直立 して頭を下げず

 

余.己の権利を守

(1231) 39

り得たるを喜び,かく己の権利の余に与え られたるを 喜ぶ.貴下 また余 とともrcこの勝利の時を喜び給わん ことを

.余

のキ リス トにあ りて自由の人なる故な り この ように,信仰に根 ざして,何ものに も膝 を屈 しな い、新島の面 目が活 き活 きと感 じとられるのである

 

新 島は結局 この使節団に同行 してヨーロッパを廻 り

,そ

報告書の重要な部分は彼の手で書かれたのである

 

新島 が この時に得た信頼は非常 に大 きか った

のちに彼が日本に帰 って同志社を倉1立した とき,新島 とアーモス トで2年違いの クラスであった私の祖父が 日 本 に来ていて,新島か ら彼の同志社に来て社会学 を教え るように求め られた ことがあった

 

当時の政府は,わけ のわか らないままに社会主義に対 して神経 をとがらせて いた ときで,案の定,「社会」学にひっかか った文部省か らは

,な

かなか許可が下 りなかった.

これ を聞いて新島は早速,文部省に出かけて社会学 と 社会主義のちがいを

,な

がなが と説明 して,やっと私の 祖父が教える許可 と

,あ

わせて京都に居住す る許可 をと うて くれた

 

その ころはまだ神戸な どの開港場以外lC外 人が住むには許可が必要だった時代なのである

新島は1870年, アーモス ト大学 を卒業 した。おそらく 欧米の大学 を正式に卒業 した最初の 1人 であろ う.新島 は使節団 とのいきさっにで もわかるように自分の とえた ことをは っきりとや りとげる人であった

 

そして彼がア ーモス トで学び同志社でそれ を生かそ うとしたのは有為 な人材 を育てることであ つた

 

彼が政府の使節団に対 し て も最後 まで平等に自分を立てて行 ったの も

,た

だ立身 出世 を望む主義 よ りも,人格の自由な発展 と真に有用な 仕事 を大切だ と考 えたか らであろ う

先 日その長い生涯 を終えた徳富蘇峯翁がその師新島奥 を語 って「 もし新島襄の伝記 を書 くとしたならば,薄

本ですむであろ う

 

それは彼が47才の短かい生涯を終え たか らではない

 

彼の生涯が純粋で真直な線 に貫 らぬか れているか らである」といつている。 アーモス トで彼 を 教えたシー リーは新島を どう思 うか と聞かれたのに答 え て云 った。 You cannot gild Gold."― 一純金には金錐 金する必要はない。

HAPPY NEW YEAR A HAPPY NEW YEAR A HAPPY NEW YEAR A HAPPY NEW YEAR

THE  EMBLEMS  OF

ドキュメント内 r^l Lll 'r ii ( lre3) I (ページ 38-41)

関連したドキュメント