大都市へという、凝集の拡大のメカニズムが、ここではまったく働いていないのである。その 意味では、アイルランドと日本は、究極の対極にあると言えるかもしれない。
しかし、こうしたアイルランドの社会を都市化以前のシンプルなものと位置付けるのでは、
本質を見誤ることになってしまうだろう。アイルランドでは、人びとの結びつきが、目に見え る形での凝集ではなく、祭祀などによって達成されている。ボイン川流域にあるヨーロッパ最 大級の墳墓群が構築されたのは新石器時代であり、もちろん都市化などとは無縁の段階である
(図 8. 2 )。また、紀元後7世紀以降に豊かなキリスト教文化が花を開くが、その時代でもや はり都市はまだ姿を現していない。都市に人々が集まり、権力によってそれが組織されるとい うメカニズムとは異なり、人びとの心を通じた「内心の都市化」が、祭祀や宗教を媒介として 展開していくのではないだろうか。そうした目に見えない凝集は、場合によっては目に見える 凝集よりも大きな力を発揮するかもしれない。経済的な条件などに規定される部分が相対的に 少ないために、「瞬発力的」な形で凝集が達成される場合がある。あるいは、社会の発達段階が 通常はそれほど大きな凝集を引き起こすとは思われない場合にも、先行的に凝集がみられるこ ともあるのではないか。その一方で、人びとの心のなかに凝集を妨げる要因が生じた場合には、
急激に凝集性が失われていくこともあるかもしれない。心の凝集は、都市や権力による凝集よ りも可塑性が大きい。アイルランドの文化が、激しいうねりを伴って変化しているようにみえ ることのひとつの要因として、このようなことを考えてみたいと思っている。
では、それは、日本列島には存在しないメカニズムなのだろうか。古墳時代に巨大な前方後 円墳を築いたような力の凝集が、都市や権力やあるいは国家というメカニズムだけによってい たと考えてよいのだろうか。私は、きっとそうではないように思う。そうではなく、この二つ のメカニズムの相互作用が背景にあるのであり、むしろ目に見えない凝集のメカニズムが、よ り大きな役割を果たしていたのではないかと考えてみたい。目に見えない凝集のメカニズムを
「第二の凝集のメカニズム」と呼ぶとすると、日本の古墳時代研究は、あまりにも第一のメカ ニズムに重きを置きすぎてきたのではないだろうか。この二つのメカニズムが絡み合っている あり方を解きほぐしていくためにも、アイルランドの状況と照らし合わせて考える必要がある。
図 8.1 網目状ネットワークと樹木状ネットワーク
第8章 対極と親縁の交錯
対極の陰に隠されている親縁性に、改めて目を向ける必要があると感じられるのである。
2.鉄器時代の実像
鉄器時代の人びとの活動があまり見えないのは、私たちが考古資料をうまく捉えられていな いためなのか、それともアイルランドから人間がいなくなったとまで言われるような人口減少 によるのであろうか。筆者がアイルランドに滞在した当初の時期に最も気になっていたのは、
この問題であった。
第2章でふれたように、アイルランドの年輪年代の資料数は、紀元前850年頃から紀元550年 図 8.2 復元されたニューグレンジ墳丘墓と装飾列石
頃までの間、かなり少なくなっている(図 2. 7 、Baillie and Brown 2009)。とくに紀元前100年 頃から紀元250年頃には、年輪年代で伐採年と推定される資料がほとんど確認されていないとい う。これは、ちょうど「鉄器時代後期の凪」と呼ばれる時期にあたる。放射性炭素年代の資料 数を統計処理的に補正した結果、紀元前後から紀元400年頃までは活動が不活発になるという考 え方が提示されている(Armit et al. 2012)。やはり、鉄器時代には人口が一定程度減少し、活 動も活発ではなくなったと考えるのが適切のようである。そうであっても、もちろんそれなり の人口は存在していた。墓が認められないのは火葬によって散骨をしていたのが理由であり、
住居がほとんど確認されないのは、構造が簡素で痕跡を残しにくかったためであろう。鉄器時 代の住居は「鳥かご」のようであり、網垣の細い棒が地面に差し込まれているだけであったと いう見解もあり(Lynn 2003)、編垣の間にピートをはさむような壁や、芯に編垣を用いてその 両側にピートを積むというような建物が使用されていたのかもしれない。実際に、ポテト飢饉 のころの貧しい農民の住まいは、芝土を積み上げてつくったシェルターのようなものだったと 言われている(Seekamp and Feiritear 2012:32)。
そうであるとすると、鉄器時代の活動が不活発ともいえる状況は、どのような要因によって もたらされたと考えることができるのであろうか。鉄器の使用が生産活動を促進するという役 割を果たさなかったのはなぜなのだろうか。
第1の要因は、金属資源が十分に入手できなくなったことではないかと思われる。アイルラ ンドの大地は、石灰岩や砂岩などの堆積岩地帯が多く、金属資源が少ない環境にあった。比較 的金属資源が多いのは、火山の痕跡が残る北東部に限定される。青銅器時代に首飾りなどの華 やかな純金製品をもたらしたのは、この北東部の金であったらしい。確実な産出地が発見され ているわけではないが、カウンティー・ダウンのモアン山地の近辺であるという説もある
(Warner et al. 2009)。また、微小成分の検討から、青銅器時代にも産地が変更されている可 能性があり、それまでの産出地で金が枯渇し、別の産出地に中心が移動したと考えられている。
そしてやがてアイルランドの豊かさを支えていた金が枯渇し、物資の交換にあてる重要な財が 減少していったのではないだろうか。
鉄器時代に入っても、鉄資源には恵まれていなかった可能性がある。ブリテンでは、南部に 鉄の産地があり、カレンシーバーという、剣のような形をした鉄地金が流通していた。しかし、
このカレンシーバーはあまり西のほうに分布が広がる様相がなく、アイルランドにも流入する ことはなかったのかもしれない。そのほかの鉄素材というと、湿地に沈着するボグ鉄と呼ばれ るものであり、日本の高師小僧に似ているのではないかと思われるが、これはあまり大きい生 産量を期待することはできないのではないだろうか。
製鉄の技術を身につけたとしても、鉄素材が供給されなければ、鉄器の拡大は期待できない。
交換交易で鉄素材を入手しにくい状況が当時のアイルランドには存在していたものと思われる が、その理由は何だろうか。
活動を停滞させた第2の要因は、外部との交流の遮断にあったのではないかと想定したい。
カンリフなどのブリテンの研究者は、ブリテンのヒルフォート地帯が当時の最先進地であった と考えているが、筆者はむしろブリテン東南部のあまりヒルフォートを構築しない地域こそ先
第8章 対極と親縁の交錯
進地域であったと想定している(新納1999:85-92)。紀元前5世紀から紀元前1世紀にかけて、
ヨークシャー東部の「アラス文化」の地域では、防御施設は築かれず、豊かな副葬品を伴う戦 車葬などの墓が多数発見されている。時代が下ると豊かな墓はさらに南部のほうに移動してい る。こうした地域は、財力や武器の優越性によって支配的地位を確立しており、防御施設を構 築する必要性を感じていなかった。そうした勢力を取り巻くように西や北の勢力が、ヒルフォ ートを構築し、東からの脅威に備えるという構図がブリテンの地で出来上がっていたのではな いかと考えられる。さらにその外側には、より小さな防御施設が散在し、その傾向がアイルラ ンドにも続いていると考えられるのである。そして、ローマの動きが活発化してくると、そう した東の勢力への守りの意識がいっそう高まってくる。ローマの支配の危機が現実化してきた 紀元前1世紀になると、東への守りは強化され、ローマに追い詰められたブリテンの住民がウ ェールズやスコットランドに流れ、アイルランドへも難民の流入や支配地の拡大の恐れが急速 に広まっていったのではないだろうか。それを阻止するために、交流を遮断する意識が強まっ ていったものと推定される。
第3の要因は、当時の人びとの思想にかかわることである。カエサルの著した『ガリア戦記』
によると、この時代のヨーロッパには「ドルイド」と呼ばれる司祭が、宗教だけでなく政治的 にも大きな影響力をもっていたということである。ドルイドとは「オークの賢者」という意味 であり、その教義はブリタニアで生まれたとされる。イギリスでもアイルランドでも森林で最 も目立つのはオークの巨木であり、自然のなかに生きて教義を守った「森の賢者」ということ なのであろう。そこで最も重視されたのは「霊魂の不滅と転生」であり、そのために、死をも 恐れず戦うという勇気をもつことになった。一方で、戦いで不利となった場合などは、人を犠 牲として捧げることが行われていた。命にかかわることを神に対して祈る場合には、同じよう に命を捧げる必要があったというのである。
「ドルイド」については断片的な情報しか残されておらず、その一方で、ファンタジーの世 界においてその姿が自在に拡大解釈されているので注意が必要であるが、第2章で取り上げた ボグ・ボディーの残虐な取り扱いは、そうした教義との関係をうかがわせるものと言えるかも しれない。オールドクルーハン・マンの遺体は、腕に鋭い刃物による貫通傷があり、そこに木 の枝を編んだものが通されていた。『ガリア戦記』の、枝を編んで大きな像をつくり、その手足 に生きた人間を詰め込んで焼き払うという記載は、主客が入れ替わっているが、何らかの関係 を示している可能性がある。第3章で取り上げた、ナヴァン・フォートの建造物が焼き払われ る行為なども、そうした教義とのかかわりで理解すべきものであるかもしれない。我々にとっ て容易には説明することのできない規範が、当時の社会には広がっており、規範の呪縛が、社 会の自由な変化や発展を妨げていたのではないだろうか。「ケルト文様」の著しく抽象化された モチーフは、一面でその思想の深遠さを物語ると同時に、規範の複雑さを象徴しているものと も考えられるのである。
想定される第4の理由は、環境の悪化である。年輪年代の資料によると、紀元前850年頃から 紀元後550年頃までの間は、樹木の伐採年を示すデータがやや希薄となっている(図 2. 7 、Baillie and Brown 2009)。紀元前850年頃というと、ブリテンでも環境の悪化が認められており、それ