説 の 状 況
以上で紹介したドイツ・スイスの判例には︑最近の学説の影響が見られることは指摘した︒そこで︑中立的行為による虹巾助の可罰性に関する代表的な学説を検討しておこう︒この問題に関するドイツ語圏の論文はいまや膨大な数に のぼっており︑詳細な学説の検討は紙幅の都合で不可能であり︑自説の展開を目的とする本稿の目的からして不必要 でもある︒また︑すでにわが国においても︑優れた詳細な紹介論文が存在する︒そこで︑ここでは︑特徴的で論旨の 展開上重要な基礎的知見を提供すると思われる見解のみを検討する︒
学説は︑大別すると︑全面可罰説︑主観説︑客観説︑違法阻却説に分かれる︒そのうち︑客観説が通説であり︑細
分化される︒最終的な条文解釈としては︑客観説は︑﹁料助した﹂︵
H i l f e l e i s t e n )
といえるかどうか︵ドイツ刑法二七 条︶が基準であるとする︒しかし︑実際には︑その行為が正犯行為を可能化・容易化したかどうかを基準とする︒具 体的には︑それは︑財助構成要件の二つの側面からの限定という形で論じられる︒第一は︑捐助﹁行為﹂そのものの 限定である︒例えば︑﹁社会相当﹂行為を除き︑帰属論の危険創出部分を﹁構成要件該当行為﹂の問題とする方法︑
また︑故意犯についても﹁注意義務違反﹂行為に限ると解釈する方法がそれである︒これに対して︑他方は︑捐助行 為に正犯行為という結果を客観的に帰属できるかを問うという形で論じる客観的帰属論である︒しかし︑帰属論によ るとしても︑捐助﹁行為の危険性﹂に着目するか︑正犯行為にその危険が実現したかどうかを問う﹁危険実現﹂に着
い﹂とされている︒ 関
法 第 五 六 巻
一 号
六八
︵六
八︶
中立的行為による柑助の可罰性
‑.全面可罰説
( 5 0 )
ドイツの学説の中には︑中立的行為による帯助もつねに可罰的であるとする見解もみられる︒この見解は︑理論的 帰結として可罰性を主張するだけではなく︑刑事政策的にも可罰性を肯定するのが妥当であると判断する︒中立的な
( 5 1 )
捐助行為を刑法二七条から除外するのは︑容認し難い可罰性の間隙を生み出す恐れがあるという︒また︑これまで︑
可罰性の限定を主張した理論が説得的な論拠を提供していないがゆえに︑可罰性は肯定されるべきだというのである︒
( 5 2 )
このような見解からは︑量刑や手続の打ち切りにおいて解決すべきだと主張されることがある︒しかし︑この見解に 対しては︑中立行為による射助の処罰の実質的根拠に問題があるがゆえに︑その不処罰根拠が議論の対象になってい
るのであり︑刑事政策的に妥当な結論を導く理論的根拠の理論化を放棄するのは︑解釈学の怠慢であるといえよう︒ に留意しつつ︑以下で︑簡潔に学説を検討する︒ は︑結局︑客観的帰属論内部の説明の相違であって︑
六九
︵六
九︶
第一の摺助行為の客観的要件も︑広い意味で帰属論の一部だとする見解もありうるので︑客観説の理論構成の相違
いずれにせよ︑射助の可罰性が一定の場合に︑料助構成要件と
( 4 9 )
しての帰属を否定される場合があるという結論につながるのであって︑大同小異であるといえなくもない︒したがっ て︑重要なのは︑むしろ︑どのような場合に中立行為として可罰性が限定されるのかという分類基準である︒この点
ヒトの判例もこれに従った︒例えば︑
古くは︑中立的紺巾助の可罰性を主観的構成要件要素の限定により否定する見解が有力であり︑戦前のライヒスゲリ
( 5 3 )
フォン・バールは︑未必の故意による射助は構成要件に該当しないと主張した︒
﹁さもなければ︑無害な行為は︑他人がそれによってもたらされた状態を犯罪の実行に利用するであろうと考えて行 われたとき︑可罰的になりうる﹂からである︒フォン・バールによれば︑銃器を販売する者は︑顧客が犯罪のために
( 5 4 )
それを使わないと信頼できることを確認する義務があるとはいえないのである︒また︑ケーラーも︑﹁ある召使が︑
主人が何らかの違反行為を行おうとしていることを知っていたが︑磨かれていない靴を履いて︑または朝食をとらず には外出しないことも知っていたという場合︑召使は︑結果の前提条件となっている行為を行うよりもむしろ職務を
( 5 5 )
放棄してしまわねばならないのか﹂とし︑未必の故意による料助を否定する︒
この見解に対しては︑捐助犯において未必の故意による通常の事案が事実上多数あり︑そのような通常の事案を中
( 5 6 )
立的行為という特殊な事案のために修正するのは不当であるという批判がある︒規定上は︑未必の故意による柑助を 排除する根拠はなく︑また︑客観的要件の検討を待たずにその反映である主観的要件を否定する方法論に疑問があり︑
故意における意欲的要素を重視するライヒスゲリヒトの判例は︑弁護士事件においては︑﹁そのような事件におけ る弁護士の意識と意思は︑たんに合義務的な助言を与えることに向けられているにすぎない﹂ということから出発し
てよいという︒これは︑料助の主観的要件として正犯について知り︑その実行を意欲していることを意味するのであ また︑それは心情刑法であると批判される︒ ①
古 い 主 観 説
二
. 主 観 説
関 法 第 五 六 巻 一 号
七〇
︵ 七
0)
最近の学説においては︑この見解は︑柑助の故意としては︑客観的構成要件の諸要素を実現することを知見してお
( 6 0 )
り︑それを実現する意思があるという以上のものが必要だとする︒計画された犯罪につき知っているだけでは十分で
( 6 1 )
はなく︑自分自身の行為により犯行を促進するという意識と意思︑すなわち﹁促進の故意﹂が必要だというのである︒
業務行為においては︑この促進の故意は通常欠落する︒営業をしようという意思はあっても︑犯罪実現の故意はない
( 6 2 )
からである︒最近では︑オットーやゲッペルトが︑直接的故意と未必の故意によって区別し︑未必の故意による日常 的行為による封助を不可罰とする︒未必の故意による柑助は︑職業遂行に対する権利が保障された基本法二条一項お よび︱二条一項︵職業の自由︶に反するというのである︒
中立的行為による封助の可罰性
(2)
七
︵七
一︶
り︑利害関心と動機を故意概念に持ち込むものである︒そのような意思が存在するかどうかの検討にあたっては︑裁 判所は︑職業上典型的な行為による犯罪行為の促進においては︑職業従事者の意思は︑原則としてこのような促進に
( 5 7 )
向けられているのではなく︑それゆえ︑主観的構成要件は否定されうるという反証可能な推定を行っているのである︒
売春宿事件においても︑ライヒスゲリヒトは︑傍論において売春宿にワインではなく︑パン屋がパンあるいは肉屋が 肉を運んだ場合について言及している︒この場合には︑客観的な促進行為はないという︒従業員に対する食料品の提 供は︑売春宿の経営とは密接な連関はないからである︒それらを運ぶ者は︑通常︑その営業を行っただけであり︑犯
( 5 8 )
罪の実行を促進してはいないのである︒ここでも︑ライヒスゲリヒトは︑職業上行われた促進の場合には︑原則とし
( 5 9 )
て紺巾助の意思は存在しないという反証可能な推定から出発している︒
最近の学説
(1)
︵七
︶二
しかし︑この方法論には︑客観的構成要件の充足を認めながら︑その反映である主観的要件である﹁故意﹂が︑
般的な根拠から否定できるのかという根本的な疑問がある︒
成要件要素の充足の検討がなされるべきであり︑上のような﹁反証可能な推定﹂は︑客観的要件の検討において一般 的に定立されるべき要件の主観的反映でしかないというべきであろう︒このような方法論には︑客観的な価値中立性 が﹁故意﹂の中で読み込んで解釈され︑故意が︑客観的に事実が十分に﹁悪質である﹂かどうかに応じて︑﹁事情に
( 6 4 )
よって﹂あると推論され︑または否定される危険がある︒また︑未必の故意の場合には︑帯助の故意なしとするのは︑
( 6 5 )
一般的な故意概念と矛盾する︒未必の故意も一般的に故意の種類の︱つであり︑これを特別扱いする理由はない︒そ のほか︑主観的要件︑とくに主観的目的によって割助の要件を画するのは︑心情刑法につながるとの批判もある︒
三.客中立的行為による捐助の可罰性の問題の解決は︑客観的構成要件においてなされるべきだとする見解は︑①財助
行為そのものの要件として可罰性を限定する見解と︑②捐助行為と正犯の実行行為ないし正犯結果との客観的帰属 の問題として限定を試みる見解とに分かれる︒前者から検討しよう︒
社会相当性説・職業的相当説
社会相当性説
周知のように社会相当性の理論は︑社会的に相当な行為は︑構成要件該当性がなく︑あるいは正当化されるという
(a)
観 説
関 法 第 五 六 巻
一号
一般的には︑客観的構成要件要素の検討の後に主観的構
七