• 検索結果がありません。

女性農楽と羅錦秋農楽の継承の問題

175

176

3-1 女性農楽団の正体性とその継承

3-1-1 学界における「地域性」の強調に関する問題

第3部では、女性農楽と羅錦秋農楽について、誰が、誰から、何を、どのように受け継い でいくのかという継承の問題を考察する。こうした問題は現在進行形であるので、常にナイ ーヴで語るのが難しく、ほとんどの先行研究では深い議論が交わされてこなかった。それは、

これまでの学界が女性農楽団の過去の歴史に対して取ってきた認識、および評価が不透明 であったためでもある。羅錦秋をはじめとする女性農楽団の元演奏者たちとその弟子たち が自分たちの芸能を存在意義と使命感を持って継承していくために、筆者を含む研究者が できることは何か、と考える。それは、女性農楽団の歴史と芸能の内容をつぶさに見つめて 記録し、伝習の現場に現れる問題点に寄り添い、共に継承の方向性を考えたり、問題の多様 な打開策をシェアすることではないだろうか。

これまでの農楽研究では、農楽の「地域性」を非常に重視してきた。その主な原因のうち のひとつは、急激な近代化と文化政策によって伝統文化が打ち捨てられ、人々がこれを積極 的に忘れ去ろうとしていくなかでこれを「保護」しなければならないという研究者たちの焦 りと使命感があったためだといえる。農楽をはじめとする民俗芸能は、土地の守り神に豊か な暮らしを願い、厄をもたらさないように神々の心を鎮め、人々の日頃の抑圧されたエネル ギーを放出するための村祭りを出発点としてきた。学界ではそれぞれの土地に根付いた文 化を守るため、地域の祭りの重要性を強調してきた。そこで評価の対象となったのは、地域 の人々(村人たち)によって、生活の場である村の中において、その地域の長い間の慣習に のっとって受け継がれたと考えられる芸能だった。

地域性が強調されたもうひとつの理由は、植民地からの解放後に盛んに行われ始めた農 楽競演大会のなかで、それまで出会うことのなかった韓国全土の農楽が一堂に会し、それぞ れの演技を見せて競い審査を受ける過程で、地域ごとの特性が評価されたことが挙げられ る。当時の競演大会における地域性の強調には、今に通じる各地域の「地域意識」の高まり も影響を与えていたと考えられる。1970年代に文化財法が入ってからはますますその 傾向は強まり、競演大会で優勝した団体が各道や市郡の代表として優遇され、無形文化財と して認定されるという流れが定着した。各道や市郡はこれを保存、振興する責任を担うよう になった。そのようにして、それまでは単に「ウリトンネ(自分たちの地元の)クッ(祭り)」

177

であったものが、地域名を冠した農楽(例・「江陵農楽」「井邑農楽」「筆峰農楽」など)と して確立され、今ではその存在が自明のようになっているのである。

さらに農楽研究分野では、各地で伝承される農楽それぞれの特徴を整理し、把握するため に「農楽圏」による分類をしてきた。この分類システムはそれまで混沌としていた各地の農 楽の多様な特徴を理解するための基準として大いに役に立ったが、これもまた地域性を強 調するひとつの要因になり、伝承現場にも浸透して大きな影響を与えた。(※特に「農楽圏」

の境界地域で伝えられる農楽にはどちらの地域の特徴も見られるが、どちらの農楽圏に属 すのかについてのアイデンティティを地元の人が声高に言い合うような現象がみられるよ うになった。)もとは単に地域の「クッ」であったものが、例えば「井邑農楽」として地域 の看板を背負うようになり、さらにこれが他の農楽圏とは異なる特徴を持つ「湖南右道農楽」

であるというアイデンティティを持つようになったのである。

このように地域によってそれぞれの農楽を区別することが自明になったが、そこで浮上 してくるのは、農楽がその地域に住む庶民たち、村人たちだけによって演奏されたわけでは なく、専門芸能者集団による農楽も存在したという点である。京畿・忠清地方の「男寺堂ナ ム サ ダ ン」 や全羅地方「コルグンペ」などがそれにあたる。そこで、学界ではこのような専門集団によ る農楽を「演芸農楽」(専門芸能者集団による農楽)と分類し、その対極に位置するものと して、村人たちによる純粋な 村祭り農楽を「マウルクッ農楽」「トゥレ農楽」1と呼んで区別 した。男寺堂やコルグンペなどの専門集団は広範囲の地域を移動しながら門付けを行って 活動する。先行研究では、このような集団のリーダーとして活動するケンガリ奏者のことを

「トゥンスェ」、村の中だけで活動した村の農楽隊のリーダーのことを「トゥロンスェ」と 区別した。このような区別は現在でも農楽研究の前提として考えられている。

ところが、農楽研究や文化財システムの中では、広範囲で活動した「演芸農楽」もまたそ の主な活動地域によって、村祭りと同じように「地域農楽」「農楽圏」に関係づけられた。

現在はこうした専門集団による農楽が文化財に指定され、結局は地域の名前を看板名に掲 げているという状況になっている。例えば、京畿道の「平 澤ピョンテク農楽」は国家指定無形文化財 に指定されているが、平澤の村々で行われた地元の村祭りの農楽ではなく、平澤周辺の広範 囲を放浪して廻った専門芸能集団である男寺堂の芸能が「平澤農楽」として文化財指定され

1 マウルクッ(마을굿)は村祭りという意味、トゥレ(두레)は農村でそれぞれの家が農作業の労働力を 共有、協力し合うために作るコミュニティのこと。

178 ている。

このように、学界とその影響下で決定される文化財のシステムのなかでは、ある農楽がど この地域に属するのかということを尊重したために、その地域をとらえる視野が狭まって しまっているように見える。実際の活動は学界や文化財システムによる分類よりもはるか に多様だ。地域で行われる祭りにおいて、非出身者がサンスェのような重要な役割を担った り、農楽隊の半数が近隣地域から応援に来たメンバーであることもあるし、外部の専門芸能 者が村人を指導するなどしてテコ入れしている場合も多々ある。さらに、ある一定の地域で 生まれた芸能がその地域ではなく他地域に移動するケース、例えばソウルなどの競演大会 で注目を浴びて各都市の巡回公演に出る場合もある。内容的にも、それまで行ってきた地域 の儀礼的な農楽から、観客に見せる舞台公演に変化して儀礼性が薄れている場合までさま ざまである。こうした多重多層の状況が現実の農楽の姿なのである。

したがって、地域名を看板に掲げた農楽の実情は、学界であたかも存在するように言われ てきた「純粋な村祭り農楽」のイメージとは、だいぶかけ離れている場合も多いのであり、

地域名を看板に掲げることへの意味を再び問い直さなければならない。

そこで「地域性」について筆者なりに改めて整理し直してみたい。先行研究で扱われてき た「マウルクッ農楽」と「演芸農楽」の二分化にもメスを入れてみよう。

【資料37】農楽の主体(行為者)と公演の場による農楽分類

(筆者作図)

179

図のなかで点線に囲まれた部分は村祭りの場で行われる農楽であり、点線の枠外は村を 離れて行われる農楽というように、農楽が演じられる場所を示している。また、円形でかこ まれた左上部分は村人たち、右下に伸びている縦長の四角は専門芸能者たちによって行わ れる農楽というように、農楽を演じる主体となっている人々を表す。よって、農楽が行われ る場と主体となる人々の2つの条件が重なった図になっている。AからDのそれぞれに当 たる農楽がどのようなものであるか説明すると以下のようになる。

A:村人たちが主体となり、村で行われる、村祭りでの農楽

B:村人たちが主体となり、専門芸能者集団または芸能者個人を招き 村人たちも共になって行われる村祭りでの農楽

C:専門芸能者たちが自主的に放浪し、村にやってきて、

門付けの祭りを繰り広げて稼ぐ農楽

D:専門芸能者が都市や他地域へ巡業に出て、ポジャン(テント小屋)や 既存の劇場で入場料をとって見せる興行公演としての農楽

これまでの先行研究で「純粋 」マウルクッ農楽(村祭りの農楽)とされてきたのは主に Aであり、ときにBまでを含んでいると言える。

そしてそれに相対する概念とされてきた演芸農楽(プロ集団による公演的な農楽)は、主 にC、解釈によってはBも含まれるだろう。そして近代化以降(植民地時代以降)はBとC から派生したD、つまり都市や広範囲の地域での興行的な公演農楽が演じられるようにな ってくるため、BやCとは性格は異なるが、これも同じ演芸農楽の分類に含まれてくる。植 民地時代までは、全羅道で専門的に農楽を演奏していた人々(男性芸能者による「コルグン ペ」)はB-C-D間を行き来していた。つまり、ある時は村に招聘されて村人たちと共に 農楽による村祭りを行い、ある時は専門者同士でチームを作って広範囲の村々を訪れて門 付けの祭りを行い、またある時にはそうしたチームで競演大会へ出場したり他都市でテン ト小屋を建てて興行公演も行う、といったような広い活動が見られたのである。[金明坤

1990:92-99 ; チングァンソク1992:19-20]

一方、その後に1950年代末以降に現れた女性農楽団は、Dのみを行う、ある意味で

「純粋な」興行公演集団になっていった。彼女たちが村に呼ばれて祭りを執り行うことは なく、その活動の大半は地方都市での巡業公演であった。女性農楽団が演じる芸能自体 は、BやCなど村の場で行われてきた農楽にルーツを持っているので、地域性が皆無だと

関連したドキュメント