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城ヶ山公園と桜守

ドキュメント内 富 山 市 八 尾 町 の 生 活 文 化 (ページ 124-142)

古場田 典子

はじめに

私はもともと、自然と人間の関わり方に関心を持っていた。そのため、この文化人類学調 査実習では、野積や仁歩といった山村地域を中心に訪ねていた。しかし、調査を進めるなか で、城ヶ山公園に「桜守(さくらもり)」をしている方がいるという情報を得た。初めて耳 にした「桜守」について少し調べてみると、どうやら桜の状態を管理している人らしいとい うことまではわかった。しかし、詳しいことは分からず、桜守をする人がどのような人なの か、どのようなことをしているのかを知りたいと強く関心を引かれた。そこで、「桜守」を 今回の調査の中心テーマにすることにした。

「桜守」の活動場所である城ヶ山公園は、八尾旧町のすぐ傍にある。しかし、私は桜守の ことを聞くまではそこに行ったことがなかったばかりか、実のところ、その存在すら知らな かった。諏訪町の階段から登ってみると、息が切れるほどの階段数であった。登った先の公 園はきれいに整備されていて、管理が行き届いているという印象を受けた。公園内を散策し てみると、ジョギング中の人や、観光客の姿もいくらか目にした。城ヶ山公園を何度か訪れ るうちに、町の傍にも自然があることが気になるようになった。しかし、城ヶ山公園のこと を調べようとしたときに、城ヶ山について詳細を記した文献が見当たらなかった。そこで、

城ヶ山がこれまでどのように利用されてきた場所であるのかも併せて調べてみることにし た。

こうして私は、城ヶ山公園が現在の姿に至るまでの経緯と、城ヶ山公園の環境づくりに関 わる桜守の活動について調べることに決めた。調査では、城ヶ山で桜守をしている南端みなはし外治 さんと、城ヶ山の過去の様子を知る八尾旧町の 70 代以上の人に聞き取りを行った。歴史に 関しては、文献や資料などの情報をもとに、聞き取りで得た情報を付け加えてまとめた。

以下ではまず、第1節で城ヶ山の概要を、第2節で城ヶ山が公園へと開発される過程を記 す。続く第3節では、城ヶ山公園の桜守について記述する。さいごに、調査をふまえての考 察と感想を述べる。

1.城ヶ山の概要

城ヶ山は八尾旧町の南東に広がる、標高 202m、面積 15.3ha の小高い丘陵地である。

古名は龍 蟠りゅうばん山という。「蟠」の訓読みは「蟠る(わだかまる)」で、とぐろを巻くようす を示している。八尾の歴史に詳しい西新町の長谷川洌れつさんによると、井田川あたりの平地か ら城ヶ山を見たときに、坂に並ぶ八尾旧町の町家の黒い屋根瓦が龍のうろこのように見え

図7-1 城ヶ山公園の位置(「Yahoo!地図」より作成)

南北朝時代(1336‐1392)には諏訪左近入道がこの山に城をかまえたため1)、いつしか城 ヶ山と呼ばれるようになったといわれる。『続八尾町史』の「天保 14〔1843〕年調 八尾絵 図」には「城ヶ山」と記されているため、少なくとも江戸時代ごろには城ヶ山と呼ばれてい たことがわかる。江戸時代末期(慶応2〔1866〕年)から明治にかけては農兵を調練する調 練場として使われていた。明治生まれの人たちは、戦後も城ヶ山公園を調練場と呼ぶことが あったようだ2)

大正時代(1912‐1926)ごろまでは、城ヶ山の高さが 200m前後であることから、「203 高 地(にひゃくさんこうち)」と呼ぶ人もいた。「203 高地」とは、もともと中国・旅順にある 丘陵地のことをいう。そこは日露戦争(1904‐1905)のさいに、旅順港を巡って激戦地とな った場所である。日露戦争の終戦から 100 年以上が経ち、城ヶ山を「203 高地」と呼ぶ人は すでにいないようだが、およそ 80 歳代以上の人であれば覚えている呼称である。

城ヶ山の公園整備が始まったのは明治 29(1896)年ごろとみられる(詳細は次節で述べ る)。『城ヶ山開発促進協議会設立 30 周年記念誌』によると、城ヶ山公園は昭和 31(1956)

年に八尾町立公園として併用されるようになり3)、昭和 51(1976)年に「都市公園」となっ た。また、昭和 54(1979)年に旧建設省によって「都市計画決定」されたことで、公園内の

第7章 城ヶ山公園と桜守

(古場田典子)

整備工事などの事業が一層進められるようになった。城ヶ山公園の整備は、婦南鎮霊神社跡 などのある「3番城ヶ山」から始められ、「2番城ヶ山」、「1番城ヶ山」へと拡大するかた ちで行われた。高さは1番城ヶ山が最も高く、200m前後である。2番城ヶ山は 180m前後、

3番城ヶ山は 150m前後である。

なお、八尾町では明治時代から昭和戦前にかけて養蚕業が盛んであったが、城ヶ山を桑畑 として利用することはなかったようである。今回の聞き取り調査では、戦前のことまでは分 からなかったが、大正 14(1925)年に印刷された古地図では城ヶ山に桑畑の記号は記され ていない。桑畑は、東新町西南や旧町北方の低地にあったようだ。70 代の町民によると、

現在(2016 年)の「町民ひろば」に桑畑があったため、子どものころ(昭和 30 年代)は学 校の帰り道に、弁当箱へ桑の実をこっそり採って食べたこともあったそうだ。

2.城ヶ山公園の構想および開発

本節では城ヶ山公園の開発の経過について、年代を追って叙述する。年代は、「明治から 昭和初期」、「昭和中期」、「昭和後期から現在」の3項に分けて記述した。記述にあたっては、

主に『八尾新聞』4)と『城ヶ山開発促進協議会設立 30 周年記念誌』を参照し、調査で聞き 取った町民の語りも付加した。

2-1.明治から昭和初期

城ヶ山公園の開設を望む声は明治初期にはすでにあったようだ。明治 12(1879)年に、

公園開設を望んでいた東町の式部与八郎ら「古池や連中(古池の会)5)」が下新町の八幡社 にあった芭蕉翁塔を城ヶ山へと移転させた。この行動から城ヶ山の公園化が始まったため、

現在(2016 年)、この芭蕉翁塔は城ヶ山公園化のシンボルとされている。

公園開設に向けて城ヶ山が改造され始めたのは、明治 29(1896)年ごろである。『続八尾 町史』によると、明治 30(1897)年に公園の創起人である根上ね が み長次郎ら、「在郷軍人会」の 人々によって、松や桜、楓が植え込まれたといわれる。その後も、明治 37(1904)年から明 治 41(1908)年にかけて同会の人々が山桜の植樹をしていた。

現在(2016 年)も諏訪町通りから石階段を上った右側にある「蓬莱塚」(通称:亀甲山)

は、大正 11(1922)年に八尾消防組員によって築山されたものである。蓬莱塚の築山と同 時に、その前面には噴水塔が設けられた。噴水塔は、昭和3(1928)年に消防功労者の橋爪 藤吉の銅像へと取って代わったが、その銅像の前には新たに銅製の龍が設けられ、天に向か って水を吐いていた。しかし、戦時中の金属供出6)によって、銅像と龍は姿を消した。

第7章 城ヶ山公園と桜守

(古場田典子)

2-2.昭和中期(戦後、昭和 20 年から 40 年〔1945-65〕) 町による用地買収と整地

城ヶ山の美化運動を本格的に実施するため、八尾町が具体案を検討し始めたのは、昭和 22

(1947)年のこととみられる。城ヶ山は、戦時中、食糧増産を目的に開放されていたため、

戦後も馬鈴薯などの畑作が続けられていた。そのため、どの土地が町有でどこが私有かとい った境界が曖昧になっていた。公園化計画に先立って、町は、城ヶ山一帯の耕作者に対する 土地返還要求や、私有地の買収を開始した。耕作者のなかには、十数年にわたって畑作をし ている人もいたため、土地の返還は易々とは進まなかった。町は整地を進めるために、昭和 28(1953)年に第1次調査を、昭和 29(1954)年に第2次調査を行った。以上の調査をふま えて、町有地に標識杭を打ち込んだり、耕作者に通達を行ったりした。町にも町民の畑作を 放任していた落ち度があったということで、耕作者に対してはその年までの植え付けを認 めたうえで、収穫を待ってから土地を返還させた。

越中八尾観光協会による観光地化

越中八尾観光協会(以下、「観光協会」という)は昭和 25(1950)年に発足した。翌昭和 26(1951)年には「緑化運動週間」(後述)を契機として、町民からの城ヶ山公園の観光地 化に対する要望が強くなった。それを受けて、観光協会も計画を立て始めたが、公園の観光 地化といえば、施設や設備の新設、改修を必要とする大規模な事業である。当時の『八尾新 聞』(昭和 26〔1951〕年4月 20 日付)には次のような記事が掲載されている。

「おわら」「曳山」などと雁行して城ヶ山公園を四季の観光地たらしめようとの計画をた てているが、(中略)同協会が推進と実施面にたずさわることが、果たして妥当か否かの 論議もあり、計画倒れになりはすまいかとの懸念なしとせぬところから、この際保勝会を 組織して全町民の協力と熱意により主目的の達成を期したほうが結論からみて最も効果 的であるとともに、完遂促進の原動力になるとの見解をもつに至った、協会でもこの意見 を尊重し、外廓協力団体としての奮起を要望しているようだ

このように、観光協会では当初から、城ヶ山の観光地化を進める主体を観光協会の他に組 織した方が良いのではないかという議論があったようだ。ただ、そうした議論を横目に、同 年、公園の一部の管理権は町から観光協会へと移された。また、城ヶ山に対する観光助成金 としては、富山県から 25 万円、八尾町から 20 万円が交付されたが、その管理も観光協会に 任されていた。こうして、観光協会が城ヶ山の観光地化に取り組んでいくことになった。そ の矢先に、観光協会は県から交付された助成金をすべて「おわら」に費やし、町民の非難を 浴びた。そのため、観光協会の実務は町役場人が管掌することになった。加えて、町は新年 度の予算に 27 万7千円を計上し、かねて要望されていたブランコと公衆便所の設置を決め た。また、城ヶ山公園を観光地にするためには、園内施設の充実、水資源の確保、登山路の

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