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2. 古代 の豪族
矢掛町において舌代 に栄えた頚族に下道氏 とい う一 族の あった ことが知 られ てい る。 とこはなだ らか丑山の起伏する古墳の多い静か75地である。 同町三谷で払 下道氏の墓 あるいは館地 と称 する 遺跡が残 され,土地の人 々をは じめ研究 が続け られて きたC叫 ここで,古代の義旗 として下道氏 を とりあげ,その繁栄の頂点 を表す書傭兵偏の中央官 界VCおけ る某紙 などVCかエんでのべてみたい と 思う。
(イ) 下道民の先祖 と共備の出 自 a) 雄略以前
下道氏の先祖は季題天皇の 皇子稚政彦命 よ F)出た と伝え られ る. r古事記
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孝盟天皇段vc払 二 皇子大音備津 日子命 と岩 日子建青傾俸 日子 命(別名を碓武彦命 )とを針間 を始め として書傾国に洗 わした. その大昔傭津 日子命は吉備上迫臣のTil,岩 日子錘吉備 津 日子命が舌備下遺 臣 と笠臣の祖で あると一75ってVlる。 r国造本紀」
に よると,応神天皇の御代に稲速別が下道国造に定め られた とあ る。た記 の記載は共vc地名或は氏族起源音線 であるが. これ らよ りいずれVCして も下道氏 は吉備地 方に基盤を もつ豪族で あ り,姓 としては多 くの国造 の もつ底地ではな くて臣姓の国造 であった こと がわか る。四道将罪の説話について考えてみ よう。 f'日本13紀 .JでkHb竣 ・鬼海 ・西道 ・丹波作将軍 を派過 した ことが述べ られ, 西道 には吉備 紳彦が赴vtた とある. また出
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凝 根 を殊 したのは膏備津唐 と武 沖 川別 を遺 してであるとある.紀記に相連は ある がこれ らはすべて征討伝説 で あるが,吉備氏の先祖は大和胡垂の地方平定の退避に登場 して くることを示 してい る. 吉備地方Q‑i,瀬 戸内交通や砂鉄 ・ 炎塩牌旅 などで重要 な地位vcあった と考え られる. 四道将軍派過の 目的は.将婦 やその子孫が多 く その地 忙 ととせって水族 として栄え ることが多か ったことか らも,大和 朝廷の勢力の地方扶植や地 方牌矧 であったと考え られ るが,これ も吉備 が蛮地であった ことを示 すと思われ るO捌 ・五世紀に 大 きな古墳がた くさん作 られた ことも知 られ てい るし, 吉備 臣の祖, 御劫 Tj(稲速別の父 )の妹で ある兄嘘は応神天皇の妃 と伝え られ てい る(厄神犬皇2 2年紀)ことか ら, この時期に吉備上道臣 下遺臣 らの国造層を中心 とする政治圏のTJW 、あ った ことを示 してViると思われ る。
b) 経略以後
経略紀以後(,{在ると,雄略紀七年, 音場下遺臣前津屋 が不敬の言動 をな したので物部兵三十人 を 遺 して前津屋並びに一族七十人 を諌殺させたこと,上道臣凹狭が任那LjJ司V; C任ぜ られそ こで凪 札を 副画 して失敗 したことがみえ るし,冊寧天皇即虻前記 ('=紋,坤略天皇親御にあた って, 妃たる上道 臣の女権艦を母 VCもつ星川皇子の 変が起 こ り上道臣はそれ忙呼応 しようとした とあるC この説話 も 氏族伝承
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R:よるものであろ うが,書傭地方の朝廷Kl服してい く遇の坦 々たる もめ でなか ったこと, 反抗 しなが ら帰 してい った様子 とうけ とられ る。 欽明天皇1日宇紀vcなると,中央宮人 が吉備五郡 vc派遭 ‑3れて白猪屯倉や!, 17年紀には児島屯倉がおかれた とみえる.反抗の放 しか った書傭臣 ら の分力範囲に屯倉が設定 され,その管理 は中央宮人 が任命,派遣 されてお こなったのであるo r壬‑651
申紀
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なると,大海人皇子が青野 を出て東国vc入 るとの柏を得た近江判が,蘇葉 と膏備 どgC徴兵 の使者を適 したこと.
F続 日本紀J
vcは,筑紫 と周防 と音備に総領が荘かれた ことが記 され ている.: ‑ こ : i j ・ . I ; ‑ L
国郡の分取 ヒついての全権左にtr'9,管下b‑掴 司の監督に当 るため特 に重電 と思われる とこ ろにl伽 、れた もの である。山陽道 におけ る書棚の当時 の佐田が韮賓であった こと,大和朝廷 におい て も重要な地位を しめていた ことを示すものだろ うoこの ようにみて くると,吉備地方 は雄略以前は大和 VC匹敵 しうる一大文化潮を形成 して繁栄 し, 雄略後に なると,大和朝廷に服 してい き, さらに大和朝廷の要のひ とつ として山僻遠に重度 な位置 を しめてい く歴史 をみ るととができるのではなかろ うか.
C) 炎傍の父母
夷僻の父は下 道朝臣国勝であ り,書備地方の 臣姓国造 としての穀族であるO下道 臣は,大化改新 後下披宮人
層
に偶人 されて八 色姓の成 立に伴 って天武天 皇15年vc胡臣姓 を与え られていた.したが て, この時代の下適 氏は,一方では曹依地方の 衣族 と して地方的勢力を もち, 他方では中央の下歓 官吏で あった。後述 するように,国勝の母比備中国小田部の人で死 して東三成V こ
葬 られ てい る71て, 国庸 自身の生活吐主 として祭内で営 まれた らしいoそれ を示すのは,享保15年大和国字智郡大沢 村で発見された揚 貴氏の塵誌 で あ るo こ れ に よb
亮 僻 の 母 が 摘 出 氏 で あ る こ と は わ か る。一 説で托,
「脱糞」の文字は単 なる音仮借で あると推測 して,槻公民は大和国字智邦に圧し ていた とされ る八木氏で比 をいか といわれてい る. 説得力の ある考え と思 う.そ して死 して後故郷 の地vC辞 られた と考えるJt兵倍の出生 も生長 も畿 内で あって備中ではない とい うことVCなるoLか し一 方で払 後述するよう
に
「書偲氏の飽祉」 が′ト田郡東三成に存在するとして其債の生‡廷 地 をこの地 とする見方 も地元では根強vI。(。) 青備美偏の生涯 a) 留学時代
.炭価の名が史上vc初めてみえるのは
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続 日本紀 J天平七年,入rg留学生従 8位 下下題朝臣火焔 としてである。 22才VCして留学生に遇Lrlれ,盟 年辞八回此脊俊に便乗 して入唐 し, 19年 を経 て 天平7
年V
C帰朝 している。兵
鰯は帰朝の後,正六位下 とな り大学助 となった. その在碑中の串蚊 を指 した と思われ る三尊滑 行忠見封卸
よると,兵伽 学生VC
「五経 ・三見 ・明法 ・井術 ・音親 ・摘 ま等の六BJ を学 は しめ た とみえる. そしておそ らくはすべ てVCわた って英機の新知識は とりいれ られて伝授 され た もの と 思われ る. 従来の大学数科の中忙吐見 られ をVlでここLR:は じめて現われた三史は文茸科の鼓科啓 と ),・なされ てV)るが, qiなる鴨
公 としての伝来はナ部参 った として も大学数科に採用 する意図で伝単 したの仕訳蛸で あった とされ る.彼は入唐留学 して,その学問は広 く話芸 ("=わた り(続 日本 紀 )天 耳や淳栄に ‑1で及ん だのであるが, 阿倍仲麻呂とは臭 ってその才能 を発邦 したのtrl韓文の方ではな く実学の方vE現われたoその中核をなすのは信 孝 と畢学で あった とされ る机 そのはがでは,法律, 礼 施 祭式.築城等VCも力を狂いだ と思われ る。真備の もた らした攻帝は政 弘 内容 とも忙画期的 なものであった と評価 されてい る。‑44‑
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b) 栄達時代
共偏が玄肪 とともに帰朝 した天平七年比 どうVlう状勢 L^Cあったかみ てみ よう。右大臣は不比等の 長子藤原武智麻呂で あ り,藤原氏一 門が相率 V,て歩盛 VC上 り,公卿q‑C列 していた。 この他 にはわず か忙中約
割
こ多治比煉守, 参議に橘諸兄 らがいたの みで あった。 真備は この ような時 に帰朝 して直 ちに正六位に上 り,盟 8年 には外従五位下,束僻 4 2才で ある。 しか るに天平9年VCはほ うそ うの 流行で'藤原氏の4人が什 れて橘諸兄VC権力が番ったO この諸兄の腰間 として隠然たる勢力を もっ たのが真備 と玄坊で あったとみ なされてい る. この年, 其僻は入内 しさ らVC従5位下にのほ iてい るoその人 内払 入唐 留学 と学問の律秀さが認め られた とみて も上いが, ち ようどこの 時期天平は 唐風の ものが最 も重んぜ られた時代のひ とつ とみ・うことがで きると思われ・ 時を得 乍 とも思われ るOこ \て中央官界におけ る兵偶の立切 をみてみ 1 90朝廷の中心は右大 臣橘諸兄であ り,藤原氏は もはや商家武智麻呂の‑&子丑成が・bすかVC参議VC加わ ってい るのみ とい う閥族政治で あった。 夷侮 玄防仕組入着の位 置Kあ り.時^ のVCくしみはまぬがれえなか ったよ うで 季るo天平12年,大草
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少弐忙左透 され ていた式家の手合の長子鹿頗広桐が玄暁 ・央価を除 くと称 して兵 をあげた。 諸
兄に
反対 する意 であることは明白であ り, もとの諾王.光明皇后の血縁 としての 彼をはばか った もので あろ うが,それVCLて も共備 ・玄坊 と諸兄の結合の好 きは1
伽
IJで きる。つこい で頚仁 京の撞 投がほ じ 7tるが, この地は橘氏ゆか りの地で あ り, これに耗牌も朋休 していると思われ る。 なぜ なら,こ こ に用い られた都城の制は長安では なくて洛旧の 制cq:拠 ‑,た といわれ,夷備 ら唐
に学んで洛階 を知 る 者の知識で進め られた とみ るととがで きるか らであるD水場は昇進 を続けて15軒 ,̲Cは東宮学士 と 在 ってい る0時の皇太子は後の草紙天島 称徳天皇で奉る. 15年VC比皇太子が自ら五節 を舞 )盛 儀があったが, これは偶数の六芸に胴 するもので唐文化 が重んぜ られてい る様子 を伝えてい る。 17年には一時遷都 していた雌波束 か ら平城
に
僧都 したが, これに結当時の国家的大番茶で あった大 仏造営が伴 うとともに政権交代の きざ しがJJ・えるo ナなわ ち玄坊は復都後左超 され,頓着陀)前月vC 行基が大僧正 となっている.,その左超は仏教非の舟冊を計画 する行基vCよった とか,民衆に勢力をもつ行基の力 を借 りない と大仏碓立が な らないか らとい 9雌由 もいわれ るが.諸兄勢力の没落 とい う政治的背贋をそ こにみ ることはで きないだろ うか。 しか し,玄 脚 の後 も共偶は音備朝臣を賜 姓 され.19年には春宮大夫を解任,右京大夫忙命 じられて, 20年 忙比釈尊の俵式服制の改正VC 功があったo この時代 を央偏の第一次の柴遵時代 とみ るととができ よう。
C) 大軍府 時代
天平2 1年,すなわち天平勝宝元年に孝謙天皇が即位:され, :L{i伐は従4位上作叙せ られたが2年 筑前の守に左遜されてい るO この時籾か辛野上の政治 髄力者で ある大助舌藤原仲麻 呂vcは うとまれ た もの と,JP.(袋される。政治轍力者の交代I'Cは多 くの異曲JJl'っきまとうものの ようで あるo しか し, 翌年突如 と・して憎の‑訊
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に和通 した炎棚 は漉知 和佳作追 加任命 されて入唐 している。 5 7才の こと である。 帰国 とともに正4位下 となったが大字少弐VC任ぜ られたO来場の大串,少弐大弐 在任払 天 平宝字7年 まで9
年間VCわたるが,兵鳩の この間の最大本件は征新顔計画であ り, 尭僻の尊顔 も多くは軍政に関す ることである。
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