阿部四郎(東北大学大学院情報科学研究科)
【司会】
それでは、最後に阿部先生、お願いします。テーマは「危険社会の思想」、キーワードは以下の 4 項 目です。
○ リスクの性格変化
工業杜会: calculable risks
リスク社会: manufactured uncertainty
○ 時代診断としての<reflexive modernization>
combination of reflex and reflections
○ 社会変動の動因
工業社会: instrumental rationality リスク社会: side- effects
○ メタ合理的な思考実験 " E ither- or' " から" A nd" へ
【阿部】
今までの先生方のお話の後に私みたいなのが出てくると、なかなか勝負がしがたいというか、私ども文 系の話はどうも理屈っぽい。先生方の今までの話は、ある程度、実体的な裏づけというか、そういうものと の対応があるわけですけれども、私の方はどちらかというと観念の世界というか、そういうほうに近いとい うことで分が悪いかなということがあるのです。先ほど池内先生がお話しされたように、文科系、あるいは 社会科学の世界でも、一種の流行思想というか、そういう現象がありまして、例えば、10 年ぐらい前、ある いは 15 年ぐらい前ですと、今の時代の性格づけを議論する仕方として、ポストモダンというと、そういうポ ストモダンの関係の本がダーッと並ぶ。あるいは、「脱○ ○ 」か「何とかの終焉」という、そういううたい文句 があると、そういうのがダーッと並ぶ。しかし、大体そういう熱は 10 年くらいで過ぎてしまったようなところ があります。
今回、何故ベックという人の「危険社会」の思想というのを少し手がかりに話をしてみようかと考えたか といいますと、それは、今回のパネル討論の表題に「閉塞感の打破」というふうに掲げられていまして、あ る意味では、ベックの議論は知的な閉塞状態からの解放を目指した、1 つの思考実験と言っていいので はないかと思うのですね。彼の著作は、簡単に幾つか選んでリストをしておきましたけれども、それらの 一冊、一冊は、必ずしもきちんと論理的に、体系的に議論しているとは限らず、むしろ最初にある本を書 いて、それに対するいろいろな議論が起こると、少しずつまたそれを練り直してという、そういう色彩が強 いというか、スタイルなわけですけれども、ともかく社会科学に対して新たな挑戦を課している現代の時
代状況を分析するには、従来のものとは違う新しいカテゴリーとか、議論とか、方法が必要であるという。 まあ、これは自然科学の場合も同じかもしれませんけれども、そういうことが要請されている。それに対す る 1 つの応答であるというふうに見たわけです。
社会科学の場合は、どうしても問題を考えるときに、自分の位置づけというか、時代の変化とか、時代 認識とか、歴史性といったことが避けられない問題をなしているわけですけれども、今日において、時代 思潮の不確実性というのを、どうしたら実り多い仕方で把握可能であるのかと、それが最も大きい問題と 言っていいと思うのです。これは私の理解不足だろうと思いますが、先ほど武者先生から、1970 年代の 初めでしょうか、なぜ「ゆらぎ」ということが、自然科学の領域で問題の焦点になったのかということと、そう いういわば自然科学の今日的な状況に対する自然科学者のとらえ方と、このベックの問題意識のような、
今申し上げたような社会科学の問題状況というものが、何らかの対応があるのだろうかということが 1 つ 関心でありまして、それが、ベックの『危険社会』の思想を取り上げてみたいという理由であります。
最初、先ほど山本先生のお話にありましたように、彼のリスク・ソサエティ、これは英語訳ですが、最初 のドイツ語版は 1986 年ですから、まさにチェルノブイリのときですけれども、それが、ある意味では彼の それ以後の議論のベースになっているわけです。まあ、「リスク」というものの性格の変化というものを、最 初、現象学的にとらえて、そこから問題をさらに発展させていったというところがあるわけです。
「リスク」概念の性格変化というのは、これはむしろ自然科学の先生方のほうがご専門だろうと思うので すけれども、実は「リスク」という言葉は中世から存在していた――その時代には客観的な危険の可能性 を表していた――のですが、その意味変化が起こるのは、近代になって、人間の進歩とか、社会秩序に とってのカギが、科学的探求や合理的思考による世界についての客観的な知識であるという、そういう いわば啓蒙主義的な考え方に基づいて、蓋然性とか、先ほどの武者先生のお話の統計ですね、統計 学、それが標準というものを算定し標準からの逸脱を確認する手段としてそういう科学が発展するにつ れて、「リスク」についての近代的なとらえ方というのができてきた。こういう話はむしろ先生方のほうがご 専門だと思うのです。
ただ、社会科学の人間から見ると、近代の「リスク」についての考え方の特徴というのをどういうふうにと らえているかというと、リスクについての統計的な算出方と保険産業の拡大が「リスク」概念の拡張になっ たという歴史をふまえて、リスク(蓋然性の推定が可能)と、不確実性、アンサートゥンティ(蓋然性の算定 ができない)は区別があったり、また、近代の初めのころ、リスク概念の場合には、グッドとバッドとか、そ れからチャンスとロスとかの区別があったり、これらはリスク概念の中にいずれも含まれていたわけです。
ところが、例えば 20 世紀の後半、我々が今、今日使っている「リスク」概念というのは、どうもリスクとアン サートゥンティ、それから、グッド・リスクとバッド・リスクの間の区別というのはなくなってきている。リスクと いうと、もっぱらネガティブな、望ましくない結果に関連して使われるようになって、そして、リスクと不確 実性というものが、ほぼ概念的に同一のものとして扱われるようになった。つまり、ここに着目して、彼が、
現代というのは「リスク・ソサエティ」だと言っていると私は解釈しているわけです。その場合に、現代社会 における危険とか脅威、これは最初、彼が具体例として考えたのは、一番環境問題が典型なわけです けれども、その特性として、人間にとっての脅威が前例を見ないスケールになっている。要するに、空間 的、時間的、社会的な限界設定を超えているということが 1 つ。
それから、計算可能性との関連で、現代のリスクというのが局所的ではない。非局所的な性格と、それ から、これはいつまでその影響が続くかわからないという、そういう長期的な影響の潜在性を持っている ので算定が容易ではない。だから、リスクの算定というのはかなりアンビバレントになっている。そういう意 味では、科学は、そういうスケールが大きい不確定な性格を持つ現代の危険というものへの対応におい て、一体どのくらい成功しているのだろうかと。むしろあまり成功していないのじゃないかと、そういう評価 をしているわけです。つまり、安全性についての仮説を経験的に立証できない。したがって、危険がどう いうふうに作用するかについて、まさに世界そのものが、その検証のための実験室のようになっていると いうことを言うわけです。
それから、もう 1 つ現代のリスクの特徴というふうにベックが指摘している点は、工業化が自然界に浸 透し、それから、人間社会の中では伝統が融解する。別な言葉で言えば、彼は、「自然の終焉」とか、
「伝統の終焉」ということを言うのですけれども、それによって新しいタイプの算定不可能なものが生み出 される。しかも、これは人間そのものがつくり出したものですので、レジュメのほうにあったマニュファク チャード・アンサートゥンティというのは、そういう意味で言っている。しかし、そのリスクの生産が、実はリ スクを統御し、最小化しようとする科学の努力と政治の努力の結果であるという、そういうパラドックスを 我々は免れないのではないかということを言う。彼の議論は、最初に、具体的に、例えば、環境問題とい うようなものを見ながら、現代におけるリスクの性格が、そうふうに根本的に変わったのだと言うわけであり ます。
そういう工業生産の予期しない副作用が、全地球的規模に及ぶ生態系の危機の焦点に形を変えると いうことは、それが我々を取り囲む世界の話、つまり回りの環境の問題ということではなくて、実は工業社 会そのものの根源の危機だということを言う。それはどういうことを言っているのか敷衍していうと、近代 化の過程で、自然と文化の資源のリザーブを我々はかなり使い古してしまっている。それから、社会が つくり出す脅威や問題が、安全に関する社会的な通念の基盤をもう超えて凌駕している。それから、人 間の集合体に固有の意味を付与する供給源が枯渇し、解体し、魔力を失い始めている。例えば、集団、
いろいろな組織というのはかなり解体してきていますね。家族も地域社会も解体しつつある。そうすると、 結局、「個人化」ということですけれども、個々人、1 人1 人の人間が自分で意思決定作業をしなければ いけない、そういう時代になってきている。
彼は現代社会を「リスク社会」というふうに言っているわけですけれども、科学技術や工業の発展が引 き起こす脅威の予見可能性についての認識が、今度はそれがひるがえって、社会的文脈の基盤につ