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ドキュメント内 成立期日本信用機構の論理と構造(完) (ページ 64-109)

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成田 豊州 奈良

〃新 南海

18.5 30.6 33.7 18.5 23.5 30.6 25.11 23.5

32.8 41.1

不詳

当入当入当入抵繰抵繰抵繰

667 ●●● 000 444

31.9

30.6

0----~---------------一一一

38.12償還

38.11綴

40.1除去 25.11

32.6 25011 32.6

"

25.11

38.12 38.11 不詳

37.10 40.1 4209

〃!

40.9鑑

37.10償還 40.1除去

去当入当入除抵繰抵繰

400 11

0●● 400 344

42.9償還

)::,;’

43.31 25.11合併

30.6〃

30.10〃

32.6〃

35.4除去

〃〃

34.6合0「

39.7〃

43.4 32.6

45.3 44.4 44.7 43.12 T2.6

譲口

「日本銀行の担保制度の沿革及其現状」勝田家文街(国会図欝館所蔵)四二冊よ り作成,但し大正六年以前倣還済の公俄については省略されている。

95成立期日本信用機構の総理と栂造(完)

引の戦略ルートを鉄道株から国債へ移したことを物語っている。とすれば、この日銀見返品構成の転換をおしすすめた作動因として、三九年公布された鉄道国有化がまず第一に想起されるべきであろう。しかしこの一事もよりひろい流れのうちに位置づけなければ、この転回が語る段階的Ⅱ構造的な意義を充分にとらえきれないであろう。三四年金融恐慌以後一点の鉄道・産業株も見返品に追加されなかったという象すごされがちな事実に光をあてるならば、鉄道株を媒体とする「鞘取」オーパーローン体制の克服をめざす預金銀行主義がこの転回において及ぼした鰯払いとでも称すべき影響力を見失うことはできない。また転回の幕を切って落した三七年日露戦の軍需調達とそれにつづく戦後経営のための大量国債発行の大きなながれのなかに鉄道国有化を位腫づけるならば、二○世紀初頭にむかえた日銀信用体系の変貌Ⅱ転回の一応の脈絡が浮びあがってくる。すなわち三四年金融恐慌を画期とする預金銀行主義的再編の流れと東アジアの覇権をかけた迩大な軍事公債管理の要請のきりむすぶところ、すなわち鉄道株から軍事国償への転回のうちに日銀見返品榊成の変貌のもつ段階的な性格が鮮かに示されている。

鉄道国有化とともに明治四○年買収鉄道株は見返品から貸付抵当品に繰入れられその活動領域を移したが、このことによって日銀の定期袋・当座資の抵当別樹成はいかなる変容をこうむったであろうか。第五七表によってこの点をたしかめてふると、定期賛も当座賛も抵当品の圧倒的部分は国偵であり、他の抵当品はどれもほとんど意味を

もたない。三四年金融恐慌によって国債抵当への依存度は幾分さがったが、その後次第に国償一元化の様相を一層

つよめるに至った。日露戦争の勃発は当座賞四五○万円の減少と定期貸七八○万円の増加をもたらしたが、これは百三十銀行の破綻と日銀の無抵当定期貸による救済(六○○万円)を反映するものであり、軍事公債を抵当とする定期貸の増大はたかだか二、三百万円にとどまる。また四○年五月から買収鉄道株は公債とみなされ定期賛の抵当品に繰みこまれ、四○年上期から四一年下期の四期にあらわれたが、その最大をとっても四一年下半期末の一六二万

』③

(年末残高千円)

第57表明治後期日銀定期・当座賛における国債抵当の比重

当座貸

抵当券面金額 定期貸C

抵当券面金額

定期貸 金額

一M%

うち

貸付

当座貸 金額

うち国債 うち

無担保

うち

国債

B酷金

F/E

D/C

明治32年 1.000 9,737 90.7 10,555 9.788 92.7 2,207 16,951 15.550 91.7 7.483

10,737

87.1 14.891 17,08

3,764 8,337 7.717 92.6

97.4 7.683 250

調弘鍋妬師鍋釣如虹姐劉製妬

86.3 15.825 13.664 78.6 4.682

1.442 1.834

250 1.672 69.2

切断別刷伽Ⅲ

』,2##■211997

86.2 12.242 10 548 1.931

86.8 19955 1.619 82.8 250 1,647

981 1.156 812 70.2 5,109 12,626 11.265 89.2

250 79.7

89.6 14.002 661 15,621

3.179 2.934 92.2 31.0

2.810 6,250

83.8 15,468 12.966 3.799 3.645 95.9 403

3,396 35.2 6,250

14.817 12.912 87.1 1.295 1295 100.0 2.174

1.150 15.5

j3 心、)か、》

剛Ⅲ

95.4 14.037 14.714

1.397

4.350 98.2

39.7 4.272

3.943 9.943

13.370 92.2 14.499

1,602 1.004

1.532 95.6 962 6,000 1.455 19.5

7,455 6,970 6,900 6.690

96.4 12.880 3.880 13,367

1.004 100.0 970 13.9

6,000 6,000 3,600 2.400

12,909 98.1 13.164

45-3 2.589

13.0 933 423

900

97.8 12.783 13.073

000

□●● Ⅱ側Ⅱ111

1.913 46.2 3,359 3.359

3.090

100.0 12.412 940 12.412

910 27.5 972 972 3.310

12.093 98.0 12.335

2.409 824

2.140 34.7 2,409

大正2年 6.172 1.200

大蔵省「銀行局年報」より作成

A定期貸金額から無担保を引いたものとB抵当貸付金額とが,明治三四,三九。大正二年合致しないが,無担保の記載もれと 思われろ。無担保は韓国政府向と百三十銀行向からなる。

97成立期日本信用機構の論理と構造(完)

円にすぎなかった。これらの点からすれば、この時期の日銀定期貸・当座賃の抵当貸付は、一一一七年からはじまる百三十銀行に対する無抵当定期賛救済をのぞけば、国債への一元的な依存を強めながら漸減傾向をたどりつつあったといえよう。三○年代初頭までのように見返品の主力が鉄道株であったときには、国債を主要な抵当品とする定期賛・当座貸も独自の意義をもちえたが、鉄道株から国債へ見返品の重点が移るにともない、両者の差は消失し、定期賛・当座貸は国債を見返品とする手形割引の興隆のまえに次第に吸収され痩せ細っていったのである。

割引・貸付とならんで日銀信用にとって看過することのできないもうひとつの戦略ルートがある。日銀による有価証券所有の動向はこの時期になると市中の金融市場の資金需給に多大の影響をもつようになる。それというのも戦識調達のために発行された鱈大な国債の管理政策の一端を日銀がになうに至ったからである。もちろん日銀ボ所有する有価証券は国債に限られたが、その動向の大勢は第五四表によって充分捕捉しうる。三四年恐慌以前に日銀はすでに四千万円を超える巨額の年末残高をかかえていたが、その水準が崩れたのは一一一七年下期からで、三九年上期にはついに一億円の大台に到達する。その後この老大な国債を三年間六期かかえたあと四二年からようやく縮小に向かう。四一一一年上期まで一貫して一一百万円を超える残高をもちつづけた整理国債と三九年上期に突如四百万円の巨額をもって登場する特別五分利国債が全体の流れを左右する二つの主流をかたちづくっている。三九年上期とする日銀所有内国債の大膨張は、ひとえにこの特別五分利公債の買入れにもとずく。政府、日銀、市中のあいだの国債管理をめぐる立ち入った検討はのちに譲るとして、ここでは、日露戦勃発を契機に日銀所有国債が一躍一億円に

達し、手形および大蔵省証券をあわせた割引高を凌駕する膨張を遂げたことを確認すればよい。

これまで主に『銀行局年報』によりながら、日銀信用の諸勘定が明治三○年代に入ってどのように推移してきたか、その概観を試承てきたが、ここで指摘されるべきは、日銀信用の六つのルートすなわち手形割引、大蔵省証券

98

第58表明治後期日銀割引信用における商業手形の比重

〔年末残高千円)

手形割引

政府短期証券割引 商業手形

割引

A/B

A/B+C B+C %

35.3 32.4 40.8

348179564438511 ●0●●0Q●●●■●B●DC 詣躯如溺卯加762123476111

91,667 80,195 31,624 24,934 26,812 36,907 28,152 33,883 58,385 41j246 15,593 29b323 48,080 66,918 69,792

0(U〈U350’4284。〕3387妬鈍皿別妬鋼鯛配的四伽帥9J18F,,J77,, O』P0pLP。R)q)㈲IR〕2(5o】o】1△ 1(0421 戸◎PbP、

91,667 80,195 31,624 37,196 32,157 4a047 94,046 明治32年

33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45

大正21F

繩姉躯麺晦吋叩躯班趣醒皿”油的

321 252960750623481 J9999リ0i0100910

37.51 82956296017 11

●B●●0●●●■●● 47468680036 22211111111

82,1451

11Jil1l

大蔵省「銀行局年報」「内国手形割引種類別」より作成

三二・三三年の商業手形にはごく僅かであるが,造幣局成貨払渡証書を含む

割引、外国手形割引、定期賛、当座賛、有価

証券所有のうち、常に日銀信用の基抵部を占める外国手形割引をのぞいて全てのルートにおいて著しい変貌が染られたことであろう。三四年金融恐慌を起点とし一一一七年日露戦争勃発を画期として、日銀信用の大勢は全て国償を軸に回転するという新たな段階に突入していったのである。預金銀行として自律的な資金循環体系を築きつつあった市中の信用機構に対し、股後の貸手をめざす日銀が般終的な統御Ⅱ支配を貫徹すべく混乱のなかで選んだ管制高地は商業手形ではもはやなく国債であった。日銀手形再割引に占める本来の商業手形の比重(第五八表)は、三四年金融恐慌以前には四割ほどであったがその後漸減し、三九年からはついに三割をわり一割というあるかなきかの水鯛へ近づいていった。分母に大蔵省証券割引を加えた商業手形割引の比重を

99成立期日本信用機榔の論理と|#造(完)

みてふると、三八年からは頻繁に一割をきり四三、四年にはついに五.〈-セントをわるという未曾有の率態まで現出している。商業手形再割はかつて鉄道株担保割引に圧倒され、今また大蔵省証券割引と国債担保割引の狭撃によってみるかげしない。他ならぬ三四年金融恐慌を画期とする預金銀行主義への再編の過程で、日銀が掲げる古典的な商業手形再割引は、日銀信用の戦略ルートから排除されていった。金融政策を展開するにあたって日銀は、金融市場へ架橋する制御回路として、未だに「標準金利」を生みだしえない商業手形再割にかわって、一腿割引「市場」の中心に登場した大蔵省証券割引と国債担保手形割引へ移していったのである。紡績手形を頂点とする手形割引の市場形成は、あまり日銀信用に依存することなく自律的な胎動をくりひろげていたが、それはまだ市場と呼ぶには未熟な形成途上にあったから、日銀信用体系は自らの制御Ⅱ支配力を確保するためにも、市中への戦略ルートを商業手形から大蔵省証券あるいは国債担保へ転換せざるをえなかったのである。「とびこえ」という後進国特有の段階重層の.ハラドックスのなかで、二○世紀初頭日銀は新たな統御機構をもとめて一連の金融改革を敢行する。

四国侭担保手形割引と高率適用制

a明治期日銀公定歩合政策の変遷創成期の日本銀行はロンドンを範とする古典的な西欧金融思想とそれとは異質な後進国日本の現実とのあいだに横たわる深い亀裂のなかで、両者を架橋すべく煩悶苦闘の終ることのない道程を辿らざるをえなかった。近似的な安定点をもとめて二一一一年鉄道株手形割引、三○年個人取引の拡充、一一一七年国伏優遇政策への転換とめまぐるしい転変をくりかえしたが、その執勘な試行錯誤のつ糸かさねのなかから自らにふさわしい政策手段の輪郭を次第に明確にしてゆく。その過程は、日銀にとって唯一の政策手段ともいうべき金利政簾の転変のうちに辿ることができる。第五九表に承るごとく第一次大戦勃発に至る日銀金利政策は八つの時期に画されるが、その最後の画期をなす明治

ドキュメント内 成立期日本信用機構の論理と構造(完) (ページ 64-109)

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