︵ 一 三 ︱
︱ 六 ︶
︵分散投資する出資
(S
. 8
54 )
( G e s e l l s c h a f t s v e r t r a g )
の形成に ︵典型的な︶有限合資会社
G( mb H
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u r c h S
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m ‑ よ ︑
ある︒その企業が︑その種類と構造からするに︑分散投資する社員・組合員︵分散投資する社員・組合員を有する会 一般的な団体法の制度
( k
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n l n s t i t u t d e
s
経営者が危険に中立的に行為できるようにすることは︑換言すれば︑経営者は︑適切な情報にもとづいて︑企
(l)
業の福利のために決定をする限りは︑責任を負わないとすることは︑企業の構成員︵社員・組合員︶
るのである︒経営判断の原則が認められ︑個々の場合に不適切な企業家︵経営者︶
ということは︑経営者が危険を冒して︑危険中立的に業務を執行したことによって︑会社・組合の構成員が多くの場 に添うものではない︒
社・
組合
︶
によって担われることを企図して設けられているものである場合には︑会社契約︵組合契約︶
断の原則が行われるようにするための助けとなるような規定
( R e g e l u n g ) を有すべきであろう
︒
ただ︑明確な情況 にある個別的な場合にだけは︑同じ結果は︑定款の補充的な解釈によって
2
.経営者による危険中立的な業務執行の確保と経営判断の原則
一︑以上のような
C a r s t e n
J u
ng ma nn の見解の基礎にあるのは︑投資家個々人は危険回避的であるが︑分散投資に よって非制度的な危険を回避することができるので︑投資家は︑株式会社の経営者が危険中立的に業務を執行するこ とに強い関心を有するものであるという考え方である
︒
投資家︵あるいは︑会社・組合の構成員︶
達成することができるのである
︒
(S
.8
55 )
関 法 第 六 三 巻 四 号
の決
定︵
判断
︶
( <
l u r c h e r g a n z e n d e S a t z u n g s a u s l e g u n g ) にとって利益となるのは︑経営者が危険に中立的に業務を執行し︑積極
的な期待値のある投資を行うことである︒しかし︑その業務執行において危険が現実化すると︑経営者がその責任を 問われるということになると︑経営者は危険回避的になるおそれがあるが︑このことは︑会社・組合の構成員の利益
六六
の責任を問わない
︵ロ
一三
五 ︶
の利益にな は︑経営判
経営判断の原則の実質的根拠
るというのである︒ 経営判断の原則は認められるべきであるというのである︒ ように説くものであった︒ (2) 合に利益を得ていることの代償︵代価︶なのである︒
六七
二 ︑
C a r s t e n
J u
n g m a n n
は︑経営判断の原則の論拠︵正当化理由︶を以上のように捉えたうえ︑次にそのことから考
えて︑如何なる団体に関して経営判断の原則を適用︵あるいは類推適用︶することができるかを考察している︒
次の
分散投資をしている会社・組合の構成員は︑経営者が危険に中立的に業務を執行することによって利益を得ている
のであり︑経営者が危険回避的にならないように︑経営判断の原則のような制度が設けられているのである︒した
がって︑分散投資によって非制度的な危険が最低限に抑えられ︑あるいは除去されているような企業においてのみ︑
そうすると︑ある企業がその種類・構造からみて︑分散投資する出資者から成り立っているかどうかによって︑そ
のような企業に経営判断の原則を認めるべきかどうかも決まることになるはずである︒
以上のような基本的な考え方には︑しかし︑次のような注意すべき点があるという︒まず︑会社・組合の構成員が
無限責任を負う場合には︑分散投資をしても︑このことは︑構成員にとって︑非制度的な危険を除去し︑または最低
限にすることを意味しないから︑経営判断の原則は︑構成員が無限責任を負わない会社・組合においてのみ問題とな
次に︑理論的には︑分散投資する出資者を前提とする企業であれば︑経営判断の原則を認めるべきであるというこ
とになるが︑これによって現実にある企業に経営判断の原則の適用があるかどうかを決めることは必ずしも容易では
ない︑とされている︒なぜならば︑現実には︑ある企業の投資家は︑不均質である場合も多いのであって︑たとえば︑
( ︱ 二三 四 ︶
かざるを得ない︒
ある株式会社の株主といっても︑同じ会社の株主でありながら︑危険中立的な分散投資をしている株主と︑そうでは なくて危険回避的な投資をしている株主とが併存することもあるのである
︒すでにみたように︑
C a r s t e n
J u
n g m a n n
(3
)
は︑このことを具体例を挙げて詳論しているのである
︒
そこで︑結局︑
C a r s t e n
J u
n g m a n n は︑株式会社︑有限会社︑民法上の組合といった企業の類型を手掛かりに︑す
(4)
なわち企業の法形式を基準にして経営判断の原則を適用︵類推適用︶すべきかどうかを考察しているのである
︒
三︑投資家︵企業の構成員︶
いささか強引であるとの印象をいだ
︵ ︱
二三三︶
の利益となるように︑企業の経営者に危険中立的に業務を執行させるために経営判断の 原則が認められていると考え︑危険中立的な業務執行に伴って危険が現実化しても直ちに経営者に責任を負わせるべ
(2
)
きでないと考えるこのような見解は︑なるほどきわめて説得力があるといえる
︒
しかし︑そのような分析と主張とがいずれも強い説得力のあるものであって︑大いに傾聴すべきものであることを 重ねて確認したうえで︑しかし︑敢えて率直に素朴な疑問を述べることを許されるならば︑そのような主張や理解に
本稿において︑
C a r s t e n
J u
n g m a n n の緻密で﹁合理的な﹂議論を紹介してきておいて︑そのまとめの段階でこのよ うにいうのは︑あるいは少なからず混乱を招くおそれがなくもないが︑誤解をおそれず︑敢えていえば︑従来︑主張 されてきた多様な経営判断の実質的根拠︵論拠︶をすべて否定して︑経営判断の原則は︑経営者の危険中立的な業務
執行を確保するために必要であるという唯一の論拠に絞り込むことに対しては︑
経営判断の原則をひとつの法制度として捉える場合︑その制度が認められるに至った歴史的な経過もあるであろう
︒
もまったく疑問がないわけではない
︒
関 法 第 六 三巻 四 号
六八
まる ︒
経営判断の原則の実質的根拠
3
.わが国の議論との関係︵経営判断の原則と裁判所の対応︶
六九
また︑そういったことを無視するとしても︑およそ実定法上の制度なるものは︑しばしば必ずしも合理性がないとす らいわれるような根拠から説明されてきたのではなかったのか︒たとえば︑
アメリカで伝統的に経営判断の原則の実
質的根拠とされてきたようなことがらをすべて理由がないとして否定して︑﹁科学的﹂﹁経済学的﹂に正しい︑あるい は合理的な単独の根拠だけをその実質的論拠として捉えなおして︑経営判断の原則を解釈すべきだとすると︑それは︑
﹁正しい﹂﹁合理的な﹂制度にはなるとしても︑従来︑理解されていた制度とは異なるものになるおそれはないのか︒
また
︑
C a
r s
t e
n
J u
ng
ma
nn
の取り上げている問題は︑
ドイ
ツ株
式法
九︱
︱
一条一項
二文の法解釈に関するテーマにほか
ならないが︑ドイツ法においても︑この規定の認めている経営判断の原則は︑
C a
r s
t e
n
J u
ng
ma
nn
の理解よりは︑
もっと広い︑
より多様な根拠に基づくものであると解されてきたのではなかったのか︒もちろん︑法解釈によって︑
ある法規定を制限的︑限定的に解釈することはできるが︑ここで問題とされている株式法九︱︱
一条一項二
文の解釈は︑
本当にそれでよいのであろうか︒ここで否定された経営判断の原則の論拠のいくつかに関しては︑仮に︑結局は︑
C a
r s
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n J
un
gm
an
n の 見 解 に 従 う と し て も
︑ 少 な く と も
︑ 再 度
︑
C a
r s
t e
n
J u
ng
ma
nn
が引用しているような文献
にまで立ち返って︑その議論を再確認する必要があるとの印象を免れないのである︒ここでは︑問題を指摘するに止
右に挙げたような疑問は︑なお残っていると考えるが︑それでもなお︑
C a
r s
t e
n
J u
ng
ma
nn
の経営判断の原則の実
質的根拠に関する分析と理解がきわめて説得力のあるものであることは否定できないであろう︒
(︱ 二三 二︶
fo
︑ つ +
その詳細は︑別稿に譲らざるを得ない︒ □︵‑ 三 一 ︶ 一︑そうすると︑次に問題となるのは︑このような見解のわが国における議論への影響である
︒
C a r s t e n
J u
n g m a n n のような見解は︑わが国における経営判断の原則に関する議論にどのような影響を与えることになるであろうか
︒
C a r s t e n J
u n g m a n の取り上げている﹁経営判断の原則は︑すべての団体において認められるべきものかどうか﹂とn いった問題︑あるいは経営判断原則の適用範囲に関する問題に関しては︑
C a r s t e n
J u
n g m a n n
の見解は︑大いに参考
(5 )
になると考えられる︒本来ならば︑これは︑ここで詳論すべき問題であるが︑本稿は︑予定した紙幅を超えたので︑
ここでは︑本稿のまえがきにおいて指摘した経営判断の原則と裁判所の対応の問題にひとこと抽象的に言及するに
止まる︒経営判断の実質的な論拠を﹁経営判断の原則のような制度を認めることは︑投資家の分散投資による利益の
追求に資するものである﹂ということに求めるとすると︑そのこととの関係において︑
おいて指摘したような問題はどのように考えるべきことになるのであろうか︒裁判所は︑経営判断の過程・内容に対
して積極的に吟味・介入すべきか︑それとも抑制的に対応すべきなのであろうか︒ たとえば︑本稿のまえがきに
仮に︑わが国の判例・通説の説くような経営判断の原則の理解を前提とし︑また︑その実質的な根拠に関して C a r s t e n J
u n g r n a n n のような見解をとるならば︑このことは経営判断の原則の理解にどのような影響を与えるであろ
たとえば︑仮に︑経営判断の原則を﹁︹経営判断は︑︺その決定の過程︑内容に著しく不合理な点がない限り︑取締
役としての善管注意義務に違反するものではないと解すべきである﹂︵最判平成
二二
年七月一五日金融商事判例ニ︱︱
四七号
︱ 二 頁︶という命題として表現するとするならば︑
C a r s t e n
J u
n g m a n n
の見解によれば︑この﹁取締役の経営
関 法 第 六 三巻 四 号
七〇