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第 4 章 長野県における健康長寿に向けた取組について

4.4 保健活動

4.4.2 保健活動(戦後復興期)

(1) 保健補導員の誕生

66

戦後から昭和30年代までは保健補導員の創成期と言える。長野県における保健補導員は旧

高甫た か ほ村(現須坂市)が発祥と言われている。昭和19(1944)年に旧高甫村に保健師として大

峡美代志氏が赴任して保健活動を開始したことが保健補導員設立の契機なった。昭和20(1945)

年4月には保健施設の下部組織として15名の家庭婦人を保健補導員の名称で委嘱し、大峡保 健師の指導のもと、保健活動を行った。

須坂市の保健補導員の活動方針では、当時から保健補導員組織を主婦の健康学習の場として 位置づけている。すなわち、2年の任期中に、ある程度の医学知識と健康を守る技術を身につ け、家庭あるいは地域社会にそれを還元していこうとしていた67。(北信圏域に記載)

この須坂市の保健補導員活動を起源に、県内各地に保健補導員の活動が広がって行った。

また、昭和24(1949)年には厚生省も国民健康保険の保健施設への拡充強化に関して、「厚 生省保険局長・公衆衛生局長通知」により、「保健指導の実施に当たっては平素より(中略)

保健補導員と連絡を密にし、その組織的活動を促すこと」とした実施方針を示した。

(2)保健所の予防活動

県内の保健所は昭和 24(1949)年の時点では県下に 18 か所(支所除く)設置され業務に あたっていた。昭和31(1956)年からは総務、保健予防、環境衛生の3課制度となっている。

昭和30年代に入ると、普段、保健所を利用できない人々に対する健康保持増進と住民の衛 生思想普及を図るため、各圏域において、保健所の職員が出向いて、病気の早期発見・治療指 導、食生活指導等を行う移動保健所が実施された68

(3)母子保健活動

長野県においては、明治期には全国と比較して死産の割合が高かったが、近代的な産科学に 基づく産婆制度が整備され、明治期後期(1900年代)以降、乳児死亡、妊産婦死亡率は減少 していった69。しかしながら、戦後復興期においても妊産婦死亡率や周産期死亡率は欧米と比 較すると依然高く、県下でも未熟児対策(昭和33(1958)年)、新生児訪問・3歳児健診(昭

和36(1961)年)など育児支援が強化された。

(4)国民健康保険事業の発展

昭和 13(1938)年に「国民健康保険法」が公布され、長野県では昭和 19(1944)年まで

に国民健康保険が全県で実施されるまでに発展した。戦後は、厚生省の指導のもと、昭和 23

(1948)年に国保直営診療施設(以下、直診施設)の相互連絡機関として長野県国保直営診 療機関協議会が創立され、直診施設も国保の保健施設として診療のみならず住民の健康保持増 進をその任務とされた。これにより県単位で地域医療活動が直診施設を通じて保健師とともに

66 長野県保健補導員会等連絡協議会:創立20周年記念誌:24-28,2006.

67 長野県須坂市保健補導員会:須坂市保健補導員会50年のあゆみ-市民の健康をねがって-:33,2008.

68 全国保健婦長会長野県支部:保健婦(士)のあゆみ ながのけん:39,1999.

69 湯本敦子:長野県における近代産婆の確立過程の研究.信州大学大学院人文科学研究科地域文化専攻修士論文, 2000.

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実践されることになった。その後、診療と保健予防活動の二本柱を地域に密着して住民ととも に実践するため、昭和37(1962)年、国保直営診療機関協議会は、国保連合会と統合された

70

(5)結核予防会の発展と結核予防婦人会の発足

香淳皇后の御令旨を受けて、財団法人結核予防会が設立されると、昭和15(1940)年に本 県にも「結核予防会長野県支部」が設立された。戦前の支部活動は、結核予防対策の調査研究 や結核予防教育の普及などが主であったが、戦後は複十字シール募金をもとにしたレントゲン 車による結核検診などの事業を展開していった71

昭和25(1950)年に秩父宮妃殿下の県内視察と御代田村(現御代田町)の小学生結核集団

感染を契機として、結核予防婦人会が県内各地で設立され、昭和32(1957)年には日本初の 全県組織である結核予防婦人会長野県連合会の設立に至った72。結核予防会と連携して、結核 予防知識の啓蒙、健康診断や検診の推進、複十字シール運動などの結核予防活動に努めた73。 こういった結核予防活動などの効果もあり、結核による死亡や乳幼児死亡の改善が図られた。

全国と長野県の結核患者の死亡数及び死亡率の推移を

図表

128に示した。これによると、

長野県の死亡率は昭和 30(1955)年を境に大幅に減少し、昭和 45(1970)年には長野県の 結核死亡率は 8.2(人口 10 万対)まで下がり、戦前から一貫して全国と比較して低い死亡率 となっている。

図表 128 結核患者の死亡数及び死亡率の年次推移(人口 10 万対)

(出典)長野県衛生年報(平成

22

年)及び厚生労働省「結核登録者情報調査」

70 長野県国保地域医療推進協議会:信濃の地域医療-国保地域医療協十周年記念誌-:24,1981.

71 結核予防会長野県支部:創立50周年記念誌:1-17/28-29,1990.

72 結核予防会長野県支部:創立50周年記念誌:79-83,1990.

長野県健康づくり事業団から提供資料

73 全国結核予防婦人団体連絡協議会及び長野県健康づくり事業団のウェブページ

死因順位 死亡数 死亡率

(

死亡数 死亡率

昭和25年 1位 121,769 146.4 2,183 105.9

  30  5位 46,735 52.3 644 31.9

  35  7位 31,959 34.2 362 18.3

  40  7位 22,366 22.8 253 12.9

  45  8位 15,899 15.4 161 8.2

  50  10位 10,567 9.5 103 5.1

  55  13位 6,439 5.5 100 4.8

  60  16位 4,692 3.9 54 2.5

平成2年 17位 3,664 3.0 35 1.6

   7  23位 3,178 2.6 33 1.5

  12  24位 2,656 2.1 39 1.8

  17  25位 2,296 1.8 26 1.2

  22  26位 2,129 1.7 26 1.2

年 度

全 国 長野県

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(6)禁煙友愛会の発足

昭和30(1955)年、長野県伊那市で小坂精尊氏が「禁煙友愛会」を設立して禁煙運動を開

始した。同組織はボランティア組織であり、後に「社団法人日本禁煙友愛会」へと発展してい った。同組織は、禁煙を求める署名活動や国・県に対する陳情などの活動を続けた74。禁煙友 愛会は、会としての活動が認められ、平成11(1999)年には世界保健機関(WHO)より表 彰を受けている。

(7)この時代の長野県の特徴

戦争からの復興がテーマであったこの時代の健康課題は、急性感染症及び結核や寄生虫の予 防であった。

昭和22(1947)年の保健所法改正により、保健所や保健師の役割が明確化され、地域にお

ける保健活動が展開されるとともに、長野県では全国に先駆けて保健補導員の組織が誕生し、

保健師の指導のもと自主的な保健活動が展開されていった。

また、結核予防会の設立や禁煙友愛会などの保健活動も地域で始まっている。

戦後は、物資等が不足するとともに、公衆衛生の水準も十分でない中ではあったが、本県の 特徴となる活動が県内で開始された時期でもあった。

74 日本禁煙友愛会:創立50周年の歩み:1-7,日本禁煙友愛会,2005.

日本禁煙友愛会への聞き取り

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